アウンサン
ビルマ・ミャンマーの独立運動家
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生涯
生い立ちから学生時代

1915年2月13日、ビルマ中部、現在のマグウェ地方域ナッマウの町に、6人兄弟の末っ子として生まれる。名前の「アウン」は「勝利」「成功」、サン「驚くべき」「珍しい」という意味である。父親のウー・パは農家出身の弁護士、母親はドー・スーで、ウー・パーにはほとんど仕事がなく、ドー・スーが家族を養っていた。ちなみに、母親の叔父・ウー・ミンヤウンはイギリスに対する最初の抵抗組織を指揮し、斬首刑に処せられた人物である[2]。
当時を知る人によれば、明朗、繊細、正直、弱者への同情心に溢れる愛すべき性格だったのだという。甘えん坊で8歳になるまで学校にいかず、その後、僧院学校で読み書き算盤を学んだ。13歳の時に、兄のバウィンが教師をしていたイェナンジャウンの民族学校[注釈 1]に転校した。学業は優秀で、15歳で奨学金を取得し、高校入学前の国家試験では全国1位にもなった。また、民族学校にはナショナリストの教師が多く、彼らに感化されてアウンサンも高校時代に政治に目覚め、討論会に参加したり、新聞の編集に携わったりした。とっつきにくく、よく物思いに拭け、変わり者という評判だったのだという[3][4]。
1933年にラングーン大学に進学し、英文学、近代史、政治学を専攻[注釈 2][注釈 3][5]。容姿や服装に無頓着で、部屋はとっ散らかっていたが、大変な読書家だった。また、引き続き政治へに関心を持ち、下手な英語[注釈 4]で英語の弁論大会に出場した(その後、英語は上達)[3][4]。当時の彼の英雄は、エイブラハム・リンカーンと19世紀のメキシコの民族主義指導者ベニート・フアレスで、エドマンド・バークの議会演説を何時間もかけて暗記したのだという[5]。在学中ラングーン大学学生組合(RUSU)の執行委員となり、RUSUの機関誌『オウェイ(Owei、「孔雀の鳴き声」の意)』の編集者にもなった[6]。
1936年2月、アウンサンは機関誌に掲載され問題になった、ラングーン大学ユニバーシティ・カレッジ学長D.J.スロスを批判したとされる『悪魔の犬がうろつく(Hell Hound Turned Loose)』 というエッセイの筆者「ヤマミン(閻魔王)」の正体を隠し通したことにより、3年間の停学処分を受けた。このことは、その前にウー・ヌが同じく学長批判で退学処分となったことと相まり、ラングーン大学第二次学生ストライキを引き起こし、結局、大学はアウンサンの停学処分を取り消した。1938年にはRUSUと全ビルマ学生連合(ABSU、全ビルマ学生組合連合《ABFSU》の前身)の議長に選出され、ビルマ学生界のリーダーとなった[7][8]。
独立運動
1938年、アウンサンは大学を卒業し、文学士号を受与された[注釈 5]。その後、ウー・ヌと同じく法科大学院で法律を学びながら学生運動に関わっていたが、同年10月、ウー・ヌとともにわれらビルマ人連盟(タキン党)に勧誘され、大学を中退して専従党員となった。組織が分裂すると、タキン・コウドオ・フマイン派(本部派)につき、同年11月には早くも書記長に選出され、党ナンバー2となった。1938年から1939年にかけての「1300年革命[注釈 6]」の際には、一連のストライキ活動を組織したが、その成果は不十分で、英植民地体制に打撃を与えることはできなかった[9][10]。
1939年8月15日のビルマ共産党(CPB)が結成された際には、結党メンバーの7人の内の1人となり、書記長に就任した[注釈 7]。しかし、アウンサンは共産主義にさほどのめりこむことはなく、組織も翌年には自然消滅。1940年にはタキン党とバー・モウの貧民党、ABFSUが合併して大衆反英組織自由ブロックを設立し、アウンサンは書記長に就任、「戦争終結後にビルマの独立が保証されない限り、イギリスの戦争に協力しない」とするキャンペーンを行った。しかし、イギリス当局はこのキャンペーンを取り締まり、バー・モウや、ウー・ヌなどタキン党のメンバーを大量に逮捕投獄。アウンサンにも逮捕状が出だが、捜査網を逃れ、地下に潜伏した[9]。
