ザクセン君主一覧
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略史
最初のザクセン公は、カール大帝がザクセンを征服した際に、降伏したザクセン人のリーダーであるヴィドゥキントに授けたものだとされる。その後ルートヴィヒ2世のもとザクセンを領したリウドルフはリウドルフィング家の始祖となり、その版図と経済力を背景にリウドルフィング家はフランク王国内でも重きをなした。ハインリヒ1世は919年にローマ王となり、ザクセン朝を開いた。続くオットー2世は、962年に皇帝に即位し、数々の業績から大帝と称された。オットー2世はザクセンから離れる事が多かったので、ヘルマン・ビルングが留守の間の内政を預かっていた。オットー2世はヘルマンをザクセン辺境伯とし、その後さらにザクセン副公とした。ヘルマンの息子ベルンハルト1世の代に、正式にザクセン公として承認された。
1106年、ビルング家最後の当主マグヌスが亡くなり、後継者が存在しなかった為、ズップリンブルク家のロタール1世がザクセン公となった。その後、ヴェルフ家とアスカーニエン家が交互にザクセン公となり、一時はヴェルフ家のハインリヒ3世がバイエルン公も兼ねて帝国の有力諸侯にのし上がったが、1180年にフリードリヒ1世に帝国追放を受けて所領を没収され、アスカーニエン家のベルンハルト3世がザクセン公になった。1260年、アルブレヒト1世が亡くなると、ザクセンはザクセン=ヴィッテンベルクとザクセン=ラウエンブルクに分割された。1356年、カール4世が金印勅書を発布し、ザクセン=ヴィッテンベルク公が選帝侯の資格を得た。以降はザクセン選帝侯と呼ばれる。
1422年、アスカーニエン家の最後の当主アルブレヒト3世が亡くなると、マイセン及びテューリンゲンの辺境伯、ヴェッティン家のフリードリヒ1世がザクセン選帝侯の位を継承した。1464年に子のフリードリヒ2世が死亡すると、遺領は2人の息子に分割相続された。長男のエルンストが選帝侯となり、北マイセン、南テューリンゲン、ヴィッテンブルクを継承した。次男のアルブレヒトは南マイセン、北テューリンゲンを継承し、新たに公爵位も与えられた。ヴィッティン家はエルンスト系とアルブレヒト系に分かれたのである。
1547年、ミュールベルクの戦いで勝利したカール5世は、自身に敵対したヨハン・フリードリヒ(エルンスト系)から選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツ(アルブレヒト系)に褒賞としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承した。
1697年にはフリードリヒ・アウグスト1世がポーランド王に迎えられ、1763年まで同君連合となったが、波乱が絶えなかった。1700年に開始された大北方戦争に巻き込まれて一時その地位を失い、1733年にはポーランド継承戦争が起こされた。ポーランド王国における王権は無きに等しく、大北方戦争以後のポーランドはほぼ列強の傀儡国家あるいは緩衝国と化した。
1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴い、ザクセン王国となった。時のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。1918年のドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅した。
君主一覧
独立したザクセン公
フランク王国/ドイツ王国内のザクセン公
| Dukes of Saxony | |||
|---|---|---|---|
| 肖像画 | 君主名 | 在位 | 備考 |
| ハットー家 | |||
| ベンツライプ | 838年 - 840年 | ザクセンの伯および辺境伯(Comes et marchio) | |
| リウドルフィング家(リウドルフ家) | |||
| リウドルフ | 850年 - 864/6年3月12日 | ザクセンの伯および辺境伯(Comes et marchio) | |
| ブルン | 864/6年3月12日 - 880年2月2日 | ザクセンの伯および辺境伯(Comes et marchio) | |
| オットー1世 | 880年2月2日 - 912年11月30日 | ザクセン公国の初代公爵 | |
| ハインリヒ1世 | 912年11月30日 - 936年7月2日 | ドイツ王(捕鳥王、919年 - 936年) | |
| オットー2世 | 2936年7月2日 - 961年 | ドイツ王(936年 - 973年)、皇帝(大帝、962年 - 973年) | |
| ビルング家 | |||
| ヘルマン | 961年 - 973年3月27日 | ザクセン辺境伯、ザクセン副公 | |
| ベルンハルト1世 | 973年3月27日 - 1011年2月9日 | 正式にザクセン公となる | |
| ベルンハルト2世 | 1011年2月9日 - 1059年6月29日 | ||
| オルドルフ | 1059年6月29日 - 1072年3月28日 | ||
| マグヌス | 1072年3月28日 - 1106年8月23日 | ||
| ズップリンブルク家 | |||
