ブロット=スヴェン
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ブロット=スヴェン(スウェーデン語:Blot-Sven, ? - 1087年)は、1080年ごろのスウェーデン王[2]。インゲ1世がウプサラの神殿でブロット(北欧の宗教における犠牲)を行うことを拒否したとき、キリスト教徒であった義兄弟のインゲ1世に代わりスウェーデン王となった。『ヴェステルイェートランド法』の歴代王表には記されていないため、ブロット=スヴェンの支配はヴェステルイェートランドには及んでいなかったとみられる[2]。スウェーデンの歴史家アドルフ・シュークは、ブロット=スヴェンはおそらくホーコン赤王と同一人物であり、個人名ではなくあだ名としてブロット=スヴェン(ブロットを行うことをいとわないスヴェン)と呼ばれていたとしている。
ブロット=スヴェンが権力を握った経緯について扱った最も古い資料は、アイスランドの伝説的なサガの『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』である。
インゲ王はスヴェンという兄をもつメールという女性と結婚した。インゲ王は誰よりもスヴェンを愛し、このためスヴェンはスウェーデンで最も強大な権力を持つ人物となった[3]。
しかしインゲ1世は父ステンキルと異なり、人々が古習に従うことを許さなかった。これにスヴェート人は激しく反発し、インゲ王に古い伝統に従うかそれともこれを放棄するか迫った。インゲ王がキリスト教を放棄しないと宣言すると、人々はインゲ王に石を投げつけて追い払った[3]。このことはスウェンが権力を掌握する機会となり、スヴェンの即位に関する『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』の記述には、古代インド・ヨーロッパの儀式である馬の生贄に関する記述が含まれている。
王の義兄弟であったスヴェンは集会に残り、スヴェート人が自身に王国を与えるなら彼らのために犠牲を行うことを申し出た。彼らは全員スヴェンの申し出に同意し、スヴェンはスウェーデン全土の王として認められた。その後、馬が集会に運ばれ、バラバラに切り刻まれて食べられ、聖なる木に血が塗りつけられた。そしてすべてのスヴェート人がキリスト教を棄て、犠牲を再び行うようになった。人々はインゲを追い出し、インゲはヴェステルイェートランドに向かった[3]。
聖エスキルの伝説
後年に書かれた『聖エスキルの伝説』には、インゲが王国から追い出されたことが記されている。それから人々は、スヴェンという名の取るに足らない、ブロット=スヴェンと呼ばれる偶像崇拝者を王として選んだ。スヴェンは神々に捧げた雄牛の血を人々に飲ませ、その肉を食べたことからこの名がついた。人々はストレングネースにおいて王の周囲に集まり、牛や羊を屠り、神々に供物を捧げた。人々は王とその神々に敬意を表して盛大な宴会を開いた。その後、イングランドの司教エスキルが現れ、異教徒をキリスト教に改宗させようとした。しかし、人々は耳を貸そうとしなかった。エスキルが祈ると、神は雷、雹、雪、雨を送り、犠牲の祭壇と犠牲の獣を破壊したが、エスキルには一滴も落ちなかった。異教徒は感銘を受けることなく、猛烈にエスキルを攻撃した。スポーボデという名前の占い師がエスキルの頭を石で殴り、別の男が斧でエスキルの頭を打ち割った。一部の首長は、エスキルが天気を御するために魔法を使ったと言い、瀕死の殉教者を王の前に引きずり出した。不当な王がエスキルに死刑を宣告するとすぐに、エスキルは後に修道院が創建される谷に連れて行かれ、石を投げられて殺された[4]。
ただし、この伝説は13世紀後半以降に伝えられたものである。カンタベリーのアエルノス(1122年頃)は、エスキルがある時に異教徒のスヴェート人とイェーアト人によって殺されたと記している。聖職者の歴史家ブレーメンのアダム(1075年頃)は触れていないため、エスキルは11世紀後半に活躍した可能性がある[5]。また、エスキルの死はおそらく1016年ごろのことで、ブロット=スヴェンの数世代前であったという意見もある[6]。