ビルマ国
1943年から1945年にかけてミャンマーに存在した日本の傀儡国家
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成立
1941年(昭和16年)12月26日、アウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)が設立され、日本軍(緬甸方面軍)と共にイギリス統治下のビルマへと進軍(ビルマの戦い)、翌1942年6月にはイギリス軍を駆逐してミャンマーを占領した[2]。
1943年3月10日、大本営政府連絡会議は「緬甸独立指導要綱」を策定[3]し、同月18日東京を訪れたバー・モウとアウンサンらに「独立」に関する指示を与えた。しかし、件の要綱はミャンマーを「指導者国家」とすべしと定めており、王政も議会制も集団独裁体制も排され、日本軍から適任とされたバー・モウを首班とする個人独裁体制が採られることになった[注釈 1][4]。
同年8月1日、ビルマ国の独立が宣言され、英領ビルマ初代首相だったバー・モウが国家代表(Naingandaw Adipadi)兼首相に就任[注釈 2]。ビルマ国を承認したのは日本[5]、ドイツ、イタリア、タイ、中華民国(汪兆銘政権)、満州国[6]、クロアチア、スロバキア、ブルガリア、バチカン市国の10か国、祝福のメッセージを送ったのは、スペイン、フランス、仏領インドシナだった[7]。また独立と同時に、ラジオ放送を通じてアメリカとイギリスに対して宣戦布告した[8]。
ビルマ国は憲法にあたる全64条からなる国家構成に関する基本法を制定し、その中で主権を有する「完全なる独立国家」とした[9]。国会代表のバー・モウには立法大権、行政大権、任命大権、統帥大権、認可大権が認められ、国家代表の諮問機関として枢密院が設置されたが、議会はなく、内閣は国家代表にその責任を負った[10]。一方、独立と同時に締結された「日本国緬甸国軍事秘密協定」[11]により、約20万人の日本軍は引き続きミャンマーへの駐留が認められ、その行動の自由が保障され、軍隊(ビルマ国民軍)と警察に対する指揮権が認められていた。つまり、突出した権限を有するバー・モウさえ操れば、日本軍の思いどおりになる体制が整えられており、独立とは名ばかりの日本の傀儡政権だったのである[7]。
バー・モウは、閣僚15名と枢密院議員17名を任命し[12]、その大半は親英エリートミャンマー人だったが、アウンサンを国防大臣に(ビルマ国民軍《BNA》最高司令官も兼任)、ウー・ヌを外務大臣に任命するなどタキン党の人材も登用した[2]。
経緯
バー・モウは、日本に認められた「合法」的枠内に限定されていたとはいえ、ミャンマー語の公用化推進、行政区画の簡素化、国軍独自の軍法作成など精力的に改革に取り組んだ。また、日本軍の主権侵害には強く抗議し、必ずしも日本の言いなりではない側面もあった。バー・モウは1943年11月4日・5日に東京で開催された大東亜会議にも出席し、のちに大東亜会議が1955年のアジア・アフリカ会議の精神を先取りしていたと評価している[13]。
ただ、日本支配の評判たるや惨憺たるもので、日本軍がミャンマーに持ちこんだ憲兵隊は、反日活動の疑いをかけた者を容赦なく拷問にかけ、気に入らないことがあれば一般市民を平手打ちし[14]、コレラの予防注射証明書の提出が遅い女性のスカートを公衆の面前でまくるなど乱暴狼藉を働いた。憲兵隊は「キンペイタイ」と今でもミャンマー語に残り、語り草になっている。また本来裸足入るべきパゴダに軍靴のまま上がったり、ミャンマーではご法度な人前で全裸になって水浴びをしたり、ミャンマーの価値観にそぐわない日本兵たちの行動も顰蹙を買った[15]。
のちに国連事務総長となったウ・タントは以下のように回想している[12]。
例えば、日本の一等兵は、自分に対して無礼な態度を取ったビルマ人を平手打ちした。その結果、4年間の日本統治下におけるビルマ人の気分は、激しい恐怖感と完全な無力感に特徴づけられた…私が驚いたのは、私の経験上、最も教養があり、最も文明的で、最も礼儀正しい国民の一つである日本人が、最も傲慢で残忍な支配者になり得るという事実だった。 — ウ・タント
また日本軍は、1942年10月以降は早くも制空権を失い、主要都市や軍事基地が英空軍の空襲に晒され、建物・インフラが破壊された。また最大の輸出品だった米は、国際市場との繋がりの喪失、日本軍による家畜の徴発、労働者の徴用、インド人の大量退去による労働力不足、前述のインフラ破壊により、1938‐1939年度には輸出量が330万トンだったのに、1943‐1994年度には30万トンにまで減少し、作付面積と生産量も大幅に減少した。そんな中で日本軍は軍票を乱発したので、物価は1941年12月から1945年6月にかけて87倍に上昇、ハイパーインフレーションは人々の生活を圧迫した。1942年6月から始まった泰緬鉄道の建設には、ミャンマー人も10万6千人徴用され、劣悪な労働環境と拷問のせいで4万人以上が命を落とした[16]。
崩壊
1944年3月から7月にかけて展開されたインパール作戦が失敗に終わると、日本の戦局は悪化の一途を辿り、同年4月25日、バー・モウは、南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の教唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一に暗殺されそうになったが、護衛していた兵士が警戒してことなきを得た[17]。
1945年3月27日、アウンサン率いる反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日蜂起を開始[注釈 3]。日本軍に見捨てられたバー・モウは、4月23日、自ら中古バスをチャーターして、ラングーンからモーラミャインの南のムドン村まで逃げのびた。バーモウはしばらくそこで身を隠していたが、8月14日夜、日本のポツダム宣言受諾を知ると、最後の閣議を開いてビルマ国としても宣言を受諾する旨を決定し、ここにビルマ国はその短い歴史に幕を下ろした[2]。
その後
教育政策
日本側は日本語に英語に代わる外国語として学校で教えるよう主張したが、バー・モウは、膨大な英語文献をミャンマー語に翻訳することが当面の課題だと主張し、学校とは別に日本語学校は設立されたものの、日本語は選択科目とされた[19]。