| ロタール1世 | 1106年 - 1137年12月4日 | ドイツ王(ロタール3世、1125年 - 1137年)、皇帝(1133年 - 1137年) | |
| アスカーニエン家 | |||
| オットー富貴公 | 1112年 | 皇帝ハインリヒ5世によりロタール1世に対抗して任命された。 マグヌス・ビルングの婿で、後のザクセン公アルブレヒト熊公の父。 | |
| マンスフェルト家 | |||
| マンスフェルト伯ホイヤー1世 | 1115年 | 皇帝ハインリヒ5世によりロタール1世に対抗して任命された。 | |
| ヴェルフ家 | |||
| ハインリヒ2世(尊大公) | 1137年12月4日 - 1139年10月20日 | 皇帝ロタール3世の婿。バイエルン公ハインリヒ10世。 | |
| アスカーニエン家 | |||
| アルブレヒト熊公 | 1139年10月20日 - 1142年 | オットー富貴公の息子でマグヌス・ビルングの孫にあたる。ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト1世。 | |
| ヴェルフ家 | |||
| ハインリヒ3世(獅子公) | 1142年 - 1180年 | ハインリヒ2世(尊大公)の息子で皇帝ロタール3世の孫にあたる。バイエルン公ハインリヒ12世。 | |
1180年にヴェルフ家が追放されたことで、ザクセン公国の領土は大幅に縮小した。ヴェストファーレンはケルン大司教の支配下に入り、ブラウンシュヴァイクはヴェルフ家の支配下に残った。
ザクセン公および選帝侯
アスカーニエン家
| ザクセン公国 (1180年 - 1296年) | ||||
| ザクセン=ヴィッテンベルク (1296年 - 1356年) (陞爵) ザクセン選帝侯領 (1356年 - 1422年) |
ザクセン=ラウエンブルク (1296年 - 1303年) | |||
| ザクセン=ラッツェブルク (1303年 - 1315年) | ||||
| ザクセン=メルン (1303年 - 1401年) |
ザクセン=ベルゲドルフ (1303年 - 1315年) (改名) ザクセン=ラッツェブルク (1315年 - 1401年) | |||
| ザクセン=ラウエンブルク (ラッツェブルク系) (1401年 - 1689年) | ||||
| 君主名 | 生誕 | 在位 | 死没 | 領地 | 結婚 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ベルンハルト3世 | 1134年頃 | 1180年 - 1212年 | 1212年2月2日 | ザクセン | ブリジット・フォン・デーネマルク 6子 ゾフィー・フォン・テューリンゲン 1子 ユーディト・フォン・ポーレン 1173年頃 子女なし | バレンシュテット伯およびアンハルト侯。 | |
| アルブレヒト1世 | 1175年頃 | 1212年 - 1260年 | 1260年10月7日 | ザクセン | アグネス・フォン・エスターライヒ 1222年 5子 アグネス・フォン・テューリンゲン 1238年 3子 ヘレーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1247年 5子 | 熊公の孫、祖父とは別人 | |
| アルブレヒト2世 | 1250年 | 1260年 - 1296年 | 1298年8月25日 | ザクセン | アグネス・フォン・ハプスブルク 1282年 6子 |
1260年のアルブレヒト1世の死後、2人の息子は共同統治を行い、兄ヨハン1世の死後、その息子3人を共同統治に加えた。しかし、この3人の甥はアルブレヒト2世と領地を分割した。アルブレヒト2世はザクセン=ヴィッテンベルクを保持し、ザクセン兄系家の当主となった。アルブレヒト3世、エーリヒ1世、ヨハン2世はザクセン=ラウエンブルクで共同統治を行い、ザクセン弟系家の創始者となった。 | |
| 1296年 - 1298年 | ザクセン=ヴィッテンベルク | ||||||
| ヨハン1世 | 1249年 | 1260年 - 1282年 | 1285年7月30日 | ザクセン | インゲボルグ・ビルイェルドッテル 1270年 8子 | ||
| 1296年、アルブレヒト2世とその甥のアルブレヒト3世、エーリヒ1世、ヨハン2世は共同統治を終わらせ、ザクセンをラウエンブルク(アルブレヒト3世、エーリヒ1世、ヨハン2世は1303年まで共同統治を続けた)とヴィッテンベルク(アルブレヒト2世は1298年まで単独統治を続けた)に分割した。ザクセン公は新たな神聖ローマ皇帝を選出する選帝侯の一人とみなされていたため、ザクセンの投票権を誰が持つべきかという問題でラウエンブルク家とヴィッテンベルク家の間で対立が生じた。1314年、両家は二重選挙で異なる側についた。最終的に、1356年に「1356年の黄金勅書」が公布された後、ザクセン=ヴィッテンベルク公が勝利した。ザクセン公の称号を持つ他の君主と区別するために、ザクセン=ヴィッテンベルク公は一般的に「ザクセン選帝侯」と呼ばれた。 | |||||||
| ヨハン2世 | 1275年 | 1296年 - 1303年 | 1322年4月22日 | ザクセン=ラウエンブルク | エリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク 1315年 1子 |
