チョバン朝

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チョバン朝
1343年 - 1359年[1]
チョバン朝の位置
チョバン朝の版図(青)
公用語 ペルシア語モンゴル語
首都 タブリーズ
ハン
1343年 - 1355年 アシュラフ
ワズィール
??? - 1359年 アヒジュク
変遷
建国 1343年
滅亡 1359年[1]
先代 次代

チョバン朝英語: Chobanids Dynastyペルシア語: سلسله چوبانیان Selsele-ye Chūbāniyān、ちょばんちょう)は、現在のアゼルバイジャン地方を支配したイルハン朝末期政権(1343年 - 1359年[1])。

1343年-1357年頃の西アジア地図

歴史

成立前

イルハン朝は第7代君主・ガザン・ハンと第8代君主・オルジェイトゥ・ハンの時代に全盛期を迎えた。第9代君主・アブー・サイードの没後は有力アミールチョバンがアブー・サイードを輔弼するが、1327年にチョバンはアブー・サイードと対立して粛清された[2]

アブー・サイードが1335年に死去すると、イルハン朝は無政府状態となる。その中でスルドス部で勢力を蓄えていたチョバンの孫・シャイフ・ハサン(小ハサン)はイルハン朝の傍系にあたるサティ・ベクスライマーンを擁立し、アーザルバーイジャーン地方に勢力を拡大した。イールカーニー派[注釈 1]タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ(大ハサン)と抗争してさらに勢力を拡大した。

1343年、小ハサンがその妻イゼット・マリクに殺されると、小ハサンの2人の弟アシュラフとのヤギ・バスティはスライマーン・ハンタブリーズに来るよう呼ばれた[4]。時に小ハサンによってルームのカラ・ヒサル城堡に投獄されていたソルカンはそこの守将を殺して脱獄し、アシュラフとヤギ・バスティに合流してスライマーン・ハンを打倒した[5]。スライマーン・ハンはディヤールバクルに退却した[5]。まもなく、ソルカンとヤギ・バスティはアシュラフと不和になり、マームーリーヤ付近で交戦したが敗れて逃走した。アシュラフはアヌシルワーンという王侯を即位させたが、ハンではなくアーディル(公正)という称号をとった[5]

アシュラフの即位

ソルカンとヤギ・バスティは講和を求めたが、得ることができなかった[6]。ソルカンはディヤールバクルに逃れて大ハサンの子イルカンに厚遇されたが、まもなくイルカンに殺された[6]。ヤギ・バスティはアシュラフのもとに赴くことにしたが、アシュラフによって殺された[6]。アシュラフは小ハサンの支配地域を領有し、アヌシルワーンを廃して自らハンとなった[6]

1347年、アシュラフは進軍して大ハサンをバグダードで包囲した[6]。アシュラフはしばらくして包囲を解き、タブリーズに帰った[6]。その後アシュラフはシルワーン州を掠奪したため、シルワーン王のカーウースは力が弱くて抵抗できず籠城した[6]

1349年、アシュラフはイスファハーンに進軍し、50日間攻撃したのち、アヌシルワーン・アーディルの名を公衆祈祷のなかと貨幣の上に列ねることを条件として退却することに同意した[6]

アシュラフは貪欲で残忍な暴君であり、常に富裕な人々を殺してその財産を奪い、部下の官吏が金持ちになるとこれを殺した[7]。これによりアシュラフは莫大な財産を集めた[7]。アシュラフは自分の命の危険を恐れて予防の手段を厳重にした[7]。アシュラフのために多くの貴人は亡命を余儀なくされた[7]。これらの移住者の中にバルザー生まれのカーディー・ムヒー・ウッディーンなる者があり、彼はジョチ・ウルスの首都サライに赴くと、ジャニベク・ハンにアシュラフの臣下にのしかかっている抑圧について雄弁した[7]。この訴えに感銘を受けたジャニベク・ハンはアシュラフ討伐を決意した[7]

アシュラフの処刑

1355年、ジャニベク・ハンはアーザルバーイジャーンに侵攻し、アシュラフを捕らえ、サライに連行しようとしたが、シルワーン王カーウースらによって処刑を懇願されたので、その場で処刑した[8]。アシュラフの首はタブリーズのモスクの門に懸けられた[8]。ジャニベク・ハンはアシュラフの子女ティムール・タシュとスルターン・バフトを連れて帰国し、息子のベルディ・ベクをアーザルバーイジャーンに残した[8]

アヒジュクが後を継ぐ

ベルディ・ベクは父の病状が重くなったという知らせを聞き、ジョチ・ウルスに帰国したので、ワズィールアヒジュクアーザルバーイジャーンの軍事を委ねた[8]

1358年ジャライル朝シャイフ・ウヴァイスが侵攻してきたので、サナタイ山で抗戦したが、勝負は決しなかったため、両軍は互いに向かい合って夜を過ごした[9]。翌朝、アヒジュクがナフチワーンに逃走したため、シャイフ・ウヴァイスは空になったタブリーズに入城した[9]。アヒジュクがカラバク山中に軍を集結させると、冬が来たのでシャイフ・ウヴァイスは退却した[9]

滅亡

1359年ムザッファル朝ムバーリズッディーン・ムハンマドイスファハーンからイラーク、ファールスの2千騎と、ルリスターンの1万騎を率いてアーザルバーイジャーンに侵攻し、ミヤーナでアヒジュクと遭遇してアヒジュクの歩騎3万を破り、タブリーズを占領した[1]。2か月後、シャイフ・ウヴァイスがバグダードから侵攻していると聞いたムバーリズッディーン・ムハンマドはイスファハーンへ退却した[1]。ムバーリズッディーン・ムハンマドはタブリーズに到着すると、アヒジュクを召して厚遇した[1]。しばらくして、アヒジュクはシャイフ・ウヴァイスを殺そうとしたと告発されたため殺された[1]

歴代君主

代数 名前 在位期間 備考
1 アシュラフ 1343年 - 1355年[8] シャイフ・ハサンの弟
- アヒジュク 1355年 - 1359年[1] ワズィール

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チョバン
 
サティ・ベク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ティムール・タシュ
 
タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ
ジャライル朝初代君主
 
バグダード・ハトゥン
 
アブー・サイード
イルハン朝9代君主
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャイフ・ハサン
 
アシュラフ1
 
ヤギ・バスティ
 

脚注

参考資料

関連項目

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