フェルナン・ブイッソン From Wikipedia, the free encyclopedia ムーリス通信社(フランス語版)による肖像写真、1931年撮影。 フェルナン・エミール・オノレ・ブイッソン(Fernand Emile Honoré Bouisson、1874年6月16日 – 1959年12月28日)は、フランス第三共和政の政治家。1927年から1936年まで代議院議長を務めた[1]。1935年6月に一時退任して組閣するも、代議院での承認を得られず、任期は1週間を満たなかった[1]。 1874年6月16日、フランス領アルジェリアのコンスタンティーヌで生まれた[1]。しかし子供のときにブーシュ=デュ=ローヌ県オーバーニュに引っ越したこともあり、プロヴァンスを自身の故郷とみなした[1]。ブイッソンの両親はオーバーニュでなめし革工場を設立しており、ブイッソンは学業を終え、一時期砲兵を務めた後、オーバーニュに戻って工場の経営にかかわった[1]。オーバーニュ市議会議員、ついでに市長を務め、1907年に県議会議員に就任した[1]。 1909年3月の補欠選挙でブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユから選出されて代議院議員に就任、1910年(英語版)、1914年(英語版)、1919年(英語版)、1924年(英語版)、1928年(英語版)、1932年(英語版)、1936年(英語版)の選挙で再選した[1]。1909年のときは無所属左派だったが、すぐにフランス社会党に入党した(1934年離党)[1]。第一次世界大戦では1918年に海運および商船委員(commissaire aux Transports maritimes et à la Marine marchande)を務め、戦後の1919年1月から5月まで再び就任した[1]。 1924年6月に代議院副議長に選出され、1927年1月に議長ラウル・ペレ(英語版)が元老院移籍に伴い議長を退任すると議長に選出された[1]。ブイッソンは代議院議長として中立維持に努め、1934年には社会党を離党するに至った[1]。1935年6月1日に大統領アルベール・ルブランがブイッソンに組閣を要請すると、ブイッソンは代議院議長を辞任して組閣、自身は内務大臣を兼任した[1]。ブイッソンは調停役としての経験を生かして、エドゥアール・エリオ、ジョルジュ・マンデル(英語版)、ジョセフ・カイヨー、ピエール・ラヴァル、フィリップ・ペタン、ルイ・マラン(英語版)、エルネスト・ラフォン(英語版)など政見の異なる大物政治家を多数入閣させたが、内閣は6月4日に代議院で否定され、1週間満たずに崩壊した[1]。その後、6月7日に再び代議院議長に選出されたが、1936年の選挙でフランス人民戦線が躍進し、議会が左派優勢になると、代議院議長への再選を目指さずに議長を退任した[1]。 一介の議員に戻ったブイッソンは二度と政党に入党しなかったが、採決では左派に同調することが多かった[1]。第二次世界大戦中にヴィシー政権が成立すると、1940年7月10日にヴィシーで開催された議会でペタンに全権を委任する法律に賛成票を投じた[1]。その後はプロヴァンスに戻り、1930年代に就任したラ・シオタ市長職も1941年に辞して政界を引退した[1]。しかし全権委任への賛成票により、戦後に逮捕され、一時フレンヌ刑務所(英語版)に勾留された[1]。 1959年12月28日、アルプ=マリティーム県アンティーブで死去した[1]。 出典 ウィキメディア・コモンズには、フェルナン・ブイッソンに関連するカテゴリがあります。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 “Fernand, Emile, Honoré Bouisson”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年11月15日閲覧. 公職 先代ラウル・ペレ(英語版) 代議院議長1927年 – 1936年 次代エドゥアール・エリオ 先代ピエール=エティエンヌ・フランダン 閣僚評議会議長(首相)1935年 次代ピエール・ラヴァル 先代マルセル・レーニエ(フランス語版) 内務大臣1935年 次代ジョセフ・パガノン(英語版) Related Articles