ヨハン1世の子供たちは、1282年(父の死後)から叔父のアルブレヒト2世と共同統治を行い、1296年にアルブレヒト2世と領地を分割した。彼らはラウエンブルクを保持し、そこを再び分割した。アルブレヒトは領地を未亡人マルガレーテに譲り、1315年にマルガレーテが亡くなった後、領地は再編成された。エーリヒはベルゲドルフを兄ヨハンと分割し、兄アルブレヒトの相続地をすべて保持した。しかし、エーリヒは最終的に息子に退位し、その治世のほとんどを生き延びた。 | |
| 1303年 - 1322年 | ザクセン=メルン | ||||||
| エーリヒ1世 | 1280年 | 1296年 - 1303年 | 1360年 | ザクセン=ラウエンブルク | エリーザベト・フォン・ポンメルン 1316/8年 4子 | ||
| 1303年 - 1338年 | ザクセン=ベルゲドルフ (1303年 - 15年) ザクセン=ラッツェブルク (1315年 - 38年) | ||||||
| アルブレヒト3世 | 1281年 | 1296年 - 1303年 | 1308年 | ザクセン=ラウエンブルク | マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク=ザルツヴェーデル 1302年 子女なし | ||
| 1303年 - 1308年 | ザクセン=ラッツェブルク | ||||||
| マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク=ザルツヴェーデル | 1270年 | 1308年 - 1315年 | 1315年5月1日 | ザクセン=ラッツェブルク | ポーランド王プシェミスウ2世 1302年 2子 アルブレヒト3世 1302年 2子 | ||
| 1315年、マルガレーテ・フォン・ブランデンブルクの死後、兄弟エーリヒとヨハンはザクセン=ラウエンブルクを再編成した。エーリヒはマルガレーテの領地をすべて保持したが、自身の元の領地の一部を兄に譲らなければならなかった。 | |||||||
| ルドルフ1世 | 1284年 | 1298年 - 1356年 1356年1月10日 - 1356年3月12日 | 1356年3月12日 | ザクセン=ヴィッテンベルク ザクセン選帝侯領 | ユッタ・フォン・ブランデンブルク=ザルツヴェーデル 1298年 8子 クネグンダ・ウォキェトクヴナ 1328年8月28日 1子 アグネス・フォン・リンドー=ルッピン 1333年 3子 | 1356年1月、金印勅書によりルドルフ1世が正当なザクセン選帝侯として承認され、ザクセン=ヴィッテンベルクの支配者はザクセン選帝侯とみなされるようになった。 | |
| 1356年の金印勅書は、ザクセン=ヴィッテンベルク家のザクセン公に、神聖ローマ皇帝の選挙に参加する権利を認めた。 | |||||||
| エリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルクによる摂政政治(1322年 - 1330年) | |||||||
| アルブレヒト4世 | 1315年 | 1322年 - 1343年 | 1343年 | ザクセン=メルン | ベアタ・フォン・シュヴェリーン 1334年 3子 ゾフィー・フォン・メクレンブルク=ヴェルレ=ギュストロー 1341年 子女なし | ||
| エーリヒ2世 | 1318/20年 | 1338年 - 1368年 | 1368年 | ザクセン=ラッツェブルク | アグネス・フォン・ホルシュタイン=プレン 1342年から1349年の間 4子 | ||
| ヨハン3世 | 1330年頃 | 1343年 - 1356年 | 1356年 | ザクセン=メルン | 未婚 | 子女なく、弟アルブレヒトが跡を継いだ。 | |
| アルブレヒト5世 | 1330年頃 | 1356年 - 1370年 | 1370年 | ザクセン=メルン | カテリーナ・フォン・ヴェルレ=ギュストロー 1366年1月25日 子女なし | 子女なく、弟エーリヒが跡を継いだ。 | |
| ルドルフ2世(盲目公) | 1307年 | 1356年3月12日 - 1370年12月6日 | 1370年12月6日 | ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領 | エリーザベト・フォン・ヘッセン 1336年5月8日以前 1子 | 後継者なし | |
| ヴェンツェル | 1337年 | 1370年12月6日 - 1388年5月15日 | 1388年5月15日 | ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領 | ツェツィーリエ・ダ・カッラーラ 1376年1月23日 6子 | 兄の跡を継いだ。 | |
| エーリヒ3世 | 1330年頃 | 1370年 - 1401年 | 1401年 | ザクセン=メルン | 未婚 | 聖職者になることを決意していたが、兄の後を継ぐために辞任せざるを得なかった。また、彼には子女がいなかったため、ザクセン=ラッツェブルク=ラウエンブルク家がザクセン=ラウエンブルクを再統一することになった。 | |
