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フレゼリク8世 (デンマーク王)

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フレゼリク8世デンマーク語: Frederik 8., 1843年6月3日 - 1912年5月14日)は、デンマーク国王(在位:1906年1月29日 - 1912年5月14日)。

全名
死去 (1912-05-14) 1912年5月14日(68歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国 ハンブルク
概要 フレゼリク8世 Frederik 8., 在位 ...
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「ヨーロッパの義父」と称されたクリスチャン9世の長男として、ヨーロッパ各国の王室と広く縁戚関係を結んだ。42年余りにわたってデンマーク王太子であり、デンマーク王位の法定推定相続人の地位にあったが、父王の長い治世のあいだ、影響力や政治権力からはほとんど遠ざけられていた[1]。1906年に父王が没すると、62歳という高齢で王位に即いた。フレゼリク8世は多くの点で自由主義的君主であり、1901年に導入された議会制に対しても父王よりはるかに好意的で、改革志向かつ民主主義的な傾向の持ち主であった。しかし即位が遅かったため、その治世はわずか6年にとどまり、しかもその間、病に悩まされ続けた。

妹にイギリス国王エドワード7世アレクサンドラロシア皇帝アレクサンドル3世マリアがおり、弟の1人はギリシャ国王ゲオルギオス1世である。妻はスウェーデン=ノルウェー王女ロヴィーサで、両者のあいだには8人の子女が生まれた。長男はフレゼリク8世の跡を継いでクリスチャン10世として即位し、次男カールは1905年にホーコン7世としてノルウェー王位に就いた。

生涯

生い立ち

生誕地の黄色の館

1843年6月3日、コペンハーゲン中心部のフレデリクススタデン地区に位置する黄色の館英語版でシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュクスブルク公子クリスチャンとヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯女ルイーセ夫妻の第一子として生まれた[2][3][4]。生地の黄色の館は、デンマーク王家の主たる住居であるアマリエンボー宮殿群のすぐ隣に建っている。父方の家系はオレンボー朝デンマーク王室の分家筋にあたり、クリスチャン3世の血を引いて8代にわたりデンマーク王冠領シュレースヴィヒ=ホルシュタインの非主権公として統治してきた家柄である。同月22日に洗礼を受け、クリスチャン・フレゼリク・ヴィルヘルム・カール(Christian Frederik Vilhelm Carl)の名を与えられたが、一般にはフレゼリク王子で知られた[5]。家族のあいだでは、生涯を通じてフレディの愛称で呼ばれた[6]

1862年時点でのデンマーク王子クリスチャン(のちのクリスチャン9世)一家の集合写真

フレゼリクの後に5人の弟妹が生まれた。アレクサンドラ(1844年-1925年)、ヴィルヘルム(1845年-1913年)、ダウマー(1847年-1928年)、テューラ(1853年-1933年)、ヴァルデマー(1858年-1939年)である。王家の血筋にありながらも、一家の暮らしぶりは比較的つましいものであった。莫大な資産があるわけではなく、父の収入は軍務の俸給として年におよそ800ポンドを得るのみで、住まいも王室から恩貸によって無償で与えられた邸宅であった[7]。時おりハンス・クリスチャン・アンデルセンが招かれ、就寝前の子どもたちに物語を語って聞かせることもあった[8]。学校ではドイツ語訛りのためにからかわれることもあった。

1853年頃には、オレンボー朝デンマーク王室の主系統が高齢で子のないフレゼリク7世をもって断絶することが明白となってきていた。母ルイーセは王位継承権にきわめて近い位置にあった。先代のデンマーク国王クリスチャン8世の妹の娘、すなわち姪にあたっていたからである。ルイーセの実家ヘッセン=カッセル家のほかの継承権者たちが彼女のためにデンマーク王位請求権を放棄し、そのルイーセもまた自らの権利を手放した結果、最終的に父がデンマーク王位の推定相続人に選ばれた。これに伴い、フレゼリクもデンマーク王子に叙せられた[9]

