トロイア戦争

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トロイア戦争(トロイアせんそう、Τρωικός πόλεμος, 英語: Trojan War)は、ギリシア神話に記述された、小アジアトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行った戦争である。トロイ戦争トロヤ戦争という表記もみられる[1][2][3][4]

トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものである。この戦争の記述から、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る「叙事詩環」が派生した。

ラテン詩人のウェルギリウスは、トロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を創作し、ラテン語叙事詩『アエネーイス』を造った。

神話

原因

パリスの審判』(ルーベンス画)

この戦の起因は、『キュプリア』に詳しい。大神ゼウスは、増え過ぎた人口を調節するために、ヘーラーとは別の妻でもある、秩序の女神・テミスと試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた。

オリンポスでは人間の子ペーレウスティーターン族の娘テティスの婚儀が行われていたが、不和の女神・エリスだけはこの饗宴に招待されず、怒った彼女は、「最も美しい女神へ(καλλίστῃ)」と書かれた、ヘスペリデス黄金の林檎不和の林檎)を神々の座へ投げ入れた。この供物をめぐって、殊にヘーラーアテーナーアプロディーテーの三女神による激しい対立が起り、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかをトロイアの王子パリスにゆだねた(パリスの審判)。

三女神はそれぞれが最も美しい装いを凝らしてパリスの前に立ち、なおかつ、ヘーラーは世界を支配する力を、アテーナーはいかなる戦争にも勝利を得る力を、アプロディーテーは最も美しい女を、それぞれ与える約束を行った。パリスはその若さによって富と権力を措いて愛を選び、アプロディーテーの誘いによってスパルタメネラーオスの妃ヘレネーを連れ去った。パリスの妹でトロイアの王女カッサンドラーのみはこの事件が国を滅ぼすことになると予言したが、アポローンの呪いによって聞き入れられなかった。

メネラーオスは、兄でミュケーナイの王であるアガメムノーンにその事件を告げ、さらにオデュッセウスとともにトロイアに赴いてヘレネーの引き渡しを求めた。しかし、パリスはこれを断固拒否したため、アガメムノーン、メネラーオス、オデュッセウスはヘレネー奪還とトロイア懲罰の遠征軍を組織した。

この戦争では神々も両派に分かれ、ヘーラー、アテーナー、ポセイドーンがギリシア側に、アポローン、アルテミスアレース、アプロディーテーがトロイア側に味方した。

戦いの経過

ボイオーティア地方のアウリスに集結したアガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊であった。アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると、浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙した。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった時期を起点に始まる。

戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『アイティオピス』や『アイアース』において語られる。トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥った。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し(『小イーリアス』では女神アテーナーが考案し)、これを実行に移した。この「トロイアの木馬」の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落した。

戦後

アイスキュロスの『アガメムノーン(Agamemnon)』によると、トロイア戦争はアカイア遠征軍の勝利に終わったが、アカイア軍の名だたる指揮官たちも悲劇的な末路をたどった。小アイアースはアテーナーの神殿でカッサンドラーを強姦した事でアテーナーの逆鱗に触れ、船を沈没させられて死亡した。メネラーオスは帰国途中、暴風に悩まされエジプトに漂流し、8年掛かりで帰還。総司令官アガメムノーンは、帰郷後、妻とその愛人によって暗殺された。オデュッセウスは、『オデュッセイア』にあるように、故郷にたどりつくまで10年もの間、諸国を漂流しなければならなかった。

歴史的背景

トロイア戦争が歴史上実際に起こったできごとだとすると、その時期は後期青銅器時代の末期、紀元前2000年期の終わり頃であるという見解で古今の学者たちは一致していた。この時期は、西のエーゲ海にミュケーナイ人、東にヒッタイト人の帝国があり、トロイア(イーリオス)が所在するトローアス地域をはさんでそれら二大勢力が対峙していた時代である。ミュケーナイ文明ヒッタイト文明は、ともに紀元前1700年頃から前1200年頃に繁栄した[5]

トロイア戦争は、ホメーロスがアカイア人と呼んでいる、ミュケーナイ時代のギリシア人が集結してエーゲ海を渡りトロイアに攻め寄せた戦争であるとされる。これが本当だとすると、戦争は、ミューケナイ文明が崩壊する紀元前1200年より前に起こったことになり、それはヒッタイトとミューケナイが対峙していた時代になる[5]

トロイアについては歴史的な詳細が不明であるが、ミュケーナイ文明とヒッタイト文明については、19世紀末から20世紀にかけての考古学的発見によって、かなりのことが分かっている。

ミュケーナイ文明

ミュケーナイ文明は、トロイアの発見者であるハインリヒ・シュリーマンがギリシア本土のミュケーナイを発掘して見出した。この文明は、ペロポネソス半島に広く所在する青銅器時代のもので、クレーテー島にまで広がっており、線文字Bと呼ばれる文字を使っていた。この文字で書かれた多数の粘土板文書が、ピュロスなどで発見されたが、線文字Bは、生産や物品管理のための数字情報を扱うもので、文化についての具体的な記述などには適していなかった[6]

