ザクセン君主一覧

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ザクセン君主一覧は、中世から近代にかけてドイツザクセン公国及びザクセン王国君主の一覧である。

略史

ドレスデンの陶板壁画『君主たちの行列』歴代ザクセン選帝侯が描かれている。

最初のザクセン公は、カール大帝ザクセンを征服した際に、降伏したザクセン人のリーダーであるヴィドゥキントに授けたものだとされる。その後ルートヴィヒ2世のもとザクセンを領したリウドルフリウドルフィング家の始祖となり、その版図と経済力を背景にリウドルフィング家はフランク王国内でも重きをなした。ハインリヒ1世919年ローマ王となり、ザクセン朝を開いた。続くオットー2世は、962年皇帝に即位し、数々の業績から大帝と称された。オットー2世はザクセンから離れる事が多かったので、ヘルマン・ビルングが留守の間の内政を預かっていた。オットー2世はヘルマンをザクセン辺境伯とし、その後さらにザクセン副公とした。ヘルマンの息子ベルンハルト1世の代に、正式にザクセン公として承認された。

1106年ビルング家最後の当主マグヌスが亡くなり、後継者が存在しなかった為、ズップリンブルク家のロタール1世がザクセン公となった。その後、ヴェルフ家アスカーニエン家が交互にザクセン公となり、一時はヴェルフ家のハインリヒ3世バイエルン公も兼ねて帝国の有力諸侯にのし上がったが、1180年フリードリヒ1世に帝国追放を受けて所領を没収され、アスカーニエン家のベルンハルト3世がザクセン公になった。1260年アルブレヒト1世が亡くなると、ザクセンはザクセン=ヴィッテンベルクザクセン=ラウエンブルクに分割された。1356年カール4世金印勅書を発布し、ザクセン=ヴィッテンベルク公が選帝侯の資格を得た。以降はザクセン選帝侯と呼ばれる。

1422年、アスカーニエン家の最後の当主アルブレヒト3世が亡くなると、マイセン及びテューリンゲンの辺境伯、ヴェッティン家フリードリヒ1世がザクセン選帝侯の位を継承した。1464年に子のフリードリヒ2世が死亡すると、遺領は2人の息子に分割相続された。長男のエルンストが選帝侯となり、北マイセン、南テューリンゲン、ヴィッテンブルクを継承した。次男のアルブレヒトは南マイセン、北テューリンゲンを継承し、新たに公爵位も与えられた。ヴィッティン家はエルンスト系アルブレヒト系に分かれたのである。

1547年ミュールベルクの戦いで勝利したカール5世は、自身に敵対したヨハン・フリードリヒ(エルンスト系)から選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツ(アルブレヒト系)に褒賞としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承した。

1697年にはフリードリヒ・アウグスト1世ポーランド王に迎えられ、1763年まで同君連合となったが、波乱が絶えなかった。1700年に開始された大北方戦争に巻き込まれて一時その地位を失い、1733年にはポーランド継承戦争が起こされた。ポーランド王国における王権は無きに等しく、大北方戦争以後のポーランドはほぼ列強傀儡国家あるいは緩衝国と化した。

1806年神聖ローマ帝国の解体に伴い、ザクセン王国となった。時のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。1918年ドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅した。

