坂本真一 (テニス選手)
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| 基本情報 | ||||
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| 出身地 | 神奈川県横須賀市 | |||
| 生年月日 | 1954年4月16日(72歳) | |||
| 利き手 | 右 | |||
| ツアー経歴・シングルス | ||||
| 自己最高ランク | 274位(1974年12月20日) | |||
| 生涯通算成績 | 1勝7敗 | |||
| ツアー経歴・ダブルス | ||||
| 自己最高ランク | 307位(1988年4月18日) | |||
| 生涯通算成績 | 5勝14敗 | |||
| 4大大会最高成績・ダブルス | ||||
| 全仏オープン | 1回戦(1980) | |||
| ウィンブルドン | 1回戦(1979) | |||
| 2026年4月18日現在 | ||||
坂本 真一(さかもと しんいち、1954年4月16日 - )は、日本の元男子プロテニス選手。神奈川県横須賀市出身[1][注 1]。柳川商業高等学校卒、日本大学中退[1]。ランキング自己最高位はシングルス274位、ダブルス307位[2]。
双子ダブルス時代
神奈川県横須賀市にて、弟の坂本京一と共に双子として生まれる。幼少期に広島県呉市へ転居し、軟式テニスを好んでいた父親の影響で兄弟揃って小学生からテニスを始めた[3]。中学校時代は県内外で「強い双子がいる」と知られる存在であった[3][4]。中学3年次の秋に福岡県の柳城中学校へ転校し、これを機に硬式テニスへ転向[3]。その後テニスの名門である柳川商業高等学校へ進学し、同校テニス部監督・古賀通生の指導を受けた[5]。
高校2年次の1971年、第61回全国高校庭球選手権ダブルス・第36回全日本ジュニア選手権ダブルス・第26回国民体育大会の3大会を制覇して「無敵の双子ダブルス」と称された[4][6]。1972年、高校3年次に京一および待鳥明史と共に、フロリダで開催されたサンシャインカップ(ジュニアの国別チーム対抗戦)に参加[7]。対スウェーデン戦のダブルスで京一と待鳥のペアが後にレジェンドとなるビョルン・ボルグを破り、シングルスでも京一がボルグを相手に6–7, 3–6と接戦を演じた[7]。
同年7月の第62回全国高校庭球選手権では、シングルス決勝で双子対決が実現。弟の京一が優勝、真一が準優勝となり、ダブルスでは双子ペアで優勝を飾った[8][9]。翌8月の第37回全日本ジュニア選手権においても双子対決の決勝カードで京一が優勝、ダブルスも兄弟ペアが制した[8]。さらに同月の第5回アジアジュニア選手権ダブルスも優勝を果たしている[8]。10月には初の一般国際大会となる第1回ジャパンオープンに出場し、シングルス・ダブルス共に1回戦で敗退した[8]。この年の18歳以下男子全日本ランキングでは、シングルスで京一が1位、真一が2位となり、ダブルスでは双子ペアで1位となった[10]。
1973年、日本大学へ進学。二人で全日本学生庭球選手権のダブルスを2年連続で制覇した[11]。しかし1974年に転機が訪れ、高校2年次に体育館での練習中に受けた打球が遠因となって京一の片眼が失明に近い状態となる[4]。京一はプレーヤー生活の継続を断念し、双子プロのダブルスペアは実現できなくなった。
現役時代
1977年8月、ブルガリアで開催されたソフィア・ユニバーシアード日本代表に選出され、西尾茂之と組んでダブルスに出場。1回戦は突破したが2回戦でソビエト連邦のペアに敗れた[12]。西尾とはその後も数々の大会でダブルスペアを組んで優勝を重ねることになる。1979年1月、第1回京都クラシックマスターズでその西尾と組んだダブルスで優勝する[13]。この大会とは相性が良く、現役を通じてシングルスで1回、ダブルスで5回の優勝を記録している。同年3月にフタバヤラケットと契約してプロに転向した[14]。
1979年6月、ウィンブルドンでグランドスラムに初挑戦。シングルスは予選2回戦で敗退したが[15]、ダブルスは西尾とのペアで予選を突破して本戦出場を果たした[16]。12月には1980年度のデビスカップ日本代表に選出され、東洋ゾーンベスト8の対台湾戦において神和住純と組んだダブルスで勝利を挙げてチームの勝ち上がりに貢献した[17]。1980年5月、全仏オープンのダブルス本戦に出場も1回戦敗退[18]。グランドスラムの本戦挑戦はこれが最後となった。1981年1月、カワサキオープンのシングルスでプロ3年目にして初優勝を飾り[19]、同年10月には全日本テニス選手権のダブルスと全日本プロテニス選手権のシングルスでも優勝した[20][21]。
1984年1月、第6回京都クラシックマスターズでシングルス優勝[22]、3月に全日本室内テニス選手権のダブルスで優勝し[23]、9月には30歳で悲願であった全日本テニス選手権のシングルス初優勝を達成した[24][25]。その祝勝会で坂本は「京一がいれば京一が優勝していた」と語ったという[3]。続く10月には全日本プロテニス選手権のシングルスでも2度目の優勝を果たし[26]、この年が全盛期となった坂本は全日本ランキングで年間2位を記録した[10]。その後も主にダブルスでの活躍が続き、1987年と1988年には全日本室内のダブルスで2年連続優勝、1988年4月のジャパンオープンでは西尾とのペアでダブルスベスト8に進出した[27]。
指導者として
1989年、現役プロのまま母校・柳川高等学校のテニス部監督に就任した[28]。これは高校時代の恩師で当時は同校の校長を務めていた古賀通生からの勧誘によるものであった[28][29]。柳川では8年間にわたり指導にあたり、チームをインターハイ優勝や選抜4連覇に導いた[5][30]。教え子からは本村剛一、宮地弘太郎、岩渕聡ら多くのプロテニス選手が輩出されている[5][31]。1997年からナイキジャパンでジュニア育成に従事[31]。その後は福岡県のブライトテニスセンターを拠点に、柳川のライバル校でもある筑陽学園高等学校での指導を行うほか[5]、WOWOWのグランドスラム中継で解説者を務めるなどテニスの普及・育成に広く携わっている[32]。
2007年、第69回全日本ベテランテニス選手権の50歳以上ダブルス部門に弟の京一とペアを組んで出場して準優勝する[3][33]。翌年の第70回ではかつての「双子ダブルス」で35年ぶりの優勝を手にした[34]。