フランク・オッペンハイマー
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フランク・オッペンハイマー | |
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| Frank Oppenheimer | |
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| 生誕 |
Frank Friedman Oppenheimer 1912年8月14日 |
| 死没 |
1985年2月3日(72歳没) |
| 研究分野 | |
| 研究機関 | |
| 教育 |
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| 博士論文 | Beta Ray Spectra (1939) |
| 主な業績 |
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| 主な受賞歴 |
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| 配偶者 | |
| 子供 | 3人 |
| プロジェクト:人物伝 | |
フランク・フリードマン・オッペンハイマー(Frank Friedman Oppenheimer、1912年8月14日 - 1985年2月3日)は、アメリカ合衆国の素粒子物理学者であり、サンフランシスコの科学館エクスプロラトリアムの設立者である。
物理学者ロバート・オッペンハイマーの弟であり、兄と同様にマンハッタン計画に携わり、ウラン濃縮技術の開発に貢献した。戦後、かつてアメリカ共産党に関与していたことからマッカーシズムの標的となり、1957年に名誉回復されるまで一切の教職に就くことができなかった。1969年、サンフランシスコにエクスプロラトリアムを設立し、1985年に死去するまでその館長を務めた。
フランク・オッペンハイマーは1912年8月14日にニューヨークで生まれた。一家は世俗的なユダヤ教徒で、父ジュリアス・セリグマン・オッペンハイマー(Julius Seligmann Oppenheimer)はプロイセン王国・ハーナウ出身の繊維輸入業者、母エラ(旧姓フリードマン)は画家だった[5]。幼少期に絵画を学んだ。また、著名なフルート奏者ジョルジュ・バレールからフルートを学び[6]、プロのフルート奏者になることも考えていた[7]:30[8]。
ブロンクスの12年制の初等教育機関倫理文化学園に7年間在籍した後、倫理文化協会が運営するリバーデールのフィールドストン・スクールで初等教育を終えた[9]。
オッペンハイマーは兄ロバートの助言に従って物理学の道に進むことを決めた。1930年にジョンズ・ホプキンス大学に入学し、3年後に物理学の学士号を取得した[9]。その後、イギリス・ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所で18か月間研究した。イギリス滞在中に飛行機操縦の免許を取得した[2]。1935年、イタリア・フィレンツェのアルチェトリ研究所で亜原子粒子カウンターの開発を行った。
カリフォルニア工科大学博士課程在学中、オッペンハイマーはカリフォルニア大学バークレー校の経済学専攻の学生だったジャケネット・クワンと婚約した。クワンはアメリカ青年共産主義者同盟の熱心な活動家でもあった。兄の警告にも関わらず[10]、2人は1936年に結婚した。また、兄の反対を押し切って、2人でアメリカ共産党に入党した。オッペンハイマーも妻も無神論者だった[11]。
物理学のキャリア

第二次世界大戦中、兄ロバート・オッペンハイマーはマンハッタン計画に関わり、ロスアラモス国立研究所の所長となった。この計画は、連合国の取り組みとして世界初の原子爆弾を開発・製造するものである。1941年から1945年にかけて、オッペンハイマーはローレンス・バークレー国立研究所において、兄の友人アーネスト・ローレンスの下でウランの同位体分離の問題に取り組んだ[12]。1943年後半、オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所のケネス・ベインブリッジの直接の指揮を受けて、ニューメキシコ州のトリニティ実験場の計測機器の設置などを行った[13]。トリニティ実験の際には、爆心地から9キロメートルの待避壕で兄とともに爆発の様子を見ていた。
