フタバヤラケット
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| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 神奈川県川崎市(設立時) |
| 設立 | 1950年1月 |
| 廃止 | 1998年11月(解散) |
| 業種 | 製造業 |
| 事業内容 |
|
| 主要株主 | 東京ドーム |
| 関係する人物 |
山田裕太郎(前身の創業者) 安岡勉(初代社長) |
株式会社フタバヤラケット製作所(ふたばやらけっとせいさくじょ)は、かつて日本に存在したテニスラケットメーカー、スポーツ用品会社。東京ドームグループに属していた。
日本で初めてテニスラケットの製造を開始した山田製作所を前身とし、昭和中期にはカワサキラケットと共に国内市場のトップメーカーとして知られた。
設立から終戦まで
1904年(明治37年)、山田裕太郎が東京市池ノ端に山田製作所を設立し、日本で初めてテニスラケットの製造を開始した[1][2][3]。1921年(大正10年)には山田ラケット製作所に社名を変更[1]。1930年代にはテニス用具以外にスキーやアイスホッケーなど他スポーツの用具製造も手掛けていた[4][5]。戦前には完成品としてのラケット製造販売業者は多数あったが、その部品となる硬式テニスラケットのフレームを一から製造する業者は日本全体で片手に数えるほどしかなく、山田ラケットはその一社であった[6]。
戦後の発展
戦後の1950年1月、安岡勉(衆議院議員・清水静十郎の次男[8])が改めて株式会社フタバヤラケット製作所を神奈川県川崎市に設立。山田ラケット製作所の後継としてテニスラケット製造事業を再開する[9][10]。1950年代前半の時期、国内需要の8割近くを満たしていたという[10]。1954年10月より後楽園スタヂアム(後の東京ドーム社)の出資を受ける[11]。1960年代後半に同スタヂアム役員の都築俊三郎を社長に迎え、1970年には資本提携に至った[1][12]。
1970年代前半、テニス界のオープン化に伴うテニスブームの隆盛と共に業績を伸ばし、同じく国内メーカーでライバルのカワサキラケットと2社で一時はテニスラケット市場の9割を占有した[13]。1975年頃からはテニススクール運営やテニスコートの施工・運営などテニス関連の事業多角化に取り組み[3][14]、1976年には提携先の後楽園スタヂアムと共同で箱根のアイススケート場跡地に「フタバヤ後楽園テニスパーク」を建設してテニスリゾート運営を開始した[15][16][17]。
国内テニス選手やテニス大会の支援も行っており、宮城黎子・福岡加余子・坂本真一など多くの日本トップ選手がフタバヤラケットに所属していた[18][19]。テニス大会では地方のアマチュア大会を後援するほか、国内最上位大会の一つである全日本室内テニス選手権の冠スポンサーを務めた時期もあった[20]。1978年、国内若手選手がグランドスラム予選に進出するための下部大会「サテライトサーキット」が日本で初めて創設された際も、美津濃やアシックスと共に大会スポンサーを引き受けている[21]。
1970年代末、テニスラケットの素材が従来の木製からカーボン製へと移行する素材革命が起こる[22]。それまで「木製(ウッド)のフタバヤ」というブランドイメージが強かったフタバヤラケットは、この変化への対応に出遅れた。この出遅れが、新素材を生かしてテニスラケット市場に参入してきたヨネックスや、プリンス、ウィルソンといった海外メーカー勢にシェアを奪われる要因となる[23]。テニスブームの沈静化に伴う需要減退も重なり、1983年には売上本数がピーク時の約半分にまで落ち込み赤字経営に転落[13][24]。この時期、親会社である後楽園スタヂアムによる株式持分は約98%に達し、経営再建に向けたグループ管理体制が強化されることとなった[24]。
解散まで
1992年(平成4年)4月1日、ラケット製造事業に行き詰まったフタバヤラケットは社名を「後楽園ベスク」に変更してレジャーやスポーツ全般の事業領域に方向転換することを発表[25]。1990年代はジョン・レノンやマドンナなど海外セレブのブランド商品化権を獲得して衣料品やグッズ販売に取り組んだものの、業績の改善には至らなかった[26][27]。
1998年(平成10年)11月末、親会社の東京ドームが同年下期に7億円の追加損失を出して後楽園ベスクの解散を決定[28]。100年近い歴史に幕を閉じた。