パーヴェル・キセリョフ
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| パーヴェル・キセリョフ Павел Киселёв | |
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キセリョフの肖像画 | |
| 生年月日 | 1788年1月8日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1872年11月14日(84歳没) |
| 死没地 |
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| 前職 | 軍人、外交官 |
| 称号 | 伯爵 |
| 親族 |
ニコライ・ミリューチン(甥) |
| 在任期間 | 1837年 - 1856年 |
パーヴェル・ドミートリエヴィチ・キセリョフ伯爵(ロシア語: Павел Дмитриевич Киселёв, ラテン文字転写: Pavel Dmitrievich Kiselyov、1788年1月8日 — 1872年11月14日)は、ロシア帝国の軍人、政治家、外交官。ニコライ1世の時代に開明的な改革派として活躍し、農奴制の制限案などの作成で知られる。
ナポレオン戦争に従軍し勲功を上げた。ボロジノの戦いではミハイル・ミロラドヴィチ将軍の下で、副官を務めた。1814年のパリ入城にも参加し、皇帝アレクサンドル1世の副官を務めた。
1819年ロシア第二軍参謀長に任命されトゥーリチンに赴任した。第二軍参謀長時代に軍内部における体罰の有罪化や、将兵の勤務の緩和などを実施した。これら一連の試みはキセリョフがその後に行った自由主義的改革の嚆矢となったが、キセリョフの行為は、アレクサンドル1世の寵臣として権勢を振るっていた陸軍大臣アレクセイ・アラクチェーエフの憎悪を買うこととなった。また、後にデカブリストの乱の首謀者として処刑されたパーヴェル・ペステリ大佐は、トゥルチンでキセリョフの下僚として勤務し目をかけられていた。ペステリらはトゥーリチンでデカブリストの秘密結社「南方結社」を結成したため、最終的には不問に付されたものの、反乱事件に対してキセリョフの自由主義的な思想と行動がどれだけ影響を与えたか、キセリョフ自身の関与の有無を含めて議論となった。