フランス西インド会社
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フランス西インド会社(フランス語: Compagnie française des Indes occidentales)は、フランス東インド会社が設立される約3か月前の1664年5月28日にジャン=バティスト・コルベールによって設立され、1674年1月2日に解散したフランスの貿易会社。会社は(アフリカとアメリカの)大西洋岸のフランス植民地を委譲され、40年間のアメリカとの貿易の独占を認められた。グアドループで始められた砂糖事業の利益で、カナダ植民地(ヌーベルフランス)への移住を支援することになっていた。資本金は600万ポンドで、本社はル・アーヴルにあった。
会社の資本は非常に多かったので、6か月足らずで、45隻の船を用意し、移譲されたすべての土地を確保し、所有し、貿易を開始した。しかし1674年1月2日に植民地の委譲は取り消され、植民地は国王の所有に復した。王は冒険商人たちの行動に対して償還を行った。
この措置は、王がイングランドと組んで起こした仏蘭戦争(オランダ戦争)のせいで、会社が多額の損失を出して窮地に陥ったことが一因だった。そして、ギニア湾岸に対する会社の独占排除も望まれていた。会社があってもなくても、フランス人商人たちはアンティル諸島との貿易を望んでいた。
1665年、会社はイロコイ・インディアンの侵入に対する備えとして、カリニャン・サリエール連隊を得た。ドーフィネ、リグーリア、ピエモンテ、サヴォワから1,200人の兵士が到着して植民地を守り、また、後には兵士達のいくらかは帰国せずに現地に定住した。1666年、行政官のジャン・タロンは最初の植民地人口調査を実施して3,215人の住民を確認した。植民地人口は、結婚と出生を奨励する政策の結果として、1672年に6,700人に増加していた。1667年、イロコイ族のいくつかの部族、モホーク族とオナイダ族が和平を結んだ。
シャルル・オーベール・ド・ラ・チェスネはタドゥサックで毛皮商人として1663年から1666年まで働き、会社の総書記として1666年から1669年まで働いてから退社した。そしてサンジャン湖での伐採業(林業)で成功し、仏本国のラ・ロシェルに長期滞在した。これによって、彼はいくつかのヨーロッパ諸国と取引を行うようになり、数隻の船を保有するに至った。
会社の解散直後にカナダに戻ると、1675年から1681年まで、友人であるジャン・ウディエットと西方会社 (フランス)の権利を取得し、カナダの主要な輸出品であったビーバーの毛皮(生皮)を独占した。1672年、ジャン・タロンは、彼と他の2人のパートナーに、ペルセを漁港とする権利を与えた。彼はリビエール・デュ・ルー(Rivière-du-Loup)の領主権を1673年12月23日に受け取った。
チェスネは他にもリビエール・デュ・ルーの東方の荘園領主権(1675年)、セントフランシスとセントジョンの半知行(1677年)、ヘア島(1677年)なども購入した。