| ルドルフ3世 | 1378年 | 1388年5月15日 - 1419年6月11日 | 1419年6月11日 | ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領 | アンナ・フォン・マイセン 1387/89年 3子 バルバラ・フォン・リーグニッツ 1396年3月 2子 | 息子がいなかったため、弟アルブレヒトが跡を継いだ。 | |
| 1401年、ザクセン=ラッツェブルク=ラウエンブルク家は、エーリヒ4世の死によって断絶したラウエンブルク系アスカ-ニエン家からザクセン=ベルゲドルフ=メルンを継承した。再統一された公国は、旧称のザクセン=ラウエンブルクとして存続した。 | |||||||
| エーリヒ4世 | 1354年 | 1368年 - 1401年 | 1411/12年6月21日 | ザクセン=ラッツェブルク | ゾフィー・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1373年4月8日 10子 |
1401年にザクセン=ラウエンブルクが再統一された。 | |
| 1401年 - 1411/12年 | ザクセン=ラウエンブルク | ||||||
| エーリヒ5世 | 1373年以降 | 1411/12年 - 1436年 | 1436年 | ザクセン=ラウエンブルク | エリーザベト・フォン・ホルシュタイン=レンズブルク 1404年 子女なし エリーザベト・フォン・ヴァインスベルク 1422年以前 1子 |
共同統治。ここでの序数は多少混乱を招く。アスカーニエン家の系図学者の中には、ザクセン=ラウエンブルク公のリストにヨハン4世を含めず、ヨハン5世(ヨハン4世の甥)を「ヨハン4世」と数えている者もいる。 | |
| ヨハン4世 | 1373年以降 | 1411/12年 - 1414年 | 1414年 | ザクセン=ラウエンブルク | 未婚 | ||
| アルブレヒト3世 | 1375/80年 | 1419年6月11日 - 1422年(11月12日以前) | 1422年11月12日以前 | ザクセン=ヴィッテンベルクおよびザクセン選帝侯領 | エウフェミア・フォン・エールス 1420年1月14日 子女なし | 1422年、アルブレヒト3世の死によってザクセン=ヴィッテンベルク系アスカーニエン家は途絶え、ザクセン公位はマイセンおよびテューリンゲンの辺境伯、ヴェッティン家のフリードリヒがその地位を継承した。 | |
| アスカ-ニエン家は1689年までザクセン=ラウエンブルクで存続したが、1356年にラウエンブルク家がザクセン選帝侯領をヴィッテンベルク家に奪われ、1422年以降も選帝侯領の継承権を得られなかったため、ザクセン=ラウエンブルク公家がザクセン公として認められる度合いは薄れていった。ザクセン=ラウエンブルクのアスカ-ニエン家については、以下の表を参照。ザクセン選帝侯家については、ヴェッティン家の項を参照。 | |||||||
| ベルンハルト4世 | 1385/93年 | 1436年 - 1463年 | 1463年7月16日 | ザクセン=ラウエンブルク | アーデルハイト・フォン・ポンメルン=シュトルプ 1428年 2子 | ||
| ヨハン5世 | 1439年7月18日 | 1463年 - 1507年 | 1507年8月15日 | ザクセン=ラウエンブルク | ドロテア・フォン・ブランデンブルク 1464年2月12日 12子 | ヨハン4世と表記されることもある。叔父のヨハン4世(エーリク5世とベルンハルト4世の兄弟)や、実の息子(ヒルデスハイム司教ヨハン4世)と混同されることがある。 | |
| マグヌス1世 | 1470年1月1日 | 1507年 - 1543年 | 1543年8月1日 | ザクセン=ラウエンブルク | カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル 1509年11月20日 ヴォルフェンビュッテル 6子 | ||
| フランツ1世 | 1510年 | 1543年 - 1571年 | 1581年3月19日 | ザクセン=ラウエンブルク | ジビッレ・フォン・ザクセン 1540年2月8日 ドレスデン 9子 | 1571年、多額の負債を抱えたフランツ1世は、長男のマグヌス2世に公位を譲った。マグヌス2世は、スウェーデン軍司令官として得た資金とスウェーデン王女との結婚によって得た資金で、質に入れられた公領を買い戻すと約束していた。 | |
| マグヌス2世 | 1543年 | 1571年 - 1573年 | 1603年3月14日 | ザクセン=ラウエンブルク | ソフィア・ヴァーサ 1568年7月4日 ストックホルム 1子 | フランツ1世の長男。約束した借金を返済せず、父や弟との戦争を引き起こした。2年後、彼らはマグヌス2世を廃位し、フランツ1世が復位した。マグヌスは武力と司法の力により公領を取り戻そうとしたが失敗に終わった。1588年、マグヌスは残りの人生を投獄下で過ごした。 | |
| フランツ1世 | 1510年 | 1573年 - 1581年 | 1581年3月19日 | ザクセン=ラウエンブルク | ジビッレ・フォン・ザクセン 1540年2月8日 ドレスデン 9子 | マグヌス2世を退けた後、1573年に公位を奪還した。 | |
