フランソワの墓
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Tomba François | |
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平面図及び断面図 | |
| 所在地 | イタリア・ラツィオ州ヴィテルボ県 |
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| 座標 | 北緯42度25分 東経11度38分 / 北緯42.42度 東経11.64度座標: 北緯42度25分 東経11度38分 / 北緯42.42度 東経11.64度 |
| 種類 | 墓所 |
| 所属 | ヴルチ・ポンテロット墓所遺跡 |
| 歴史 | |
| 時代 | 古代 |
| 文化 | エトルリア |
フランソワの墓(フランソワのはか)は、イタリア・ラツィオ州のエトルリア遺跡ヴルチで発見された墓であり、墓室壁面を飾るフレスコ画が有名。名称は発見者のアレッサンドロ・フランソワ(フランソワの壺の発見者としても知られている)にちなむ。
1857年、フランソワによってヴルチのポンテロット墓所遺跡から発見された[1]。墓はヴルチの貴族サティエス家によって紀元前5世紀後半に建造され、その後繰り返し改造を受けて長い期間使用されたことが副葬品からも明らかである[2]。壁画は、紀元前4世紀後半に制作されたとするマウロ・クリストファーニによる年代比定がおおむね受け入れられている[2]。発掘直後の1862年には壁画の一部が剥がされてトルローニア家の私設美術館に移され、1946年以降ヴィッラ・アルバーニ所蔵となっている[1]。その他、紀元前5世紀から紀元前2世紀にかけての出土品が多数ある[1]。
中央主室、奥室、左右各3の翼室、羨道にある3室の計11の墓室からなる[1]。この墓を有名にしているのは中央主室のほぼ全面を飾る壁画であり、ギリシア神話やエトルリアの歴史上の場面に取材している[2]。トロイア戦争におけるトロイア人の殺戮と、トロイア人の子孫を称したローマ人(及びその同盟者たるエトルリア人)に対する戦闘を向かい合わせに描いていることから、反ローマ的な意図が現れているとも評価される[3]。
ローマ皇帝クラウディウスが紀元後48年に行った演説を記録した碑文がリヨンで発見されており[4]、それには王政ローマの王であるセルウィウス・トゥリウスについて次のように書かれている[5]。ローマ側の記録はセルウィウス・トゥリウスを女奴隷の子としているが、エトルリア側の記録では彼はかつてエトルリア人のカエレス・ウィウェンナ(Caeles Vivenna)の最も忠実な部将であったマスタルナ(Mastarna)という人物で、後にセルウィウス・トゥリウスへと改名してローマ王に即位し、ローマの丘の一つをかつての上官にちなんでカエリウスの丘(いまのチェリオの丘)と名付けたのだという[5]。
これは、フランソワの墓の壁画に描かれるカイレ・ウィピナス(Caile Vipinas)とマクストルナ(Macstrna)に一致している[6]。同じ場面に描かれ、カイレ・ウィピナスの兄弟と思われるアウレ・ウィピナス(Aule Vipinas)はウェイイで出土した紀元前6世紀頃の壺にその名が現れることから、カイレ・ウィピナスとマクストルナの実在も確実視され、ローマ王セルウィウス・トゥリウスの出自についてクラウディウスの証言に信憑性があることがうかがわれる[6]。