30人の同志
この頃から、タキン党のメンバーは武装闘争を模索するようになり、兵器の供給先として中国国民党、中国共産党、インド国民会議が挙がった。1940年8月、アウンサンはタキン・フラミャインとともに、中国共産党との接触を図るべく、中国人苦力に変装して、中国人船ハイリー号(海利号)に乗り込み、ビルマを脱出、8月8日厦門に到着した。しかし、そこで日本軍憲兵に発見され、2人は東京に連れていかれた。東京ではビルマ工作に携わっていた鈴木敬司大佐[注釈 8]に引き合わされ、日本軍に協力するよう要請された。ナガニ図書クラブから出版されていた『日本のスパイ[注釈 9]』という本で、日中戦争における日本の蛮行を知っていたアウンサンは、当初日本との協力に躊躇したが[11]、結局、鈴木に説き伏せられ、両者はタキン党が日本軍のビルマ侵攻に協力する代わりに、日本がビルマの独立を約束することで合意した。ただし、「ビルマ独立」は鈴木の独断で参謀本部の許可は得ていなかった[12]。
アウンサンには「面田紋次[注釈 10]」という日本名も与えられ、日本語を学び、時に着物を着た。アウンサンは、日本人の愛国心や清廉さ、国の発展ぶりに敬意を抱いていたが、鈴木大佐から娼婦を提供された時は、「大佐は自分を堕落させようとしているのではないか?」と疑い、大変困惑したのだという[13]。また、日本に滞在中、アウンサンは、「ビルマのための青写真」を執筆。枢軸国への共感を明らかにした[12]。
私たちが望むのは、ドイツやイタリアに代表されるような強力な国家統治である。国民は1つ、国家は1つ、政党は1つ、指導者は1人のみである。議会による反対勢力は存在せず、個人主義のナンセンスもあってはならない。すべての人は、個人よりも優位な国家に従わなければならない...行政、司法、財政において、法の支配よりも権威の支配が優先されるべきである。 — アウンサン
1941年2月、南機関が正式に発足。アウンサンは再び中国人に変装して海路でビルマに戻り、タキン党とABFSUから、のちに「30人の同志」呼ばれる若者たちを募り、当時日本軍の占領下にあった海南島で4か月に渡って厳しい軍事訓練を受けた。アウンサンはここでもリーダーシップを発揮し、仲間を統率した。ただ、好色で博打好きなネ・ウィンとは反りが合わず、事あるごとに喧嘩になっていたのだという[14]。
日本軍との共闘
太平洋戦争開戦後の1941年12月28日、アウンサンら30人の同志が中心となって、バンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)創設された[注釈 11]。結成の際、メンバーは、過去のビルマの貴族の儀式に則り、指を切り、血を注ぎ、忠誠の誓いを立てた。この際、メンバーには戦闘名が与えられ、アウンサンは「テーザ(火)」と名乗ったが、定着しなかった。アウンサンには少将の地位を与えられ司令部に配属された[15][16]。
1942年1月4日、日本軍[注釈 12]はビルマに侵攻開始。3月8日、首都ラングーンを占領し、7月にはビルマからイギリス軍を駆逐した。BIAがラングーンに凱旋した際、市民からは熱狂的に歓迎されたが、BIAの役割は日本軍の補助にすぎなかった[15]。また、戦闘が始まったばかりの1942年2月、アウンサンは、モン州タトン県パウン郡区テービューゴン村でイギリス軍と通謀していたムスリムの村長[注釈 13]を公衆の面前で処刑するという事件を起こした。アウンサンは村長を刀で斬りつけたが、とどめを刺すことができず、最後は部下にやらせたのだという[17][18]。

