ビョルヴィカ(2004年撮影)。まだ海上コンテナが積まれた港湾地区だった
オスロの町は11世紀頃、アルナ川がオスロ・フィヨルドのビョルヴィカの入り江に流れ込んでいる、戦略的にも交易上でも重要な位置に建てられた(当時の市街地はビョルヴィカの東の、現在のガムレビエン地区にあたる)。1100年には司教座になり、1300年頃には人口は3,000人に達した。アーケシュフース城の建設は1299年に始まっている。当時のオスロは木造の家屋が立ち並んでおり、6つの教会、3つの修道院、王の館と司教の館が建っていた。しかし15世紀から16世紀にかけてオスロは衰退した。特に1537年には、デンマーク=ノルウェーでの伯爵戦争終結の結果、宗教改革が進展しカトリックが追放され教会領も没収され、さらにノルウェー王国参事会も廃止されてノルウェーは王国からデンマーク王国の一属州となった。これらの出来事でオスロの経済的基盤は破壊され、度重なる大火もオスロを衰弱させた[1]。
1624年の大火の後、国王クリスチャン4世はオスロをアーケシュフース城の付近に移転させ、格子状の街路を整えてレンガ造りの建物を建てさせ、町の名も自らの名にちなみオスロからクリスチャニアへと変えた。クリスチャニアは木材の輸出港として再び繁栄し、新しい町の東にあるビョルヴィカの入り江はオスロ港の中心になった。市民は1801年には8,900人に増えている[1]。
1917年のオスロの地図のうち、ビョルヴィカの部分
1814年、ノルウェーはデンマークからスウェーデンに割譲され、スウェーデン=ノルウェー同君連合のもとで独自の憲法や議会や政府を持つこととなり、クリスチャニアはノルウェーの政府所在地となった。1840年頃からノルウェーの産業化が始まり、アーケル川沿いに工場が建ち始めた。人口の激増と都市基盤の建設でビョルヴィカは大きく姿を変えていった。1835年に18,000人だったクリスチャニアの人口は1890年には151,000人に増加した。1854年にはクリスチャニアとミョーサ湖を結ぶノルウェー最初の鉄道が開通し、クリスチャニア側の終着駅は当初ビョルヴィカより東のガムレビエン地区に造られた。この駅をより都心に近い場所に伸ばした上で、増加する列車をさばける大きな駅にしようという試みが続けられ、土地買収の上、ビョルヴィカのアーケル川河口をまたぐように「東駅」が1882年に造られた。これが現在のオスロ中央駅にあたる。ビョルヴィカの海側には埠頭が作られ、その上を東駅から分かれた鉄道の貨物線が走るようになった。1878年には砕氷船を使って、オスロフィヨルドの海氷を取り除いて航路を年中開放する試みがなされた。こうして1900年にはクリスチャニア港はノルウェーだけでなく世界の海運でも重要な港になるに至った[1]。
ビョルヴィカのスカイライン
1960年、ノルウェーでは自動車販売の規制緩和で自家用車販売数が激増し、新たな道路が求められるようになった。1970年にはビョルヴィカの埠頭と市街地の間に新たな道路が完成した。一方でオスロ市街地の東西で行き止まりになっている鉄道を都心の地下トンネルで結ぶ工事が進み、1980年にはオスロトンネルが開通し、1987年には拡張工事の完成したオスロ東駅が新たなオスロ中央駅となった。
オスロ市庁舎の西にあったオスロ西駅は廃止され、駅舎はノーベル平和センターとなり、その近くでは造船所が1982年に閉鎖された跡を利用したウォーターフロント開発によりアーケル・ブリッゲ (Aker Brygge) と呼ばれる繁華な再開発地区が1980年代後半から1990年代にかけて誕生した。一方でビョルヴィカは港湾としての利用が続けられ、1960年代から始まったコンテナ化の流れにも対応したものの、次々建設される新たな高速道路やコンテナヤードなどの港湾施設によって、オスロ中央駅の北側の市街地と水辺との間がますます隔てられていった。