1863年、オックスフォード大学でのフレゼリク。撮影者はルイス・キャロル

1860年10月19日、妹のアレクサンドラとともに、クリスチャンスボー宮殿の礼拝堂で堅信礼を受けた[2]。堅信礼を終えたのち、フレゼリクは本格的な軍事教育を受け、弟のヴァルデマーとともにデンマーク海軍で経歴を積んだ。1863年、フレゼリクは政治学を修めるためオックスフォード大学へ送られたが、同年11月に父が王位に即いたことを受けてデンマークへ帰国した。王位の推定相続人として国務評議会に議席を与えられ、以後は父をよく助けて政務にあたった。1864年には、プロイセンオーストリアを相手取った第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に正式に従軍している。

デンマーク・フリーメイソン団の一員でもあり、1871年から没するまでそのグランドマスター(総長)を務めた[10]

結婚

母は、イギリス王太子妃となった長女アレクサンドラとロシア皇太子妃となった次女ダウマーの場合と同様に、フレゼリクにも良縁を得させたいと望んでいた。当時、イギリス女王ヴィクトリアの子どもたちの中には適齢期の未婚の王女ヘレナルイーズがおり、母はフレゼリクと彼女らのどちらかを結婚させる腹積もりであった。実際、フレゼリクはイギリス滞在中にヘレナに好意を寄せ、その想いは相手からも返されていたのだが、ヴィクトリア女王が反対したためこの縁談が実を結ぶことはなかった[11]。女王は娘たちが外国の王位継承者と結婚することを望まなかった。そうなれば娘たちは国外での生活を余儀なくされるからであり、彼女はむしろイギリス国内に居を構えられるドイツ諸侯を婿に選びたいと考えていた。加えて女王は以前から親ドイツ的な立場をとっており、デンマークとのさらなる縁組[注釈 1]は、女王のドイツ寄りの利害に沿うものではなかった[12][13]

この縁談が不首尾に終わったのち、白羽の矢が立ったのはスウェーデン=ノルウェー国王カール15世の一人娘ロヴィーサであった。ロヴィーサはベルナドッテ家の王女である。同家は1818年以来スウェーデンに君臨してきた王朝で、その始祖はナポレオン・ボナパルトの将軍の一人であったジャン=バティスト・ベルナドットである。彼は1810年にスウェーデン王太子に選出され、のち1818年にカール14世ヨハンとして王位を継いだ。ベルナドット(カール14世)はかつてナポレオンの許嫁であったデジレ・クラリーを妻に迎えていた。カール14世の子オスカル1世は、ナポレオンの最初の妃ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの孫娘にあたるロイヒテンベルク公女ジョゼフィーヌスウェーデン語:ユセフィナ)と結婚した。このオスカル1世と王妃ユセフィナこそ、ロヴィーサの父方の祖父母である[14]

デンマーク王太子フレゼリクとスウェーデン=ノルウェー王女ロヴィーサ

この結婚は、デンマークとスウェーデンのあいだに友好をもたらす方策として提案されたものであった。1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に際してスウェーデンがデンマークを援助しなかったことから、それ以降両国の関係は緊張をはらんでいた。フレゼリクとロヴィーサは1862年にすでに顔を合わせていたが、1868年、よりロヴィーサと親しい関係を築くためフレゼリクはスウェーデンに招かれ、この見合いは成功と評された。同年7月、当時25歳の王太子フレゼリクは17歳のスウェーデン王女ロヴィーサと婚約した。その一年後の1869年7月28日、二人はストックホルム宮殿の礼拝堂で結婚式を挙げた。ロヴィーサは中世のインゲボリ・マグヌスドッテル以来となるデンマーク王家に嫁いだスウェーデン王女であり、この結婚は新たな汎スカンジナヴィア主義の象徴として、スカンジナヴィア三国のいずれにおいても歓迎された。