ラングーンに戻った後、アウンサンは戦いに傷を癒やすためにラングーン総合病院に入院した。しかし、今や国民的英雄となったアウンサンを怖がって、新参の看護婦たちは近寄ろうとせず、代わりにベテラン看護婦のキンチーが介護に当たった。内気な性格のアウンサンはそれまで女性には無縁だったが、献身的に介護に当たるキンチーにすっかり魅せられた。やがて2人の間に愛が芽生え、1942年9月6日、出会って2か月で2人は結婚した[19]。
1943年3月18日、バー・モウとともに再来日し、東條英機首相に歓迎され、天皇から叙勲された。そして同年8月1日、ビルマ国が樹立され、バー・モウが「Naingandaw Adipadi(ビルマ語で国家元首を意味する一般名詞)」に就任し、アウンサンは国防大臣とビルマ国民軍(BNA)最高司令官に就任した。当初、日本軍はアウンサンを最高指導者に考えていたが、容姿もスタイルも魅力的ではなかったため、バー・モウを選んだのだという[20]。ただ、アウンサン自身はバー・モウを年長のベテラン政治家として一目置いていた[16]。しかし、ビルマ国は日本の傀儡政権であり、そのことにすぐに気づいたアウンサンらは、密かに抗日闘争の準備を進めていった[注釈 14][15]。
抗日闘争
インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年8月、アウンサンらは抗日闘争に勝機ありと見て、反ファシスト機構(Anti-Fascist Organization:AFO)を結成した。当初、アウンサンは抗日蜂起に慎重だったが、テインペーらAFPFLのCPBメンバーが着実に連合軍との関係を構築するにつれ、準備を加速させていった[21]。
そして、1945年3月27日(現在国軍記念日となっている)アウンサンは日本軍への全面攻撃を開始。その際、アウンサンはバー・モウにお詫びの手紙を書いたが、バー・モウの元に届いたのは、戦後かなり経ってのことだった。バー・モウはアウンサンの抗日蜂起計画を薄々知っていたが、日本軍には伝えなかったのだ[22]。そして同年5月1日、AFOはラングーンを解放し、6月15日には対日勝利を宣言、ラングーンで戦勝パレードが行われた。同年8月、AFOは反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)に改名した[23]。
それに先立つ5月16日、アウンサンは、日本の軍服・軍刀姿で、ビルマにおけるイギリス軍最高司令官ウィリアム・スリム将軍を訪問。自分はAFOが設立したビルマ臨時政府国防大臣であり、日本軍を放逐した後はビルマは独立する意思であることを告げた。驚いたスリムが、まずはAFOの軍隊を連合国軍の指揮下に入れることを提案すると、アウンサンは了承した。スリムが「ここに来て、このような態度を取るのは、かなりのリスクを負っていると思わないか?」と尋ねると、アウンサンは「いいえ」と答え、「なぜ?」と問われると「あなたがイギリス軍将校だからです」と答えた。このアウンサンの態度に、スリムは大変な感銘を受け、新しいビルマのリーダーの誕生を深く印象付けたのだという[24]。
独立闘争
イギリス帰還後、アウンサンは軍隊を去り、政治に専念した。1945年5月17日、イギリス政府は『ビルマ白書』を発表し、戦後の対ミャンマー政策を明らかにした[25]。しかし、その内容はアウンサンらが満足するようなものではなく、あくまでも完全独立を要求した。1946年3月には、行政参事会のメンバーで、タキン党でアウンサンと対立していたタキン・トゥンオウッが、戦中にアウンサンがムスリムの村長を処刑した事実を告発。イギリス当局は、この件でアウンサンを逮捕しようと試みたが、結局、断念した[26]。