君主一覧

独立したザクセン公

フランク王国/ドイツ王国内のザクセン公

さらに見る Dukes of Saxony, 肖像画 ...
Dukes of Saxony
肖像画 君主名 在位 備考
ハットー家
ベンツライプ英語版 838年 - 840年 ザクセンの伯および辺境伯(Comes et marchio
リウドルフィング家(リウドルフ家)
リウドルフ 850年 - 864/6年3月12日 ザクセンの伯および辺境伯(Comes et marchio
ブルン 864/6年3月12日 - 880年2月2日 ザクセンの伯および辺境伯(Comes et marchio
オットー1世 880年2月2日 - 912年11月30日 ザクセン公国の初代公爵
ハインリヒ1世 912年11月30日 - 936年7月2日 ドイツ王(捕鳥王、919年 - 936年)
オットー2世 2936年7月2日 - 961年 ドイツ王(936年 - 973年)、皇帝(大帝、962年 - 973年)
ビルング家
ヘルマン 961年 - 973年3月27日 ザクセン辺境伯、ザクセン副公
ベルンハルト1世 973年3月27日 - 1011年2月9日 正式にザクセン公となる
ベルンハルト2世 1011年2月9日 - 1059年6月29日
オルドルフ 1059年6月29日 - 1072年3月28日
マグヌス 1072年3月28日 - 1106年8月23日
ズップリンブルク家
ロタール1世 1106年 - 1137年12月4日 ドイツ王(ロタール3世、1125年 - 1137年)、皇帝(1133年 - 1137年)
アスカーニエン家
オットー富貴公 1112年 皇帝ハインリヒ5世によりロタール1世に対抗して任命された。
マグヌス・ビルングの婿で、後のザクセン公アルブレヒト熊公の父。
マンスフェルト家英語版
マンスフェルト伯ホイヤー1世 1115年 皇帝ハインリヒ5世によりロタール1世に対抗して任命された。
ヴェルフ家
ハインリヒ2世(尊大公) 1137年12月4日 - 1139年10月20日 皇帝ロタール3世の婿。バイエルン公ハインリヒ10世。
アスカーニエン家
アルブレヒト熊公 1139年10月20日 - 1142年 オットー富貴公の息子でマグヌス・ビルングの孫にあたる。ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト1世。
ヴェルフ家
ハインリヒ3世(獅子公) 1142年 - 1180年 ハインリヒ2世(尊大公)の息子で皇帝ロタール3世の孫にあたる。バイエルン公ハインリヒ12世。
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1180年にヴェルフ家が追放されたことで、ザクセン公国の領土は大幅に縮小した。ヴェストファーレンケルン大司教の支配下に入り、ブラウンシュヴァイクはヴェルフ家の支配下に残った。

ザクセン公および選帝侯

アスカーニエン家

ザクセン公国
(1180年 - 1296年)
ザクセン=ヴィッテンベルク
(1296年 - 1356年)
(陞爵)
ザクセン選帝侯領
(1356年 - 1422年)
ザクセン=ラウエンブルク
(1296年 - 1303年)
              ザクセン=ラッツェブルク
(1303年 - 1315年)
ザクセン=メルン
(1303年 - 1401年)
ザクセン=ベルゲドルフ
(1303年 - 1315年)
(改名)
ザクセン=ラッツェブルク
(1315年 - 1401年)
ザクセン=ラウエンブルク
(ラッツェブルク系)
(1401年 - 1689年)
さらに見る 君主名, 生誕 ...
君主名生誕在位死没領地結婚備考
ベルンハルト3世1134年頃1180年 - 1212年1212年2月2日ザクセンブリジット・フォン・デーネマルク
6子

ゾフィー・フォン・テューリンゲン
1子

ユーディト・フォン・ポーレン
1173年頃
子女なし
バレンシュテット伯およびアンハルト侯。
アルブレヒト1世1175年頃1212年 - 1260年1260年10月7日ザクセンアグネス・フォン・エスターライヒ
1222年
5子

