ジョージ・ワシントン高校時代にオールアメリカンに選ばれたフィリップ・アーノルド・スミスは、サンフランシスコ大学の夜間クラスに進学。キャンパス内で行われたバスケットボールの練習試合に参加したところ同校バスケチームのコーチ、ボブ・ゲイラードに見出され、2年生のシーズンには平均15.0得点、3年生のシーズンには18.7得点、最後の4年生のシーズンには20.7得点の成績を残し、全てのシーズンでカンファレンスのオールチームに選出され、最終学年ではオールアメリカンにも選ばれた。卒業1年前の1973年にはABAのバージニア・スクワイアーズから指名を受けている。また彼の背番号『20』は同校の永久欠番となった。
1974年のNBAドラフトで2巡目全体29位指名でゴールデンステート・ウォリアーズに入団。ルーキーシーズンは平均7.7得点の成績を残した。ウォリアーズはシーズン前に大黒柱のネイト・サーモンドを放出しており、苦しいシーズンを送るだろうと思われていたが、リック・バリーらの活躍で48勝をあげてカンファレンス首位の成績を収めるとプレーオフも勝ち抜き、NBAファイナルに進出。ファイナルでは60勝をあげたワシントン・ブレッツとの対決となり、ウォリアーズの快進撃もここまでと思われたが、第1戦でルーキーのスミスが20得点をあげる活躍を見せて勝利すると共に、ブレッツに会心の先制パンチを浴びせた。この第1戦の勝利がシリーズの流れに大きな影響を及ぼし、ウォリアーズは周囲の予想を覆す4戦全勝でブレッツを破り、見事に優勝を果たした。優勝に貢献したスミスはNBA1年目からチャンピオンリングを獲得することになった。ファイナルでの活躍の余勢を駆って、スミスは1975-76シーズンに入ると大きな成長を見せる。スミスは前年を大きく上回る平均20.0得点4.4アシストの成績を残すと、オールスターにも出場し、さらにオールNBA2ndチーム、オールディフェンシブ2ndチームにも名を連ねた。スミスの成長に後押しされ、ウォリアーズもフランチャイズ記録となる59勝をあげている。以後もスミスはエースのバリーの相棒としてウォリアーズの中核を占めたが、ウォリアーズは59勝をあげたシーズンを頂点に徐々に衰退を始め、そしてスミス自身も1979-80シーズン開幕前の練習でアキレス腱断裂という大怪我を負い、この怪我がもとでパフォーマンスが低下し始めた。そして1980-81シーズンにはワールド.B.フリーとの交換でサンディエゴ・クリッパーズにトレードされ、6年所属したウォリアーズに別れを告げた。その後シアトル・スーパーソニックスに移籍し、1983年に現役から引退した。
- NBA通算成績
- 659試合出場
- 9,924得点(平均15.1得点)
- 2,561アシスト(平均3.9アシスト)