アウンサンの敵はイギリス当局だけではなく、内部にもあり、あくまでも武力による独立を目指すCPBや、ウー・ソオなどの戦前政治家やタキン党の対立派閥に属していた人々が、事あるごとにアウンサンを妨害した。アウンサンは、ビルマ提督レジナルド・ドーマン=スミスと会談した際、「私は(国民的英雄に)なりたかったわけではない」「ただ祖国を解放したかっただけだ。だが、今はとても孤独だ」「国民的英雄はどれくらい長く生きられるというのか?この国では長くは続かない。敵が多すぎる……私はあと18か月以上は生きられないと思う」と涙を流して語ったのだという[27]。
1946年8月、ドーマン=スミスに代わってヒューバート・ランスが新しいビルマ総督になると、ランスは新しい行政参事会にアウンサン含むAFPFLのメンバーを6人起用し、アウンサンは国防大臣、外務大臣、議長代理を兼任、実質アウンサン内閣が成立した。この際、アウンサンは国民に向けて声明を発表し、「私は神でもなければ、魔法使いでも手品師でもありません...私たちが求めている独立と公共の福祉を達成するために...国民のみなさんも地面にしっかり足をつけてくれることを、もう一度お願いしたいのです」と述べた[28]。
1947年1月27日、英首相クレメント・アトリーとの間でアウンサン=アトリー協定が結ばれ、「管区ビルマと辺境地域を統合した1年以内のビルマの独立」が確認された。2月27日には国内各少数民族代表たちとの間で「パンロン合意[29]」結び、全ミャンマーが1つの連邦国家として独立することについて各代表の快諾を得た。この際、アウンサンが残した「もしもビルマ族が1チャットを得るのであれば、あなたがたも同じく1チャットを受け取れる」という言葉は、今でも語り草になっている。そして、同年4月に実施された制憲議会選挙で、AFPFLは182議席中171議席を獲得して大勝した[30][28]。これで独立をほぼ達成したが、アウンサンは疲労困憊しており、1947年2月10日にヤンゴンのアメリカ総領事館でアウンサンに会ったアール・L・パッカーによると、「非常に疲れていて、あまり話が通じない」様子だったという[31]。また、周囲には「独立したら、政治から離れて、家族との生活や著作に専念したい」とこぼしていたとも伝えられる[28]。
1947年5月29日、憲法草案準備会議で1時間にわたって行った演説で、アウンサンは、以下のような国家像を語っている[32]。
- 「最大多数の最大幸福」を実現するために「真の民主主義」を確立する。
- 人民主権にもとづく共和制が必要不可欠。
- 経済体制は、究極には社会主義を目指すが、中間段階としての資本主義を認める。
- 私兵組織はファシズムの温床なので認めない。
- 連邦制を採用し、「国民的共同体」を築いていると見なせる民族には制限付きで分離権を与える。「民族少数派」にも「完全なる民主主義」にもとづき平等に扱う。
- 現在の戦いは「革命」の名に値する。しかし、政治と社会を一気に変えようとする一段階革命は誤りである。
- AFPFL内の左翼は団結しなければならない。
そして、最後に得意のパーリ語で演説を締めくくった[32]。
汝ら私の言葉を聞く者たちよ。団結こそ基本なり、という事実を記憶の中に刻み込め。そして、ひとりひとりに与えられた義務を熱意を持って遂行せよ。 — アウンサン
暗殺

暗殺事件
1947年7月19日の午前中、アウンサンら行政参事会のメンバーは、旧ビルマ政庁の西側二階にあるアウンサンの執務室で会議をする予定だった。そして、会議開始直後の午前10時半頃、小雨降る中、一台の軍用ジープが建物の正面玄関から中庭に突入した。建物を警備していた歩哨は、なぜかジープの侵入を止めなかった。
ジープから飛び出した軍服姿の4人の男のうち、3人はトミーガン、1人はステンガンを手にして階段を駆け上がり、教育大臣でムスリムのアブドゥル・ラザクのボディガードだったコー・トゥエを銃殺した後、会議室に突入。