オッペンハイマーは、1945年8月30日に結成された、原子力の国際的な平和利用を推進するためのロスアラモス科学者協会の設立に関わった[13]。また、アメリカ物理学会の会員でもあった[2]。
戦後、オッペンハイマーはバークレーに戻り、ルイス・ウォルター・アルヴァレズ、ヴォルフガング・パノフスキーとともに陽子線形粒子加速器を開発した。1947年にミネソタ大学の物理学のアシスタント・プロフェッサーに就任し[14]、そこで重宇宙線原子核の発見に関与した。
赤狩り

1947年7月12日、『ワシントン・タイムズ=ヘラルド』は、オッペンハイマーが1937年から1939年にかけて共産党員であったと報じた。オッペンハイマーは、当初はこの報道を否定したが、後に事実であると認めた[15]。1949年6月、大戦中の「原子力の機密」の取り扱い不備の可能性に関する大規模調査の一環として、オッペンハイマーは下院非米活動委員会(HUAC)に召喚され、自身と妻が3年半にわたりアメリカ共産党に所属していたことを証言した。夫妻は1937年、白人以外には週1回しか開放していなかったカリフォルニア州パサデナの公共プールにおける人種差別の廃止運動に関わっていた[7]。
オッペンハイマーは、世界恐慌末期に米国で深刻化していた失業問題の解決策を求めて、妻とともに共産党に入党したと述べた。オッペンハイマーは、彼が知っている他の共産党員の名前を明かすことを拒否した。ロバート・オッペンハイマーの弟が元共産党員だったという事実は一大センセーションとなり、オッペンハイマーはミネソタ大学でのポストを失うこととなった[16]。
共産主義者というレッテルを貼られたオッペンハイマーは、米国内で物理学に関する仕事を見つけることができなくなり、パスポートの発給が拒否されたため、国外に出ることもできなくなった[7]:99。最終的に、父から相続されたゴッホの作品1点を売却して、そのお金でコロラド州パゴサ・スプリングス近郊の山岳地帯のリオ・ブランコ渓谷にある約600ヘクタールの牧場を購入し、10年近く牧場経営で生計を立てていた[7]:104–115[17][18][19]。
教職への復帰
赤狩りが沈静化した1957年、オッペンハイマーはパゴサ・スプリングス高校で理科の教師となることを許された。オッペンハイマーは、物理学だけでなく、化学、生物学など理科の様々な分野を担当した。彼が生徒に理科を教える原動力としたのは、自分の知識や技能を若者たちに伝え、彼らが科学分野のより高度な教育に進めるように、学習への心構えを養うことであった[20]。2年間のパゴサ・スプリングス高校の在籍中、数名の教え子がコロラド州科学フェアで最優秀賞を獲得した[7]:117。2年後、ハンス・ベーテ、ジョージ・ガモフ、ヴィクター・ワイスコフの推薦により[7]:130、オッペンハイマーはコロラド大学の教職のオファーを受けた。
素粒子物理学の研究に復帰しつつも、高校での教師の経験から、オッペンハイマーは科学教育に深い関心を持つようになった。最終的に、オッペンハイマーは全米科学財団からの助成金を受けて「実験ライブラリー」(Library of Experiments)を生み出した。これは、理科の初等教育の場で使用できる、古典的な実験室実験のモデル約100点を集めたものである[7]:138–139。これは後のエクスプロラトリアムの最初の展示の核となった[17]。また、オッペンハイマーは物理教育研究委員会(PSSC)と協力して、新しい高校物理のカリキュラムの開発を支援した[7]:118。
科学教育の研究において、オッペンハイマーはラテン語の格言"docendo discimus"(教えることによって学ぶ)をモットーとして掲げた[21]。
エクスプロラトリアム
1965年、オッペンハイマーはグッゲンハイム・フェローシップの助成金を受けて、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで泡箱の研究の指導と物理学史の研究を行った。ロンドン滞在中、オッペンハイマーはヨーロッパの科学館に触れ[7]:141、米国にも同様の施設を設立することを考えた。帰国後、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館の新しい分館の計画立案をオファーされたが、オッペンハイマーは独立した科学館をサンフランシスコに設立することにした[17]。
4年後の1969年、オッペンハイマーはサンフランシスコのパレス・オブ・ファイン・アーツの北隣に科学館「エクスプロラトリアム」を開館させた。サンフランシスコ財団はエクスプロラトリアムの開設のために5万ドルの助成金を交付した[22]。エクスプロラトリアムの最初の展示は、SLAC国立加速器研究所やNASAエイムズ研究センターの協力を受けて製作された[23]。オッペンハイマーはエクスプロラトリアムの初代館長に就任し、その後も生涯にわたり同館の日常業務に関わり続けた。