| フランツ2世 | 1547年8月10日 | 1581年 - 1619年 | 1619年7月2日 | ザクセン=ラウエンブルク | マルガレーテ・フォン・ポンメルン=ヴォルガスト 1574年12月26日 ヴォルガスト 4子 マリア・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル 1582年11月10日 ヴォルフェンビュッテル 14子 | マグヌス2世の弟。1578年から副摂政、1581年から行政官。1581年から1612年まで弟モーリッツと共同統治を行った。アウグストとユリウス・ハインリヒの父。 | |
| モーリッツ | 1551年 | 1581年 - 1612年 | 1612年11月2日 | ザクセン=ラウエンブルク | カタリーナ・フォン・シュパーク 1581年 (1582年に結婚解消) 子女なし | 兄フランツ2世と共治 | |
| アウグスト | 1577年2月17日 | 1619年 - 1656年 | 1656年1月18日 | ザクセン=ラウエンブルク | エリーザベト・ゾフィー・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ 1621年3月5日 フースム 6子 カタリーナ・フォン・オルデンブルク 1633年6月4日 子女なし | 息子がいなかったため、異母弟ユリウス・ハインリヒが跡を継いだ。 | |
| ユリウス・ハインリヒ | 1586年4月9日 | 1656年 - 1665年 | 1665年11月20日 | ザクセン=ラウエンブルク | アンナ・フォン・オストフリースラント 1617年3月17日 グラーボウ 子女なし エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク 1633年6月4日 トゥジム 1男 アンナ・マグダレーナ・フォン・ロプコヴィッツ 1632年8月18日 ウィーン 6子 | ||
| フランツ・エルトマン | 1629年2月25日 | 1665年 - 1666年 | 1666年7月30日 | ザクセン=ラウエンブルク | ジビッラ・ヘートヴィヒ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク 1654年 子女なし | 子女を残さなかったため、弟のユリウス・フランツが跡を継いだ。 | |
| ユリウス・フランツ | 1641年9月16日 | 1666年 - 1689年 | 1689年9月30日 | ザクセン=ラウエンブルク | ヘートヴィヒ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ 1668年4月9日 ズルツバッハ 2子 | ||
ヴェッティン家
| 君主名 | 生誕 | 在位 | 死没 | 領地 | 結婚 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| フリードリヒ1世(好戦公) | 1370年4月11日 | 1423年1月6日 - 1428年1月4日 | 1428年1月4日 | ザクセン公国およびザクセン選帝侯領 | カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1402年2月7日 7子 | ヴィッテンベルク系アスカーニエン家が断絶した後、選帝侯領はヴェッティン家のマイセン辺境伯兼テューリンゲン方伯フリードリヒに与えられた。 | |
| フリードリヒ2世(紳士公) | 1412年4月22日 | 1428年1月4日 - 1464年9月7日 | 1464年9月7日 | ザクセン公国およびザクセン選帝侯領 | マルガレータ・フォン・エスターライヒ 1431年6月3日 ライプツィヒ 8子 | フリードリヒ1世の息子。弟たちとザクセンを共同統治したが、選帝侯の地位は単独で保持していた。エルンストとアルブレヒトの父であり、彼らはザクセン家のエルネスティン家とアルベルティン家の祖である。 | |
1464年にフリードリヒ2世が死亡すると、遺領は分割相続された。次男(長男は既に死亡)のエルンストが選帝侯となり、北マイセン、南テューリンゲン、ヴィッテンベルクを継承した(エルンスト系またはエルネスティン系)。3男のアルブレヒトは南マイセン、北テューリンゲンを継承し、ザクセン公を称した(アルブレヒト系またはアルベルティン系)。
エルンスト系ヴェッティン家(ザクセン選帝侯・ザクセン公)
| 君主名 | 生誕 | 在位 | 死没 | 領地 | 結婚 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| エルンスト1世 | 1441年3月24日 | 1464年9月7日 - 1486年8月26日 | 1486年8月26日 | ザクセン選帝侯領 | エリーザベト・フォン・バイエルン=ミュンヘン 1460年11月25日 ライプツィヒ 7子 | フリードリヒ2世の息子。エルンスト系ヴェッティン家の家祖。 | |