アグネス・フォン・テューリンゲン
1238年
3子

ヘレーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
1247年
5子
熊公の孫、祖父とは別人
アルブレヒト2世 1250年 1260年 - 1296年 1298年8月25日 ザクセン アグネス・フォン・ハプスブルクドイツ語版
1282年
6子
1260年のアルブレヒト1世の死後、2人の息子は共同統治を行い、兄ヨハン1世の死後、その息子3人を共同統治に加えた。しかし、この3人の甥はアルブレヒト2世と領地を分割した。アルブレヒト2世はザクセン=ヴィッテンベルクを保持し、ザクセン兄系家の当主となった。アルブレヒト3世、エーリヒ1世、ヨハン2世はザクセン=ラウエンブルクで共同統治を行い、ザクセン弟系家の創始者となった。
1296年 - 1298年ザクセン=ヴィッテンベルク
ヨハン1世1249年1260年 - 1282年1285年7月30日ザクセンインゲボルグ・ビルイェルドッテル英語版
1270年
8子
1296年、アルブレヒト2世とその甥のアルブレヒト3世、エーリヒ1世、ヨハン2世は共同統治を終わらせ、ザクセンをラウエンブルク(アルブレヒト3世、エーリヒ1世、ヨハン2世は1303年まで共同統治を続けた)とヴィッテンベルク(アルブレヒト2世は1298年まで単独統治を続けた)に分割した。ザクセン公は新たな神聖ローマ皇帝を選出する選帝侯の一人とみなされていたため、ザクセンの投票権を誰が持つべきかという問題でラウエンブルク家とヴィッテンベルク家の間で対立が生じた。1314年、両家は二重選挙で異なる側についた。最終的に、1356年に「1356年の黄金勅書」が公布された後、ザクセン=ヴィッテンベルク公が勝利した。ザクセン公の称号を持つ他の君主と区別するために、ザクセン=ヴィッテンベルク公は一般的に「ザクセン選帝侯」と呼ばれた。
ヨハン2世 1275年 1296年 - 1303年 1322年4月22日 ザクセン=ラウエンブルク エリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク英語版
1315年
1子
ヨハン1世の子供たちは、1282年(父の死後)から叔父のアルブレヒト2世と共同統治を行い、1296年にアルブレヒト2世と領地を分割した。彼らはラウエンブルクを保持し、そこを再び分割した。アルブレヒトは領地を未亡人マルガレーテに譲り、1315年にマルガレーテが亡くなった後、領地は再編成された。エーリヒはベルゲドルフを兄ヨハンと分割し、兄アルブレヒトの相続地をすべて保持した。しかし、エーリヒは最終的に息子に退位し、その治世のほとんどを生き延びた。
1303年 - 1322年ザクセン=メルン
エーリヒ1世 1280年 1296年 - 1303年 1360年 ザクセン=ラウエンブルク エリーザベト・フォン・ポンメルン
1316/8年
4子
1303年 - 1338年ザクセン=ベルゲドルフ
(1303年 - 15年)

ザクセン=ラッツェブルク
(1315年 - 38年)
アルブレヒト3世 1281年 1296年 - 1303年 1308年 ザクセン=ラウエンブルク マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク=ザルツヴェーデル
1302年
子女なし
1303年 - 1308年ザクセン=ラッツェブルク
マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク=ザルツヴェーデル1270年1308年 - 1315年1315年5月1日ザクセン=ラッツェブルクポーランド王プシェミスウ2世
1302年
2子

アルブレヒト3世
1302年
2子
1315年、マルガレーテ・フォン・ブランデンブルクの死後、兄弟エーリヒとヨハンはザクセン=ラウエンブルクを再編成した。エーリヒはマルガレーテの領地をすべて保持したが、自身の元の領地の一部を兄に譲らなければならなかった。
ルドルフ1世1284年1298年 - 1356年

1356年1月10日 - 1356年3月12日
1356年3月12日ザクセン=ヴィッテンベルク

ザクセン選帝侯領
ユッタ・フォン・ブランデンブルク=ザルツヴェーデル
1298年
8子

クネグンダ・ウォキェトクヴナ
1328年8月28日
1子

アグネス・フォン・リンドー=ルッピン
1333年
3子
1356年1月、金印勅書によりルドルフ1世が正当なザクセン選帝侯として承認され、ザクセン=ヴィッテンベルクの支配者はザクセン選帝侯とみなされるようになった。
1356年の金印勅書は、ザクセン=ヴィッテンベルク家のザクセン公に、神聖ローマ皇帝の選挙に参加する権利を認めた。
エリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルクによる摂政政治(1322年 - 1330年)
アルブレヒト4世1315年1322年 - 1343年1343年ザクセン=メルンベアタ・フォン・シュヴェリーン
1334年
3子

