ブールルジュート遺跡
From Wikipedia, the free encyclopedia
遺跡は海抜1348mの地点にあり、水が豊かで草の生育が良く、現代でも遊牧民の夏営地として最適な環境に位置する[1]。ブールルジュート遺跡は、日本人研究者の白石典之らの踏査によって初めて確認された[1]。
遺跡は城郭(土城)と、その西側にある小型建物群によって構成されている[1]。
- 土城: 高さ2m、幅8mの土壁で囲まれた長方形(133m × 118m)の区画である。東南に大きな出入り口があり、他の3辺にも小さな出入り口が設けられている[1]。
- 中心土壇: 土城のほぼ中央に、1辺25m、高さ3mの正方形の土壇が存在する。この上にはレンガ、屋根瓦、柱の礎石が見当たらないことから、ゲルのような移動式住居を設置するための台座であったと白石典之は推定する[1]。
また、櫛目文の施された灰色陶器が多く出土しており、これは契丹(遼)時代の特徴を持つが、実際に契丹人が残した遺物に比べると質が悪いものがみられる[2]。その他にも、磁州窯系の甕の破片を紡錘車に転用したもの、耀州窯系の碗、黒釉の長壺、同把手、鈞窯系磁器碗が出土がするが、これらも契丹時代末から金代にかけて製作されたものと推定され、アウラガ遺跡から出土するものと酷似する[2]。
土城についてはカラコルム編年の尺度Aと一致し、この遺跡が13世紀初頭まで機能していたことを裏付ける[3]。以上の発掘成果から、白石典之はこの遺跡がもともとは契丹(遼)時代に築かれた拠点を、チンギス・カンが再利用したものと想定する[3]。