| フリードリヒ3世 (賢公) | 1463年1月17日 | 1486年8月26日 - 1525年5月5日 | 1525年5月5日 | ザクセン選帝侯領 | 未婚 | エルンストの息子。マルティン・ルターの保護者であったが、生涯カトリック教徒であった。息子を残さなかった。弟のヨハンと共同統治を行い、ヨハンが跡を継いだ。 | |
| ヨハン1世 | 1468年6月30日 | 1525年5月5日 - 1532年8月16日 | 1532年8月16日 | ザクセン選帝侯領 | ゾフィー・フォン・メクレンブルク 1500年3月1日 トルガウ 1子 マルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテン 1513年11月13日 トルガウ 4子 | 兄フリードリヒ3世の共同摂政(1486年8月26日 - 1525年5月5日)であり、1513年以降はヴァイマルに居を構えた。1527年に自らの領地でルター派を確立した。 | |
| ヨハン・フリードリヒ1世 | 1503年6月30日 | 1532年8月16日 - 1547年5月19日 | 1554年3月3日 | ザクセン選帝侯領 | ジビュレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク 1527年2月9日 トルガウ 4子 | シュマルカルデン戦争で皇帝に敗れた後、選帝侯としての地位と領地を従兄弟のモーリッツに奪われた。ザクセン公国として残された領地はごくわずかだった。エルンスト系はその後も存続するが、主流からは外れ、ヨハン・ヴィルヘルムの時代以降にザクセン=ヴァイマル、ザクセン=コーブルク、ザクセン=アイゼナハなどの諸公国(Ernestinische Herzogtümer)に分裂する。 | |
| 1547年5月19日 - 1554年 | ザクセン公国 | ||||||
| ヨハン・フリードリヒ2世 | 1529年1月8日 | 1565年 - 1566年 | 1595年5月19日 | ザクセン=コーブルク=アイゼナハおよびザクセン=ゴータ | アグネス・フォン・ヘッセン 1555年5月26日 ヴァイマル 子女なし エリーザベト・フォン・デア・プファルツ 1558年6月12日 ヴァイマル 4子 | ザクセン=ヴァイマル公国を継承。1565年、ゴータの弟の領地と統合。1566年、弟のヨハン・ヴィルヘルムに公位を譲り、ヨハン・ヴィルヘルムは公国を再統一した。 | |
| ヨハン・ヴィルヘルム | 1530年3月11日 | 1566年 - 1572年 | 1532年8月16日 | ザクセン公国 | ドロテア・ズザンナ・フォン・デア・プファルツ 1560年6月15日 ハイデルベルク 5子 | ザクセン=ヴァイマルを獲得。1565年、ゴータの兄の領地と統合。1566年、兄の退位後、ザクセンを再統一。1572年、エアフルト分割により、ザクセンは再びヨハン・ヴィルヘルムと甥であるヨハン・フリードリヒ2世の息子たちの間で分割された。彼は再びザクセン=ヴァイマルを獲得。 | |
アルブレヒト系ヴェッティン家(ザクセン公・ザクセン選帝侯)
| 君主名 | 生誕 | 在位 | 死没 | 領地 | 結婚 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| アルブレヒト3世(大胆公) | 1443年1月27日 | 1464年 - 1500年 | 1500年9月12日 | ザクセン公国 | ズデンカ・ス・ポジェブラト 1464年11月11日 ヘプ 9子 | フリードリヒ2世の息子。アルブレヒト系ヴェッティン家の家祖。 | |
| ゲオルク1世 | 1471年8月27日 | 1500年 - 1539年 | 1539年4月17日 | ザクセン公国 | バルバラ・ヤギェロンカ 1496年11月21日 ドレスデン 10子 | カトリック改革の提唱者であり、マルティン・ルターの強硬な反対者であった。男子を残さず、弟のハインリヒ4世が後を継いだ。 | |
| ハインリヒ4世 | 1473年3月16日 | 1539年 - 1541年 | 1541年8月18日 | ザクセン公国 | カタリーナ・フォン・メクレンブルク 1541年1月 マールブルク 9子 | 兄ゲオルク1世の後を継いで即位した。アルブレヒト系ザクセン公領にルター派を確立した。 | |
| モーリッツ | 1521年3月21日 | 1541年 - 1547年 | 1553年7月9日 | ザクセン公国 | アグネス・フォン・ヘッセン 1541年1月9日 マールブルク 10子 | ヨハン・フリードリヒの又従兄弟で、アルベルトの孫。ルター派であったが、シュマルカルデン同盟に対抗して皇帝カール5世と同盟を結んだ。1547年、カール5世がミュールベルクの戦いで勝利した後、自身に敵対したヨハン・フリードリヒから選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツに褒美としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承した。モーリッツは男子を残さず、弟のアウグストが跡を継いだ。 | |
| 1547年6月4日 - 1553年7月9日 | ザクセン選帝侯領 | ||||||