ゾフィー・フォン・メクレンブルク=ヴェルレ=ギュストロー
1341年
子女なし
エーリヒ2世1318/20年1338年 - 1368年1368年ザクセン=ラッツェブルクアグネス・フォン・ホルシュタイン=プレン
1342年から1349年の間
4子
ヨハン3世1330年頃1343年 - 1356年1356年ザクセン=メルン未婚子女なく、弟アルブレヒトが跡を継いだ。
アルブレヒト5世1330年頃1356年 - 1370年1370年ザクセン=メルンカテリーナ・フォン・ヴェルレ=ギュストロー
1366年1月25日
子女なし
子女なく、弟エーリヒが跡を継いだ。
ルドルフ2世(盲目公)1307年1356年3月12日 - 1370年12月6日1370年12月6日ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領エリーザベト・フォン・ヘッセン
1336年5月8日以前
1子
後継者なし
ヴェンツェル1337年1370年12月6日 - 1388年5月15日1388年5月15日ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領ツェツィーリエ・ダ・カッラーラ
1376年1月23日
6子
兄の跡を継いだ。
エーリヒ3世1330年頃1370年 - 1401年1401年ザクセン=メルン未婚聖職者になることを決意していたが、兄の後を継ぐために辞任せざるを得なかった。また、彼には子女がいなかったため、ザクセン=ラッツェブルク=ラウエンブルク家がザクセン=ラウエンブルクを再統一することになった。
ルドルフ3世1378年1388年5月15日 - 1419年6月11日1419年6月11日ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領アンナ・フォン・マイセン
1387/89年
3子

バルバラ・フォン・リーグニッツ
1396年3月
2子
息子がいなかったため、弟アルブレヒトが跡を継いだ。
1401年、ザクセン=ラッツェブルク=ラウエンブルク家は、エーリヒ4世の死によって断絶したラウエンブルク系アスカ-ニエン家からザクセン=ベルゲドルフ=メルンを継承した。再統一された公国は、旧称のザクセン=ラウエンブルクとして存続した。
エーリヒ4世 1354年 1368年 - 1401年 1411/12年6月21日 ザクセン=ラッツェブルク ゾフィー・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
1373年4月8日
10子
1401年にザクセン=ラウエンブルクが再統一された。
1401年 - 1411/12年ザクセン=ラウエンブルク
エーリヒ5世1373年以降1411/12年 - 1436年1436年ザクセン=ラウエンブルクエリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク
1404年
子女なし

エリーザベト・フォン・ヴァインスベルク
1422年以前
1子
共同統治。ここでの序数は多少混乱を招く。アスカーニエン家の系図学者の中には、ザクセン=ラウエンブルク公のリストにヨハン4世を含めず、ヨハン5世(ヨハン4世の甥)を「ヨハン4世」と数えている者もいる。
ヨハン4世1373年以降1411/12年 - 1414年1414年ザクセン=ラウエンブルク未婚
アルブレヒト3世1375/80年1419年6月11日 - 1422年(11月12日以前)1422年11月12日以前ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領エウフェミア・フォン・エールス
1420年1月14日
子女なし
1422年、アルブレヒト3世の死によってザクセン=ヴィッテンベルク系アスカーニエン家は途絶え、ザクセン公位はマイセンおよびテューリンゲンの辺境伯、ヴェッティン家のフリードリヒがその地位を継承した。
アスカ-ニエン家は1689年までザクセン=ラウエンブルクで存続したが、1356年にラウエンブルク家がザクセン選帝侯領をヴィッテンベルク家に奪われ、1422年以降も選帝侯領の継承権を得られなかったため、ザクセン=ラウエンブルク公家がザクセン公として認められる度合いは薄れていった。ザクセン=ラウエンブルクのアスカ-ニエン家については、以下の表を参照。ザクセン選帝侯家については、ヴェッティン家の項を参照。
ベルンハルト4世1385/93年1436年 - 1463年1463年7月16日ザクセン=ラウエンブルクアーデルハイト・フォン・ポンメルン=シュトルプ
1428年
2子
ヨハン5世1439年7月18日1463年 - 1507年1507年8月15日ザクセン=ラウエンブルクドロテア・フォン・ブランデンブルク
1464年2月12日
12子
ヨハン4世と表記されることもある。叔父のヨハン4世(エーリク5世とベルンハルト4世の兄弟)や、実の息子(ヒルデスハイム司教ヨハン4世)と混同されることがある。
マグヌス1世1470年1月1日1507年 - 1543年1543年8月1日ザクセン=ラウエンブルクカタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
1509年11月20日
ヴォルフェンビュッテル
6子
フランツ1世1510年1543年 - 1571年1581年3月19日ザクセン=ラウエンブルクジビッレ・フォン・ザクセン
1540年2月8日
ドレスデン
9子
1571年、多額の負債を抱えたフランツ1世は、長男のマグヌス2世に公位を譲った。マグヌス2世は、スウェーデン軍司令官として得た資金とスウェーデン王女との結婚によって得た資金で、質に入れられた公領を買い戻すと約束していた。
マグヌス2世1543年1571年 - 1573年1603年3月14日ザクセン=ラウエンブルクソフィア・ヴァーサ
1568年7月4日
ストックホルム
1子
フランツ1世の長男。約束した借金を返済せず、父や弟との戦争を引き起こした。2年後、彼らはマグヌス2世を廃位し、フランツ1世が復位した。マグヌスは武力と司法の力により公領を取り戻そうとしたが失敗に終わった。1588年、マグヌスは残りの人生を投獄下で過ごした。
フランツ1世1510年1573年 - 1581年1581年3月19日ザクセン=ラウエンブルクジビッレ・フォン・ザクセン
1540年2月8日
ドレスデン
9子
マグヌス2世を退けた後、1573年に公位を奪還した。
フランツ2世1547年8月10日1581年 - 1619年1619年7月2日ザクセン=ラウエンブルクマルガレーテ・フォン・ポンメルン=ヴォルガスト
1574年12月26日
ヴォルガスト
4子

