フィールドノート
From Wikipedia, the free encyclopedia
| Field notes / w:Fieldnotes | |
|---|---|
| 野外調査・フィールドワークにおける観察記録 | |
| 基本情報 | |
| 別称 | 調査ノート、観察記録 |
| 適用分野 | 民族誌学、人類学、社会学、生態学、鳥類学、地質学、考古学、質的研究全般 |
| 主要な構成要素 | 記述的情報・省察的情報 |
| 代表的手法 | グリネル・システム、厚い記述 |
| 関連概念 | 参与観察、民族誌、質的研究、厚い記述 |
フィールドノート(英語: field notes、または w:fieldnotes)とは、研究者や科学者がフィールドワーク(野外調査・現地調査)の過程において、観察対象となる生物・現象・社会的状況を記録するために作成する質的メモのことである[1]。
フィールドノートは、観察によって得られた意味の解釈と理解を助けるための証拠として読まれることを目的としており、研究者が研究対象に目立たない形でアクセスしながら観察内容を記録する手段として機能する[2]。
フィールドノートは、民族誌学・生物学・生態学・地質学・考古学といった記述的科学において特に重視されており、それぞれの分野において長い伝統を有する。
質的研究において、フィールドノートは参与観察から得られるデータの中心的な記録手段であり、社会的慣行・文化的儀礼・言語的コミュニケーション・非言語的行動を質的データへと変換するための主要な手段として機能する[3]。
フィールドノートは、純粋な客観的記述でも、事実データの完全・正確な記録のみを目的とするものでもない。研究者の解釈・省察・感情的反応を含んでいる点に特徴がある。この二重的性質——記述的側面と省察的側面——によって、フィールドノートは研究対象の現象を包括的に描写する資料となる[4]。
フィールドノートの注意すべきことは、記録者である観察者の記憶と無意識の偏見(バイアス)に依存する点が挙げられる。そのため、観察中または調査地を離れた直後に記録することが望ましいとされている[5]。また、フィールドノートは研究チームの枠を超えて豊富な文脈情報を後世に残す手段としても機能し、データ共有・二次分析・メタ統合において重要な役割を担う[6]。
歴史的背景
フィールドワークの成立
19世紀末まで、多くの人類学者はいわゆる「安楽椅子学者(armchair scientists)」であり、宣教師・植民地官僚・旅行者などから収集した記録に基づいて研究を行っていた。現地で調査を行う場合も「ベランダ人類学(anthropology from the veranda)」と称されるように、現地の人々の日常生活に参与することなく、遠方から観察するにとどまっていた[7]。
こうした状況を変えたのが、ポーランド出身の人類学者ブロニスワフ・マリノフスキ(Bronisław Malinowski、1884–1942)である。マリノフスキは20世紀初頭、トロブリアンド諸島においてテントを村の中心に設営し、現地の人々と生活をともにしながら長期にわたる参与観察を実践した。彼は現地語を習得し、現地の「視点、生との関係、世界のビジョン」を把握することが民族誌家の目標であると論じた[8]。彼は民族誌家が収集すべきデータとして、具体的な観察可能な証拠・社会生活の「捉えがたい現実(imponderabilia)」・現地語による記述の三種類を提示した[9]。
マリノフスキの方法論は急速に普及し、E・E・エヴァンズ=プリチャード(ヌエル族の研究、1940年)やマーガレット・ミードのニューギニア研究(1977年)など、後続の著名な人類学者たちによって展開・継承された[10]。
グリネル・システム
自然科学の分野においては、アメリカの野外生物学者ジョセフ・グリネル(Joseph Grinnell、1877–1939)が、フィールドノートを系統的に記録するための詳細な方法論を開発した。グリネルはカリフォルニア大学バークレー校の脊椎動物学博物館(Museum of Vertebrate Zoology、MVZ)初代館長として、1908年以降、カリフォルニア州の動物相を記録するための大規模な調査を指揮した[11]。
グリネル・システム(Grinnell System)は以下の四つの要素で構成される[12]:
- フィールドノート
- (Fieldnote)
- 観察したその場での記録、また記録するための携帯ノート。
- フィールドジャーナル
- (Field Journal)