| アウグスト1世 | 1526年7月31日 | 1553年7月9日 - 1586年2月11日 | 1586年2月11日 | ザクセン選帝侯領 | アンナ・ア・ダンマーク 1548年10月7日 トルガウ 15子 アグネス・ヘートヴィヒ・フォン・アンハルト 1586年1月3日 デッサウ 子女なし |
モーリッツの弟。1554年、追放されたヨハン・フリードリヒ1世によって選帝侯として認められた。1573年からは、エルネスティン家のザクセン=ヴァイマル公国において、フリードリヒ・ヴィルヘルムの摂政も務めた。 | |
| クリスティアン1世 | 1560年10月29日 | 1586年2月11日 - 1591年9月25日 | 1591年9月25日 | ザクセン選帝侯領 | ゾフィー・フォン・ブランデンブルク 1582年4月25日 ドレスデン 7子 | ||
| ゾフィー・フォン・ブランデンブルクによる摂政政治(1591年 - 1601年) | |||||||
| クリスティアン2世 | 1583年9月23日 | 1591年9月25日 - 1611年6月23日 | 1611年6月23日 | ザクセン選帝侯領 | ヘゼヴィ・ア・ダンマーク 1602年9月12日 ドレスデン 子女なし | ||
| ヨハン・ゲオルク1世 | 1585年3月5日 | 1611年6月23日 - 1656年10月8日 | 1656年10月8日 | ザクセン選帝侯領 | ジビッラ・エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク 1604年9月16日 ドレスデン 1子 マグダレーナ・ジビュレ・フォン・プロイセン 1607年7月19日 トルガウ 10子 | クリスティアン2世の弟であり、三十年戦争中に統治し、その期間中、皇帝フェルディナント2世と同盟を結んだり、スウェーデン王グスタフ2世アドルフと同盟を結んだりした。 | |
| ヨハン・ゲオルク2世 | 1613年5月31日 | 1656年10月8日 - 1680年8月22日 | 1680年8月22日 | ザクセン選帝侯領 | マグダレーナ・ジビュレ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト 1638年11月13日 ドレスデン 3子 | 選帝侯であった彼は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のザクセン=アルテンブルクにおける摂政も務めた。幼少の公爵は成人することなく世を去った。 | |
| ヨハン・ゲオルク3世 | 1647年6月20日 | 1680年8月22日 - 1691年9月12日 | 1691年9月12日 | ザクセン選帝侯領 | アンナ・ソフィー・ア・ダンマーク 1666年10月9日 コペンハーゲン 2子 | ||
| ヨハン・ゲオルク4世 | 18 October 1668 | 1691年9月12日 – 1694年4月27日 | 1694年4月27日 | ザクセン選帝侯領 | エレオノーレ・フォン・ザクセン=アイゼナハ 1692年4月17日 ライプツィヒ 子女なし | ||
| フリードリヒ・アウグスト1世 | 1670年5月12日 | 1694年4月27日 - 1733年2月1日 | 1733年2月1日 | ザクセン選帝侯領 | クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト 1693年1月20日 バイロイト 1子 | ヨハン・ゲオルク4世の弟。1697年にポーランド王位を争うためにカトリックに改宗。1697年にポーランド王位に就くが、スタニスワフ・レシチニスキの反対を受け、1704年に王位を放棄。1706年に王位を返上。1709年に王位に復帰し、死去するまでその地位にあった。また、ザクセン=メルゼブルク公クリスティアン・モーリッツとモーリッツ・ヴィルヘルムの摂政も務めた。 | |
| フリードリヒ・アウグスト2世 | 1696年10月17日 | 1733年2月1日 - 1763年10月5日 | 1763年10月5日 | ザクセン選帝侯領 | マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ 1719年8月20日 ドレスデン 16子 | フリードリヒ・アウグスト1世の息子。1712年にカトリックに改宗。1734年から1763年までポーランド王。 | |
| フリードリヒ・クリスティアン | 1722年9月5日 | 1763年10月5日 - 1763年12月17日 | 1763年12月17日 | ザクセン選帝侯領 | マリア・アントーニア・フォン・バイエルン 1747年6月13日 ミュンヘン (代理結婚) 20 June 1747 ドレスデン (本人による) 9子 | フリードリヒ・アウグスト2世の息子で、カトリック教徒として育った。 | |
| マリア・アントーニア・フォン・バイエルンによる摂政政治(1763年 - 1768年) | フリードリヒ・クリスティアンの息子。1806年の神聖ローマ帝国の崩壊に伴い選帝侯の地位を終え、ザクセン王となった。 | ||||||