マリア・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
1582年11月10日
ヴォルフェンビュッテル
14子
マグヌス2世の弟。1578年から副摂政、1581年から行政官。1581年から1612年まで弟モーリッツと共同統治を行った。アウグストとユリウス・ハインリヒの父。
モーリッツ1551年1581年 - 1612年1612年11月2日ザクセン=ラウエンブルクカタリーナ・フォン・シュパーク
1581年
(1582年に結婚解消)
子女なし
兄フランツ2世と共治
アウグスト1577年2月17日1619年 - 1656年1656年1月18日ザクセン=ラウエンブルクエリーザベト・ゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ
1621年3月5日
フースム
6子

カタリーナ・フォン・オルデンブルク
1633年6月4日
子女なし
息子がいなかったため、異母弟ユリウス・ハインリヒが跡を継いだ。
ユリウス・ハインリヒ1586年4月9日1656年 - 1665年1665年11月20日ザクセン=ラウエンブルクアンナ・フォン・オストフリースラント
1617年3月17日
グラーボウ
子女なし

エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク
1633年6月4日
トゥジム
1男

アンナ・マグダレーナ・フォン・ロプコヴィッツ
1632年8月18日
ウィーン
6子
フランツ・エルトマン1629年2月25日1665年 - 1666年1666年7月30日ザクセン=ラウエンブルクジビッラ・ヘートヴィヒ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク
1654年
子女なし
子女を残さなかったため、弟のユリウス・フランツが跡を継いだ。
ユリウス・フランツ1641年9月16日1666年 - 1689年1689年9月30日ザクセン=ラウエンブルクヘートヴィヒ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ
1668年4月9日
ズルツバッハ
2子
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ヴェッティン家

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君主名生誕在位死没領地結婚備考
フリードリヒ1世(好戦公)1370年4月11日1423年1月6日 - 1428年1月4日1428年1月4日ザクセン公国およびザクセン選帝侯領カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
1402年2月7日
7子
ヴィッテンベルク系アスカーニエン家が断絶した後、選帝侯領はヴェッティン家マイセン辺境伯テューリンゲン方伯フリードリヒに与えられた。
フリードリヒ2世(紳士公)1412年4月22日1428年1月4日 - 1464年9月7日1464年9月7日ザクセン公国およびザクセン選帝侯領マルガレータ・フォン・エスターライヒ
1431年6月3日
ライプツィヒ
8子
フリードリヒ1世の息子。弟たちとザクセンを共同統治したが、選帝侯の地位は単独で保持していた。エルンストとアルブレヒトの父であり、彼らはザクセン家のエルネスティン家アルベルティン家の祖である。
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1464年にフリードリヒ2世が死亡すると、遺領は分割相続された。次男(長男は既に死亡)のエルンストが選帝侯となり、北マイセン、南テューリンゲン、ヴィッテンベルクを継承した(エルンスト系またはエルネスティン系)。3男のアルブレヒトは南マイセン、北テューリンゲンを継承し、ザクセン公を称した(アルブレヒト系またはアルベルティン系)。

