ピニョー・ド・ベーヌ
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生涯


エーヌ県のオリニー=アン=ティエラシュで生まれた[2]。パリ外国宣教会の神学校を卒業し、1765年に同会の宣教師としてコーチシナの河僊(現在のキエンザン省ハティエン)に赴任[1]。
1769年に迫害を逃れて一時フランス領インドのポンディシェリへ行き、アドランの名義司教に任じられる[1]。1775年河僊に戻り、西山党の乱によって追放の身となった阮福映と会い積極的に援助。同行したフランス人たちは阮福映にヨーロッパ式の軍事技術で貢献した。
1787年に阮福映の長男阮福景を伴ってフランスに帰国。ルイ16世に謁見し、フランスと阮福映の攻守同盟の成立(ヴェルサイユ条約)に尽力した[2][1]。しかし、コーチシナへの遠征軍の編成はインド駐在の軍司令官トーマス・コンウェイの反対に遭い実現しなかった。そこでピニョーは武器と義勇兵を募って[1]1789年コーチシナに戻り西山朝と戦うが、西山朝の拠点帰仁を攻撃中に捕らえられ、暑さと疲労で衰弱したのが元で赤痢にかかり、58歳で死去した。
遺体は軍令を持って迎えられ、阮福映が弔辞を読んだ。ピニョーは安南語のラテン語辞書を製作しており、死後に出版された。サイゴンにあったピニョーの墓は1983年にベトナム社会主義共和国政府により取り壊され、遺体は焼かれてフランスへ送られた。現在、パリ外国宣教会に遺灰が安置されている。
参考文献
- 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』〈中公新書〉。