フィリップ1世 (ポメラニア公)

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フィリップ1世はポメラニア公ゲオルク1世アマーリエ・フォン・デア・プファルツの第2子、次男(成人に達した長男)として生まれた。母の父プファルツ選帝侯フィリップにちなんで名付けられ、ハイデルベルクでの留学中に祖父フィリップのもてなしを受けた。1531年に父が亡くなった後、叔父のバルニム9世敬虔公とともにポメラニア公領の共同統治者となった[3]

1532年10月21日に行われた公領の分割の結果、フィリップ1世はヴォルガスト公となり、オーデル川西岸とリューゲン島の領地を統治した。さらに、1541年にはティヴァ川とオーデル川の間の地、グリフィノとスボブニツァの領地を自らの領土に併合した[4]

1534年12月13日、トシェビャトゥフで開催された議会中に、フィリップ1世とバルニム9世は西ポメラニアにルター派を国教として導入した[3][5][6]。宗教の変更は、議会の大多数の反対にもかかわらず、特権を利用したポメラニア公たちの決定の結果として行われた[7]。西ポメラニアの宗教改革では、とりわけ、教会財産の世俗化とポメラニア福音教会の設立が計画された[8]

1535年のポメラニアとザクセンの同盟をきっかけに、フィリップ1世は翌年、ザクセン選帝侯ヨハンの娘マリアと結婚した。1536年2月26日に指輪が交換され民事婚が行われ、翌日、つまり2月26日に結婚の儀式が行われた。2月27日にトルガウにおいてマルティン・ルターにより結婚式のミサが厳粛に執り行われた[9]

1537年にシュマルカルデン同盟に加わり、1537年2月27日からカトリックの皇帝カール5世に対抗するプロテスタント諸侯が団結することとなった。フィリップ1世は後にバルニム9世とともに反逆罪で皇帝に告発されたが、ポーランド王ジグムント1世のとりなしのおかげで許された[3]

フィリップ1世はヴォルガスト公領を統治している間に、公領の管理を再編し、そのおかげで領内の歳入が大幅に増加し、領地の防衛を強化させることができた(ウエッカーミュンデの城を再建した[7])。また、フィリップ1世は科学の発展にも関心を持っていた。ヴォルガストの城に図書館をつくり、シュチェチンのギムナジウムの設立にも貢献した[3]

フィリップ1世は1560年2月14日にヴォルガストにおいて45歳で死去し、2月21日に同地の聖ペテロ教区教会に埋葬された[4][7]。公位は2人の息子、ヨハン・フリードリヒボギスラフ13世が継承した。息子らは成年に達するまで、バルニム9世の後見下に置かれた[10]

結婚と子女

脚注

参考文献

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