エルンスト系ヴェッティン家(ザクセン選帝侯・ザクセン公)
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君主名生誕在位死没領地結婚備考
エルンスト1世1441年3月24日1464年9月7日 - 1486年8月26日1486年8月26日ザクセン選帝侯領エリーザベト・フォン・バイエルン=ミュンヘン
1460年11月25日
ライプツィヒ
7子
フリードリヒ2世の息子。エルンスト系ヴェッティン家の家祖。
フリードリヒ3世
(賢公)
1463年1月17日1486年8月26日 - 1525年5月5日1525年5月5日ザクセン選帝侯領未婚エルンストの息子。マルティン・ルターの保護者であったが、生涯カトリック教徒であった。息子を残さなかった。弟のヨハンと共同統治を行い、ヨハンが跡を継いだ。
ヨハン1世1468年6月30日1525年5月5日 - 1532年8月16日1532年8月16日ザクセン選帝侯領ゾフィー・フォン・メクレンブルク
1500年3月1日
トルガウ
1子

マルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテン
1513年11月13日
トルガウ
4子
兄フリードリヒ3世の共同摂政(1486年8月26日 - 1525年5月5日)であり、1513年以降はヴァイマルに居を構えた。1527年に自らの領地でルター派を確立した。
ヨハン・フリードリヒ1世1503年6月30日1532年8月16日 - 1547年5月19日1554年3月3日ザクセン選帝侯領ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク
1527年2月9日
トルガウ
4子
シュマルカルデン戦争で皇帝に敗れた後、選帝侯としての地位と領地を従兄弟のモーリッツに奪われた。ザクセン公国として残された領地はごくわずかだった。エルンスト系はその後も存続するが、主流からは外れ、ヨハン・ヴィルヘルムの時代以降にザクセン=ヴァイマルザクセン=コーブルクザクセン=アイゼナハなどの諸公国(Ernestinische Herzogtümer)に分裂する。
1547年5月19日 - 1554年ザクセン公国
ヨハン・フリードリヒ2世1529年1月8日1565年 - 1566年1595年5月19日ザクセン=コーブルク=アイゼナハおよびザクセン=ゴータアグネス・フォン・ヘッセン
1555年5月26日
ヴァイマル
子女なし

エリーザベト・フォン・デア・プファルツ
1558年6月12日
ヴァイマル
4子
ザクセン=ヴァイマル公国を継承。1565年、ゴータの弟の領地と統合。1566年、弟のヨハン・ヴィルヘルムに公位を譲り、ヨハン・ヴィルヘルムは公国を再統一した。
ヨハン・ヴィルヘルム1530年3月11日1566年 - 1572年1532年8月16日ザクセン公国ドロテア・ズザンナ・フォン・デア・プファルツ
1560年6月15日
ハイデルベルク
5子
ザクセン=ヴァイマルを獲得。1565年、ゴータの兄の領地と統合。1566年、兄の退位後、ザクセンを再統一。1572年、エアフルト分割により、ザクセンは再びヨハン・ヴィルヘルムと甥であるヨハン・フリードリヒ2世の息子たちの間で分割された。彼は再びザクセン=ヴァイマルを獲得。
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アルブレヒト系ヴェッティン家(ザクセン公・ザクセン選帝侯)
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君主名生誕在位死没領地結婚備考
アルブレヒト3世(大胆公)1443年1月27日1464年 - 1500年1500年9月12日ザクセン公国ズデンカ・ス・ポジェブラト
1464年11月11日
ヘプ
9子
フリードリヒ2世の息子。アルブレヒト系ヴェッティン家の家祖。
ゲオルク1世1471年8月27日1500年 - 1539年1539年4月17日ザクセン公国バルバラ・ヤギェロンカ
1496年11月21日
ドレスデン
10子
カトリック改革の提唱者であり、マルティン・ルターの強硬な反対者であった。男子を残さず、弟のハインリヒ4世が後を継いだ。
ハインリヒ4世1473年3月16日1539年 - 1541年1541年8月18日ザクセン公国カタリーナ・フォン・メクレンブルク
1541年1月
マールブルク
9子
兄ゲオルク1世の後を継いで即位した。アルブレヒト系ザクセン公領にルター派を確立した。
モーリッツ1521年3月21日1541年 - 1547年1553年7月9日ザクセン公国アグネス・フォン・ヘッセン
1541年1月9日
マールブルク
10子
ヨハン・フリードリヒの又従兄弟で、アルベルトの孫。ルター派であったが、シュマルカルデン同盟に対抗して皇帝カール5世と同盟を結んだ。1547年、カール5世がミュールベルクの戦いで勝利した後、自身に敵対したヨハン・フリードリヒから選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツに褒美としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承した。モーリッツは男子を残さず、弟のアウグストが跡を継いだ。
1547年6月4日 - 1553年7月9日ザクセン選帝侯領
アウグスト1世1526年7月31日1553年7月9日 - 1586年2月11日1586年2月11日ザクセン選帝侯領アンナ・ア・ダンマーク
1548年10月7日
トルガウ
15子