- 毎夜フィールドノートを参照しながら日記(ジャーナル)形式でまとめる詳細記録。
- 種の記録
- (Species Account)
- 特定の種の行動や生態の詳細記述。
- 標本カタログ
- (Catalog)
- 採集した標本の採集場所・日時を記録した目録。
グリネルは1908年の時点で「われわれのフィールド記録はおそらく最も価値ある成果となるだろう。どの観察が価値を持つかは事前には分からない」と予見しており[13]、その先見性は20世紀初頭のフィールドノートが気候変動研究に活用されている現在において実証されている。MVZは2002年からグリネルの調査地を再調査する「グリネル再調査プロジェクト(Grinnell Resurvey Project)」を開始し、グリネルの詳細なフィールドノート(標準化された鳥類カウントデータ、生息地記述を含む74,000ページ以上)を現在の観察と比較している[14]。
グリネル・システムは多くの鳥類学者や野外生物学者によって最も優れた標準化されたフィールドノート記録方法の一つとして評価されている[15]。
構成と内容
フィールドノートの構造は分野によって異なるが、一般に以下の二つの主要要素で構成される[16]。
記述的情報
記述的情報(descriptive information)は、観察された現実に関する事実データである。具体的には以下の内容が含まれる[17]:
- 日付・時間・場所などの文脈設定情報(ヘッドノート)
- 物理的環境の記述
- 調査参加者とその役割の記述
- 観察された活動・相互作用・会話の記述
- 非言語的コミュニケーション・身体的動作・感情的反応の記述
- 参加者の発言の直接引用または近似的記録
- スケッチ・図・写真などの視覚的資料
省察的情報
省察的情報(reflective information)は、観察についての研究者自身の思考・感情・解釈である。具体的には以下が含まれる[18]:
- 観察中に生じた問い・疑問・懸念
- 予備的分析や仮説
- 研究方法に関するメモ(方法論的注記)
- 研究者自身が観察環境に与えた影響の評価
- 感情的反応・個人的印象
記録の分類
人類学者ナイジェル・ラポール(Nigel Rapport)は、人類学のフィールドノートが、以下の三つの形態の間を迅速に行き来すると論じている[19]。
- インスクリプション(inscription) - キーワードや印象を書き留める
- トランスクリプション(transcription) - 現地の語りを記録する
- ディスクリプション(description) - 先行する観察と分析を総合する
手法と作成の実践
野外ジョッティング
野外での観察中に研究者が即興的に書き留めるメモは「フィールドジョッティング(field jottings)」または「スクラッチノート(scratch notes)」と呼ばれる。これは観察現場から離れた後に、より完成度の高いフィールドノートを作成するための素材となる。観察と記録の間には注意力の分散という避けがたい競合関係が生じるため、各研究者が自分に適した転記の方法(略語・記号・スケッチの活用など)を開発することが推奨される[20]。
フルノートへの転記
社会科学者ロバート・K・インは、質的フィールドノートを記録する際のベストプラクティスとして以下を推奨している[21]:
- 鮮明なイメージの記録
- 解釈ではなく、生起した行動の鮮明な記述に集中すること。早期の解釈は後の洞察を妨げる可能性がある。
- 文字通りの原則(verbatim principle)
- 個人的な言い換えではなく、起きていることを正確に記録すること。
- スケッチや図の活用
- 言葉では記録しにくいフィールド活動の重要な側面を視覚的に捉えること。
- 日常的な転記
- 他者と観察を共有する前に、その日の記録をフルノートに展開する時間を設けること。
記述的ノートと省察的ノートの区別
多くの研究者は、純粋に観察的な記述と個人的な省察・予備的分析を区別して記録する。この区別には、括弧による表示・異なる列への分離・注釈機能の活用など様々な方法が用いられる[22]。
分野別の特徴
人類学・社会学
民族誌研究において、フィールドノートは参与観察と不可分に結びついている。研究者は観察参加者として特定のコミュニティや出来事に注意深く関与しながら記録を行う[23]。