| フリードリヒ・アウグスト3世 | 1750年12月23日 | 1763年12月17日 - 1806年12月20日 | 1827年5月5日 | ザクセン選帝侯領 | アマーリエ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト 1769年1月17日 マンハイム (代理結婚) 1769年1月29日 ドレスデン (本人による) 4子 | ||
ザクセン王
1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴いザクセンは王国に昇格、ザクセン王国となり、フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。
| 君主名 | 生誕 | 在位 | 死没 | 領地 | 結婚 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| フリードリヒ・アウグスト1世 | 1750年12月23日 | 1806年12月20日 - 1827年5月5日 | 1827年5月5日 | ザクセン王国 | アマーリエ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト 1769年1月17日 マンハイム (代理結婚) 1769年1月29日 ドレスデン (本人による) 4子 | 1806年に新たに独立したザクセン王国の王となった。ワルシャワ公(1807年 - 1813年)。息子がおらず、弟が跡を継いだ(序数はここから再び開始)。 | |
| アントン | 1755年12月27日 | 1827年5月5日 - 1836年6月6日 | 1836年6月6日 | ザクセン王国 | マリーア・カロリーナ・ディ・サヴォイア 1781年9月29日 ストゥピニージ (代理結婚) 1781年10月24日 ドレスデン (本人による) 子女なし マリア・テレジア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ 1787年9月8日 フィレンツェ (代理結婚) 1787年10月18日 ドレスデン (本人による) 4子 | 息子がおらず、甥が跡を継いだ。 | |
| フリードリヒ・アウグスト2世 | 1797年5月18日 | 1836年6月6日 - 1854年8月9日 | 1854年8月9日 | ザクセン王国 | カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ 1819年9月26日 ウィーン (代理結婚) 1819年10月7日 ドレスデン (本人による) 子女なし マリア・アンナ・フォン・バイエルン 1833年4月24日 ドレスデン 子女なし | マクシミリアン・フォン・ザクセンの息子。子女がおらず、弟が跡を継いだ。 | |
| ヨハン | 1801年12月12日 | 1854年8月9日 - 1873年10月29日 | 1873年10月29日 | ザクセン王国 | アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン 1822年11月10日 ミュンヘン (代理結婚) 1822年11月21日 ドレスデン (本人による) 9子 | 1871年のドイツ統一後、ドイツ帝国の従属君主となった。 | |
| アルブレヒト | 1828年4月23日 | 1873年10月29日 - 1902年6月19日 | 1902年6月19日 | ザクセン王国 | カロラ・ヴァーサ 1853年6月18日 ドレスデン 子女なし | ||
| ゲオルク | 1832年8月8日 | 1902年6月19日 - 1904年10月15日 | 1904年10月15日 | ザクセン王国 | マリア・アナ・デ・ブラガンサ 1859年5月11日 リスボン 8子 | ||
| フリードリヒ・アウグスト3世 | 1865年5月25日 | 1904年10月15日 - 1918年11月13日 | 1932年2月18日 | ザクセン王国 | ルイーゼ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ 1891年11月21日 ウィーン (1903年、ルイーゼが宮廷から逃亡した後、王令により無効とされた) 7子 | 1918年退位。ザクセンは共和政(ザクセン自由州)へ移行[1]。 | |
1918年以降のヴェッティン(ザクセン)家の当主
1918年のドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅した。以降のザクセンの首相については、ザクセン州#歴代州首相を参照。
- フリードリヒ・アウグスト3世(1918年 - 1932年)
- フリードリヒ・クリスティアン(1932年 - 1968年) - マイセン辺境伯
- マリア・エマヌエル(1968年 - 2012年) - マイセン辺境伯
- アルブレヒト・ヨーゼフ(2012年) - マイセン辺境伯
2012年にアルブレヒト・ヨーゼフの死によってアルブレヒト系ヴェッティン家の正嫡は断絶した。マリア・エマヌエルはそれを見越して1997年に一族の合意を得て甥のアレクサンダー・ド・アフィーフを後継者に指名し彼とその子供はザクセン=ゲッサフェの姓を名乗るようになった。しかし、アルブレヒト・ヨーゼフはそれを撤回し叔父エルンスト・ハインリヒの息子ティーモの貴賤結婚の息子リューディガーを後継者に考えていた。