アグネス・ヘートヴィヒ・フォン・アンハルト
1586年1月3日
デッサウ
子女なし
モーリッツの弟。1554年、追放されたヨハン・フリードリヒ1世によって選帝侯として認められた。1573年からは、エルネスティン家のザクセン=ヴァイマル公国において、フリードリヒ・ヴィルヘルムの摂政も務めた。
クリスティアン1世1560年10月29日1586年2月11日 - 1591年9月25日1591年9月25日ザクセン選帝侯領ゾフィー・フォン・ブランデンブルク
1582年4月25日
ドレスデン
7子
ゾフィー・フォン・ブランデンブルクによる摂政政治(1591年 - 1601年)
クリスティアン2世1583年9月23日1591年9月25日 - 1611年6月23日1611年6月23日ザクセン選帝侯領ヘゼヴィ・ア・ダンマーク
1602年9月12日
ドレスデン
子女なし
ヨハン・ゲオルク1世1585年3月5日1611年6月23日 - 1656年10月8日1656年10月8日ザクセン選帝侯領ジビッラ・エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク
1604年9月16日
ドレスデン
1子

マグダレーナ・ジビュレ・フォン・プロイセン
1607年7月19日
トルガウ
10子
クリスティアン2世の弟であり、三十年戦争中に統治し、その期間中、皇帝フェルディナント2世と同盟を結んだり、スウェーデン王グスタフ2世アドルフと同盟を結んだりした。
ヨハン・ゲオルク2世1613年5月31日1656年10月8日 - 1680年8月22日1680年8月22日ザクセン選帝侯領マグダレーナ・ジビュレ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト
1638年11月13日
ドレスデン
3子
選帝侯であった彼は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のザクセン=アルテンブルクにおける摂政も務めた。幼少の公爵は成人することなく世を去った。
ヨハン・ゲオルク3世1647年6月20日1680年8月22日 - 1691年9月12日1691年9月12日ザクセン選帝侯領アンナ・ソフィー・ア・ダンマーク
1666年10月9日
コペンハーゲン
2子
ヨハン・ゲオルク4世18 October 16681691年9月12日 – 1694年4月27日1694年4月27日ザクセン選帝侯領エレオノーレ・フォン・ザクセン=アイゼナハ
1692年4月17日
ライプツィヒ
子女なし
フリードリヒ・アウグスト1世1670年5月12日1694年4月27日 - 1733年2月1日1733年2月1日ザクセン選帝侯領クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト
1693年1月20日
バイロイト
1子
ヨハン・ゲオルク4世の弟。1697年にポーランド王位を争うためにカトリックに改宗。1697年にポーランド王位に就くが、スタニスワフ・レシチニスキの反対を受け、1704年に王位を放棄。1706年に王位を返上。1709年に王位に復帰し、死去するまでその地位にあった。また、ザクセン=メルゼブルク公クリスティアン・モーリッツとモーリッツ・ヴィルヘルムの摂政も務めた。
フリードリヒ・アウグスト2世1696年10月17日1733年2月1日 - 1763年10月5日1763年10月5日ザクセン選帝侯領マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
1719年8月20日
ドレスデン
16子
フリードリヒ・アウグスト1世の息子。1712年にカトリックに改宗。1734年から1763年までポーランド王。
フリードリヒ・クリスティアン1722年9月5日1763年10月5日 - 1763年12月17日1763年12月17日ザクセン選帝侯領マリア・アントーニア・フォン・バイエルン
1747年6月13日
ミュンヘン
(代理結婚)
20 June 1747
ドレスデン
(本人による)
9子
フリードリヒ・アウグスト2世の息子で、カトリック教徒として育った。
マリア・アントーニア・フォン・バイエルンによる摂政政治(1763年 - 1768年) フリードリヒ・クリスティアンの息子。1806年の神聖ローマ帝国の崩壊に伴い選帝侯の地位を終え、ザクセン王となった。
フリードリヒ・アウグスト3世1750年12月23日1763年12月17日 - 1806年12月20日1827年5月5日ザクセン選帝侯領アマーリエ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト
1769年1月17日
マンハイム
(代理結婚)
1769年1月29日
ドレスデン
(本人による)
4子
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ザクセン王