クリフォード・ギアーツ(Clifford Geertz)は1973年の著作『文化の解釈学(The Interpretation of Cultures)』において、フィールドノートの作成を単なる方法論的実践としてではなく、「厚い記述(thick description)」という概念として理論化した。厚い記述とは、行動の表面的記述にとどまらず、その行動が持つ意味・文脈・解釈の複層的な重なりを記録するアプローチであり、観察の連鎖をより大きな社会文化的現実の解釈へと結びつけるものである[24]。
1990年には、ロジャー・サンジェク(Roger Sanjek)が編集した『フィールドノート:人類学の形成(Fieldnotes: The Makings of Anthropology)』が刊行された。同書はフィールドノートの持つ役割を人類学的知識生産の中心に位置づける上で画期的な貢献をなした[25]。
自然科学(生態学・鳥類学)
生態学・鳥類学・地質学・考古学などの記述的自然科学においても、フィールドノートは長い伝統を持つ[26]。
自然科学のフィールドノートには通常、以下の要素が含まれる:
- 観察された種に関する記録(位置・日時を含む)
- 採集標本のカタログ
- 気象条件・植生タイプ・生息地特性に関する記述
- 動物の鳴き声や行動に関する記録
マイケル・R・キャンフィールド(Michael R. Canfield)が編集した『科学と自然のフィールドノート(Field Notes on Science and Nature)』(2011年、ハーバード大学出版局)は、鳥類学・昆虫学・生態学・古生物学・人類学・植物学・動物行動学など多様な分野にわたる自然誌家たちの実践的な野外記録の方法を紹介した重要な文献である[27]。
鳥類学者ジェームズ・ヴァン・レムセン・ジュニア(James Van Remsen Jr.)は、フィールドノートを取らない野鳥観察者が失ってしまう貴重な情報の多大な損失を指摘しており、系統的な記録の重要性を強調している[28]。
デジタル技術との関係
スマートフォンアプリやフィールドノートオンラインデータベース(iNaturalist, Biome, eBird, Touch GIS, LivMap, OpenSpace, ネイチャーレコードなど)の普及は、フィールドデータ収集の形式と頻度に大きな変化をもたらしている。こうしたツールは市民科学に新たな可能性を開く一方で、手書きのフィールドノートが持つ詳細な観察の統合・個人的な科学者としての成長という側面を代替することはできないという意見もある[29]。
ロジャー・サンジェクとスーザン・W・トラトナーが共同編集した『eフィールドノート(eFieldnotes)』(2016年、ペンシルベニア大学出版局)は、デジタル技術が人類学的フィールドワークと研究対象に与えた影響を包括的に論じており、オフライン・オンラインの双方でのフィールドワーク実践の変容と継続性を検討している[30]。
影響・意義
主要文献
- 'Fieldnotes: The Makings of Anthropology' / Sanjek, Roger (ed.) — Cornell University Press, 1990.
- 'eFieldnotes: The Makings of Anthropology in the Digital World' / Sanjek, Roger and Susan W. Tratner (eds.) — University of Pennsylvania Press, 2016.
- 'Field Notes on Science and Nature' / Canfield, Michael R. (ed.) — Harvard University Press, 2011.
- 'The Interpretation of Cultures' / Geertz, Clifford — Basic Books, 1973.(邦訳:『文化の解釈学』、吉田禎吾ほか訳、岩波書店、1987年)
- 'Argonauts of the Western Pacific' / Malinowski, Bronisław — Routledge and Kegan Paul, 1922.(邦訳:『西太平洋の遠洋航海者』、増田義郎訳、講談社学術文庫、2010年)
- Phillippi, J. and Lauderdale, J., "A Guide to Field Notes for Qualitative Research: Context and Conversation," 'Qualitative Health Research', 28(3): 381–388, 2018.