オッペンハイマーは、芸術が、科学と対等かつ密接に結びついた重要なものであると信じていた[7]:185。芸術家のボブ・ミラーに、エクスプロラトリアム初のアート・インスタレーションである"Sun Painting"の制作を依頼した[7]:180。また、1971年には、オーガスト・コッポラに依頼して"Tactile Dome"を制作した。これは、内部が完全に暗闇となった、複雑に絡み合った3次元の迷路であり、来館者は触覚だけを頼りに探索する必要があった。これらの作品は、改訂を加えながら現在でも展示されている。1974年、オッペンハイマーは、芸術と科学の分野で活動するアーティストを定期的にエクスプロラトリアムに招くアーティスト・イン・レジデンス・プログラムを開始した[7]:179–203。
エクスプロラトリアムは、科学の基礎原理の理解を提供する施設というだけでなく、一種の「教育観光」(educational sightseeing)も提供していた[23][24]。各展示は、博物館のどの部分にも自由にアクセスできるように構成されていた。ツアーガイドの代わりに、大学生や中等教育の生徒、一部成人からなる15から20人の「エクスプレイナー」(explainers)が配置された。ツアーガイドが来館者を引き連れて説明して回るのに対し、エクスプレイナーは来館者を回りながら展示の実演や説明を行った[23]。
晩年
私生活
オッペンハイマーは1936年にジャケネット・クワンと結婚し、マイケル、ジュディスの2人の子供をもうけた。1980年にジャケネットが死去し[2]、1982年にミルドレッド・“ミリー”・ダニエルソン(Mildred "Milly" Danielson)と再婚した[3][4]。
オッペンハイマーはコロラド大学の同僚の妻と不倫して、サラという娘をもうけていた。サラは同僚の子として育てられ、2019年に異母兄のマイケルから連絡を受けるまで、自分がオッペンハイマーの子であることを知らなかった。サラとマイケルは2020年に血縁関係を確認した。この不倫関係の詳細については、ジュディスの著書"From Deedle to Dr. Judy: A Memoir of Metamorphosis"に記載されている。
遺産
オッペンハイマーの論文や資料はカリフォルニア大学バークレー校のバンクロフト図書館に移管されている[2]。このコレクションは、エクスプロラトリアム設立までの数年間にわたるオッペンハイマーの物理学や科学教育学に関する業績が網羅されているほか、HUACによるオッペンハイマーの身辺調査に関連する文書も含まれている[25]。エクスプロラトリアムが収集していた歴史的アーカイブもバンクロフト図書館に移管されている[26]。ミネソタ大学は、1946年から1959年にかけてのオッペンハイマーの物理学の研究に関するアーカイブを保有している。
オッペンハイマーは、エクスプロラトリアムおよびその教育プログラムが、自身の最も重要な功績であり遺産であると考えていた。科学・芸術・教育に関するオッペンハイマーの論文の一部は、エクスプロラトリアムのウェブサイトで閲覧できる[17]。
エクスプロラトリアムには、世界の科学館職員の交流を支援するための「フランク・オッペンハイマー・フェローシップ基金」が設立された[2]。
大衆文化において
ジョン・エルス監督による、ロバート・オッペンハイマーと原子爆弾開発について取材したドキュメンタリー映画『ザ・デイ・アフター・トリニティ』(The Day After Trinity)には、エルスによるフランク・オッペンハイマーへのインタビューが随所に使われている[27]。
1980年のBBC制作のテレビドラマ『オッペンハイマー』では、ギャリック・ヘイゴンがフランク・オッペンハイマーの役を演じた。2023年のロバート・オッペンハイマーの伝記映画『オッペンハイマー』では、ディラン・アーノルドがフランク・オッペンハイマーの役を演じた[28]。
受賞歴
- コロラド大学 功労賞
- カリフォルニア工科大学 優秀同窓生賞
- グッゲンハイム・フェローシップ(1965年)
- アメリカ物理教師協会(AAPT) ミリカン賞(1973年)
- アメリカ博物館同盟(AAM) 功労賞(1982年)
- アメリカ物理教師協会(AAPT) エルステッド・メダル(1984年)
- カリフォルニア工科大学 カークウッド功労賞[29]