1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴いザクセンは王国に昇格、ザクセン王国となり、フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。

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君主名生誕在位死没領地結婚備考
フリードリヒ・アウグスト1世1750年12月23日1806年12月20日 - 1827年5月5日1827年5月5日ザクセン王国アマーリエ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト
1769年1月17日
マンハイム
(代理結婚)
1769年1月29日
ドレスデン
(本人による)
4子
1806年に新たに独立したザクセン王国の王となった。ワルシャワ公(1807年 - 1813年)。息子がおらず、弟が跡を継いだ(序数はここから再び開始)。
アントン1755年12月27日1827年5月5日 - 1836年6月6日1836年6月6日ザクセン王国マリーア・カロリーナ・ディ・サヴォイア
1781年9月29日
ストゥピニージ
(代理結婚)
1781年10月24日
ドレスデン
(本人による)
子女なし

マリア・テレジア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
1787年9月8日
フィレンツェ
(代理結婚)
1787年10月18日
ドレスデン
(本人による)
4子
息子がおらず、甥が跡を継いだ。
フリードリヒ・アウグスト2世1797年5月18日1836年6月6日 - 1854年8月9日1854年8月9日ザクセン王国カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ
1819年9月26日
ウィーン
(代理結婚)
1819年10月7日
ドレスデン
(本人による)
子女なし

マリア・アンナ・フォン・バイエルン
1833年4月24日
ドレスデン
子女なし
マクシミリアン・フォン・ザクセンの息子。子女がおらず、弟が跡を継いだ。
ヨハン1801年12月12日1854年8月9日 - 1873年10月29日1873年10月29日ザクセン王国アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン
1822年11月10日
ミュンヘン
(代理結婚)
1822年11月21日
ドレスデン
(本人による)
9子
1871年のドイツ統一後、ドイツ帝国の従属君主となった。
アルブレヒト1828年4月23日1873年10月29日 - 1902年6月19日1902年6月19日ザクセン王国カロラ・ヴァーサ
1853年6月18日
ドレスデン
子女なし
ゲオルク1832年8月8日1902年6月19日 - 1904年10月15日1904年10月15日ザクセン王国マリア・アナ・デ・ブラガンサ
1859年5月11日
リスボン
8子
フリードリヒ・アウグスト3世1865年5月25日1904年10月15日 - 1918年11月13日1932年2月18日ザクセン王国ルイーゼ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
1891年11月21日
ウィーン
(1903年、ルイーゼが宮廷から逃亡した後、王令により無効とされた)
7子
1918年退位。ザクセンは共和政ザクセン自由州)へ移行[1]
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1918年以降のヴェッティン(ザクセン)家の当主

1918年ドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅した。以降のザクセンの首相については、ザクセン州#歴代州首相を参照。

2012年にアルブレヒト・ヨーゼフの死によってアルブレヒト系ヴェッティン家の正嫡は断絶した。マリア・エマヌエルはそれを見越して1997年に一族の合意を得て甥のアレクサンダー・ド・アフィーフを後継者に指名し彼とその子供はザクセン=ゲッサフェの姓を名乗るようになった。しかし、アルブレヒト・ヨーゼフはそれを撤回し叔父エルンスト・ハインリヒの息子ティーモの貴賤結婚の息子リューディガーを後継者に考えていた。

脚注

関連項目

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