ドアが開いた瞬間、立ち上がったアウンサンの胸に目がけて一斉射撃し、その後、アウンサンの左右に向けて銃を乱射した。銃撃時間はわずが30秒、検視結果によると、アウンサンは計13発撃たれ、うち6発が完全命中で、胸部貫通の1発と頭部の1発が致命傷となった[33][34][35]。
亡くなったのはアウンサン、コー・トゥエの他、アブドゥル・ラザク、AFPFLナンバー2だったタキン・ミャ[36]、情報大臣のバチョー、商業大臣でアウンサンの兄バウィン、産業労働大臣でカレン族の指導者マーン・バカイン、山岳地帯大臣で、パンロン協定に署名したシャン族の指導者サオ・サントゥン、高等文官の運輸副大臣のオウンマウンの計9人。生き残ったのは3人だけだった[37]。
犯人

事件後、警察はウー・ソオ、バー・モウ、タキン・バセインなど容疑をかけた者を片っ端から逮捕し、その数は1300人以上に上った。その中で、事件から5時間以内に逮捕されたウー・ソオの自宅から大量の兵器と弾薬が発見され[注釈 15]、ウー・ソオの部下で事件当日現場の下見を行ったバニュンが犯行を自供したことから、ウー・ソオが主犯と断定された[38]。

1947年10月からインセイン刑務所内部に設置された特別法廷で始まった裁判で、ウー・ソオは、自宅で発見された兵器はAFPFLまたはアウンサンの私兵組織・人民義勇軍(PVO)の兵士によって仕掛けられたものと主張した[39]。しかし、裁判所は、ウー・ソオがデヴィッド・ヴィヴィアン(David Vivian)大尉[注釈 16]、ムーア少佐、C.H.H.ヤング少佐のイギリス軍将校3人から兵器を提供され、犯行に及んだと認定。ちなみにヴィヴィアンは懲役5年の刑を受けたが、ムーア少佐は不起訴のまま釈放、ヤング少佐は一審で懲役2年の刑を受けたが、控訴して二審で無罪となった[注釈 17][注釈 18][40][33]。
同年12月30日、独立の5日前にウー・ソオと他の8人の被告は死刑の宣告を受けた。そのうち3人はのちに終身刑に減刑されたが、ウー・ソオと他の4人は1948年5月8日に絞首刑に処せられた。死刑執行は午前5時33分だったが、その直前、ウー・ソオは仏壇の前で祈りを捧げ、「判事や刑務所長に恨みはない」と述べたのだという[41]。
事件の真相
事件の真相についてはいまだ不明な点が多い。
暗殺事件の数か月前、ウー・ソオは車で帰宅途中に銃撃に遭い、目を負傷したが、その際、ジャーナリストの・ウー・タウンに「私は敬虔な仏教徒として常に自分の敵を許している...しかし目を怪我した時は突き刺すような痛みだった。あいつらだけは許せない。あまりの痛さで許せなくなったよ」と述べた。アウンサンもウー・ソオを見舞ったが、ウー・ソオは銃撃をアウンサンとAFPFLの仕業だと信じて疑っていなかったのだという[42][43]。また、この銃撃はネ・ウィンがPVO兵士に扮装させた部下たちにやらせ、ウー・ソオの怒りの矛先がアウンサンに行くように仕向けたとする主張もある[44]。
また、ウー・ソオは獄中からイギリス文化協会ラングーン代表のビングレーという人物に3通の手紙を渡そうと試みている。事前に警察に発覚した手紙の内容は、金の無心、脱獄支援依頼、脱獄に成功すれば真実を洗いざらい話すというものだった。服役囚に扮した刑事が手紙をビングレーに持っていったところ、ビングレーは一読、手紙を破り捨て、2通目、3通目は受け取りを拒否した。1947年9月4日、警察はビングレーを事情聴取したが、ビングレーはすべての嫌疑を否定し、直後、飛行機で出国し、二度とミャンマーに戻らなかった[45]。