考古学的な発掘によって、ミュケーナイ文明についてはかなりのことが分かっている。ミュケーナイは農業文化で、オリーブ、蒲萄、穀物などの作物の生産で成り立っていた。一方で金銀、青銅、象牙、ガラスの製品なども使用しており、更に、繊維産業や香水などの生産も行われた。特に繊維・香水・オリーブオイルや土器は、エーゲ海域、エジプト、カナン、メソポタミアで需要があり、輸出されていた。アナトリア半島西端のトロイアでも、ミュケーナイの土器が多数発見されている[6]

ミュケーナイ文明は、ワナカと呼ばれる帝王を頂点とする専制主義的都市国家で、宮殿を中心として、少数の支配階級と官僚が多数の庶民や奴隷を支配していた。

ヒッタイト

考古学におけるトロイア戦争

トロイア戦争は、古代ギリシアの伝承で伝えられたもので、文学作品として、紀元前8世から7世紀のホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』において描かれている。また、叙事詩環と呼ばれる8個の叙事詩が知られており、ホメーロスの二叙事詩以外に、『キュプリア』『イーリオンの陥落』などで知られる[7]。それ以外の古代ギリシアの神話においても伝わっていた。トロイア戦争は古くから、紀元前13世紀ないし12世紀前後に起こったと考えられていたが、実証的な根拠はなかった[8]

西欧近代にあって、トロイア戦争は実際にあったできごとなのか、戦争の主舞台であるトロイアの城塞はどこにあったのか、という疑問が提起された。しかし、確認できる遺跡等は見つからなかった。19世紀には、トロイアの都城等は、おそらく作品において語られているだけで、実在したものではないとの考えが一般であった。

シュリーマンによる発見とその後

しかし、19世紀末に、ドイツの富豪でアマチュア考古学者であったハインリヒ・シュリーマンが、アナトリア半島西北部の沿岸近くで、ヒッサルリクの丘を発掘し、ここに9層からなる都市遺跡を見出した。シュリーマンは発掘した複数の時代の遺跡のうち、火災の跡のある下から第2層がトロイア戦争時代の遺跡であると推測した。後に第2層は紀元前2300年頃のものであると分かり、この年代は、伝統的に考えられていたトロイア戦争の時期より、1000年早いことが判明した[9]

1890年にシュリーマンは世を去り、ヒッサルリクの発掘は、シュリーマンに協力した建築家のヴィルヘルム・デルプフェルトが後継した。デルプフェルトは1893年と94年に発掘を行い、下から6番めの第6層に、非常に大きな城壁があることを見出した。トロイア第6h層の遺構は豊かで繁栄した城市であったが、最終的には破壊されていた。デルプフェルトは、この第6h市がホメーロスの作品が伝えるトロイアにもっと条件が合うように思え、彼は「トロイアの実在をめぐる論争は終結した」と1902年に述べた[10]

1932年に、カール・ブレーゲンがヒッサルリクの丘を発掘し始め、第6h市の破壊は戦争等、人為的なものではなく、地震によるものであることを見出した。ブレーゲンは、文化的に連続する第7a層の都市遺跡が、トロイアであろうと判断した。実際、第7a市は火災で滅びており、遺跡において、人骨の破片等が散らばっていた[11]

コルフマンの調査

半世紀後、1988年にドイツ・テュービンゲン大学のマンフレート・コルフマンが再びトロイア第6市と第7市の調査した。彼とそのチームは、この遺跡では初めてとなる、放射性炭素測定を試みた。彼らの目的は、トロイアの市区域が、中心にある城塞の外で、どこまで広がっているかを確認し、第6市と第7市に破壊が起こったときの市のありようを調査することだった。彼らはトロイアの都市域が20万から30万平方mに広がっており、居住者は、4千人から1万人いたことを確認した。[12]。1990年から2000年にかけての調査で、コルフマンたちは第7a市の広大な都市域が火災で滅びたことを確認し、第7a市は、紀元前1300年頃に始まり、前1180年頃に滅びたとした。何者かがトロイア第7a市を攻撃し破壊したことが明らかであるが、それがミュケーナイ時代のギリシア人かどうかは分からなかった[13]

トロイア第6市と第7市は、紀元前1300年から前1000年の期間に、五度の破壊を蒙っていた。紀元前1000年の破壊の後、都市は数百年にわたって廃墟となっていた。戦争や攻撃によるトロイアの陥落がもしあったとすれば、この五度の破壊のどれかであると思えるが、確定的なことは分からない[14]

トロイア戦争に関する作品

原典

トロイア叢書

伝承としての西洋文学「トロイア戦記」、岡三郎訳・解説で国文社全4巻

日本語文献

  • 『トロイア戦争全史』 松田治 講談社学術文庫
  • 『トロイア戦争とシュリーマン』 ニック・マッカーティ、「シリーズ絵解き世界史」原書房、総監修は本村凌二
  • 『イリアス トロイアで戦った英雄たちの物語』 アレッサンドロ・バリッコ、草皆伸子訳、白水社
  • 『甦るトロイア戦争』 エーベルハルト・ツァンガー、和泉雅人訳、大修館書店
  • 『トロイアの歌 ギリシア神話物語』 コリーン・マクロウ、高瀬素子訳 日本放送出版協会

オペラ

映画

脚注

参考文献

関連項目

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