1869年8月10日、新婚の夫妻はコペンハーゲンに入城し、暖かい歓迎を受けた。ロヴィーサはデンマーク風にルイーセと呼ばれるようになった。夫妻には住まいとして、コペンハーゲン中心部のアマリエンボー宮殿群を構成する18世紀の宮殿、フレゼリク8世宮殿が与えられた。また田舎の居館として、コペンハーゲンの北10キロの地にある、エーレスンド海峡に面したシャルロッテンルンド宮殿を賜った。ここは、アマリエンボーの宮廷生活から遠く離れた安らぎの場となり、夫妻の子どもたちの何人かもこの地で生まれている。フレゼリクとルイーセには、1870年から1890年にかけて4男4女が生まれた。クリスチャンカールルイーセハーラルインゲボーテューラゴスタウダウマーである。長男クリスチャンと次男カールは、それぞれデンマーク国王とノルウェー国王となった[15][16]。子女が多かったため、シャルロッテンルンド宮殿はこの大家族を収容できるよう改築され、1880年から81年にかけてドーム屋根と二つの翼棟が増築された。

王太子としての動向

フレゼリクは43年にわたって王太子の地位にあり、その歳月をいずれやってくる自身の治世への周到な備えに費やした。王位の法定推定相続人として国務評議会に議席を有してはいたものの、父王は彼を権力や政治力学から遠ざけるよう動いていた[17]

治世

1906年1月29日、クリスチャン9世は43年の治世ののち、87歳で世を去った。父王の死により、フレゼリクは62歳で王位を継いだ。彼はアマリエンボーのクリスチャン7世宮殿において、首相イェンス・クリスチャン・クリステンセン英語版によりバルコニーからフレゼリク8世として即位したことを布告された。

即位が遅かったため、フレゼリクの治世はわずか6年にとどまり、しかもその間、彼は病に悩まされ続けた。フレゼリク8世は多くの点で自由主義的な君主であり、新たな議会制に対しても父王よりはるかに好意的で、改革志向かつ民主主義的な傾向の持ち主であった。

死去

1912年5月14日、妻と4人の子女を伴ったニース旅行からの帰路、フレゼリクはハンブルクに短時間の滞在をとり、「クロンベア伯爵」の偽名でホテル・ハンブルガー・ホーフに投宿した。その晩、身分を隠したままユングフェルンシュティーク英語版へ散策に出たフレゼリクは、途中で気分が悪くなり、ゲンゼマルクト英語版の公園のベンチに倒れ込んだ。彼を見つけた警官が病院へ搬送したが、そこで死亡が確認された。死因は心臓発作と発表された。倒れた時点で身分を伏せており、身元を示す書類も所持していなかったため、遺体はいったん地元の遺体安置所へ運ばれ、翌朝になってホテルの支配人によって身元が確認された。

まもなく、国王をめぐるスキャンダルの可能性が取り沙汰されるようになった。彼が倒れて息を引き取った場所が、よく知られた売春宿の近くであったためである。地元警察は、王室に心痛を与えることを慮って、捜査の詳細を公表しなかった[18]

フレゼリクの遺体は特別列車でトラーヴェミュンデへ運ばれ、そこから王室ヨットのダンネブロー号によってデンマークへ帰還した。コペンハーゲンのクリスチャンスボー城礼拝堂に安置されて弔問に付されたのち、シェラン島ロスキレ大聖堂にあるクリスチャン9世礼拝堂に埋葬された。同大聖堂は15世紀以来、デンマーク歴代君主の伝統的な埋葬地である[19]

人物

フレゼリク8世は多くの点で父王以上に議会主義体制に好意的な自由主義的統治者であった。

また、デンマーク、ノルウェー、ベルギー王家およびルクセンブルク大公家はフレゼリク8世の血を引いている。デンマーク王家との繋がりは当然ながら、ノルウェー王家は次男カールを経たものであり、ベルギー王家およびルクセンブルク大公家との繋がりは次女インゲボーの娘アストリッドを通じてのものである[20]

家族

脚注

参考文献

関連項目

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