パトロナ・ハリル

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パトロナ・ハリル (アルバニア語:Halil Patrona; トルコ語:Patrona Halil) は、1730年頃のオスマン帝国において、当時のスルタンアフメト3世を新たなスルタン・マフムト1世に交代させ、チューリップ時代を終わらせた反乱の扇動者[1][2]

パトロナ・ハリルの肖像画(画・ジャン・バティスト・ヴァンムール英語版)

生い立ち

パトロナ・ハリルは現在の北マケドニアビトラ近郊の村、アルゴス・オレスティコ英語版で、アルバニア系の家に生まれた。その後、イェニチェリとなった彼は、現セルビアニシュでのイェニチェリによる反乱に参加し、1720年には現ブルガリアヴィディンで反乱を率い、その後コンスタンティノープルに移った。彼はハマムの使用人として働くなど、小規模な商人、職人に従事していたようである[2]。また、彼は船乗りでもあった。また、ガラタメイハネ英語版に頻繁に入り浸っていたようである。彼はその出自と民族から「ホルペシュテリ・アルナヴト・ハリル」と呼ばれ、アルバニア人の同胞らは彼を「パトロナ(副提督)」と呼んだ。

反乱

パトロナ・ハリルの反乱

ハリルはおよそ12,000人のイェニチェリ(ほとんどがアルバニア人であった)に支持されて反乱を起こすと、数週間で帝国を掌握した。そして、新たなスルタンとともにエユブ・スルタン・モスク英語版に向かい、マフムト1世にオスマンの剣を縛る儀式を行った。多数の旧主要将校らは解任され、反乱者たちの命により、一般兵士の姿かつ裸足で新たなスルタンの前に出廷させられた。ギリシャ人の肉屋だったヤナキは、反乱中ハリルに資金を貸しており、これに感謝したハリルはヤナキをモルダヴィアゴスポダーリ(統治者)に任命させた。しかし、実際にはヤナキは従わなかった。

反乱は、クリミア・ハン国大宰相ムフティー、イェニチェリのアガらを支援して鎮圧した。ハリルも捕らえられ、スルタンの前で処刑された。また、友人だったヤナキや、約7,000人の支持者らも同様に処刑された。

一連の反乱は治安や犯罪に対するオスマン帝国の意識改革につながり、コンスタンティノープルにおける国家政策に影響した[2]

脚注

参考文献

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