ビングレーはミャンマー人高等文官から「救いがたい帝国主義者」と見なされていた人物で、あるパーティーでヤング少佐を介してウー・ソオと知り合い、大声で「われわれは皆、あなたをしっかり支援する用意がある」と述べたのだという。実際、イギリスには社会主義志向のアウンサンがミャンマーの首相になることを嫌った一派がおり、実際、ビルマ商工会議所本国委員会の委員長で、スティール・ブラザーズの社長だったミッチーは、ビルマ総督のランスに、アウンサンの危険性を糾弾する文書を送っている[45]。
家族
ラングーン事件
1983年10月9日、アウンサン廟(アウンサンら暗殺された独立運動指導者を祀った霊廟)へ献花に訪れた韓国の全斗煥大統領を狙って、北朝鮮がラングーン爆弾テロ事件を起こした。全斗煥は一命を取りとめたものの、両国関係者に多数の死者が出た。建国の父の墓所をテロに利用されたビルマは北朝鮮と国交を断絶した。両国の国交が回復したのは、24年後の2007年であった。アウンサン廟は事件後は1985年に当時のビルマの最高指導者であるネ・ウィンによって再建されるも[47][48]、しばらくは政府による厳重警備がされて閉鎖されていたが、事件から30年目の2013年6月1日に一般公開が再開された[49]。
逸話
手紙
アウンサンは女性と関わるのが苦手であった。イェナンジャウンの民族学校を受験するために知人の家に泊まった際、そこにいた年頃の女性と目を合わせるのが恥ずかしくてトイレを我慢したばかりに、寝小便をしてしまった。また、ABFSUの議長をしていた際、彼を慕う女子学生たちが牛乳や卵を差し入れにきたが、アウンサンは恥ずかしくて顔を上げられなかったのだという[50]。そして、30人の同志の軍事訓練で海南都に行く前に日本に立ち寄った際、箱根にある岩崎与八郎の建てた別荘に滞在した。その時岩崎の姪である英子(18歳)に一目惚れし、南機関の鈴木敬司にけしかけられたこともありアウンサンは彼女に日本語でラブレターを書いた。
| 愛しい英子さん 私は遙か海を隔てた遠い異国から日本へやって参りました。貴女を愛しく思う気持ちをどうしても打ち消すことが出来ません。この私のことを、どうかお待ち頂けないでしょうか? 面田紋次[51] |
しかし、この手紙が英子の元に届くことはなかった。
日本刀
第二次世界大戦後、アウンサンは日本軍司令官が所持していたと思われる高橋貞次作の日本刀を入手した。この刀は後にアウンサンスーチーに遺品として引き継がれたが次第に劣化。2021年には日本財団を通じて備前おさふね刀剣の里に持ち込まれ、錆落としなどの修復が行われた。修復は2021年11月に終了したが、刀が日本に渡ってきた直後に発生したクーデターでスーチーが拘束されている影響で、スーチーへの引き渡しができない状態が続いている[52]。
ハウス・オブ・メモリーズ
ラングーンにあったアウンサンのオフィスは「ハウスオブメモリーズ」という名のレストランになっている[53]。
栄誉


ミャンマーでの栄誉
- 命日の7月19日は「殉難者の日」とされ、毎年追悼式が催されている[54]。
- 最高勲章の1つとして「アウンサンの旗」勲章がある。1981年1月4日には、鈴木敬司の未亡人、高橋八郎、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄の南機関関係者7人にこの勲章が授与されている[55]。
- イギリスの支配回復後、アウンサン一家が最初に住んだヤンゴンの家はボージョーアウンサン博物館となっている。
- ミャンマーの紙幣にはアウンサンの肖像が度々採用されている。1990年に新たに発行された1チャット札は物議を醸した。この紙幣に描かれたアウンサンは、以前のものよりも目、鼻、口、そして顎の線が柔らかく、どことなくスーチーによく似ていた。そして、花弁には、8888民主化運動の際の大規模ストライキの日付、8888(1988年8月8日)が入っていた。民主派シンパのデザイナーの仕業だったが、これに気づいた国軍は、すぐに紙幣を発行停止にし、以後、NLD政権下の2020年まで、アウンサンが紙幣に登場することはなかった[56]。