バヤンウラ城址
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バヤンウラ城址は、大興安嶺山脈に源を発し北流する輝河(フイ河)の氾濫原中にある微高地に立地する[1]。遺跡は2006年5月に内モンゴル自治区の第6期国家重点文化財保護単位に指定されている。
後述するように高位の人物にのみ許される龍文の入った瓦当が発見されていること、またオゴデイ・カアンの築いた宮殿と設計上の共通点・関連性が認められることなどから、初期モンゴル帝国の有力皇族が築いた城郭であると推定されている[2]。1221年中にモンゴル高原を訪れた記録のある『長春真人西遊記』には、「沙河(ハルハ川)」を渡って、北行5日めでテムゲ・オッチギンの夏営地に到着したとの記述がある[3][2]。バヤンウラ城はハルハ川から北に60〜70kmほどの地点にあるため、「テムゲ・オッチギンの夏営地」こそがバヤンウラ城であった可能性が高い。また同じく『長春真人西遊記』で、夏営地から西北に6日行った地点にダライ湖(フルン湖)があったとの記述とも矛盾しない[2]。
テムゲ・オッチギンが支配した領域(オッチギン・ウルス)の具体的な領域を記した同時代史料は存在しないが、モンゴル史研究者の杉山正明は『長春真人西遊記』や『元史』サルギス伝などの記述から、フルンボイル地方こそがオッチギン・ウルスの初封地と考証していた[4]。近年の白石典之らによるバヤンウラ遺跡の考古学的調査(2011年・2012年踏査)により、改めてフルンボイル地方がテムゲ・オッチギンの領地であった可能性が高いと裏付けられたこととなる[2]。
構造と設計
城郭は、版築工法によって築かれた外囲壁と内囲壁の二重構造を持つ方形の「囲壁建築」である[1]。設計には、モンゴル帝国でオゴデイ・カアンの治世以降に用いられた尺度(1尺=31.6cm)が使用されと推定されている[5]。
- 外囲壁: 南壁は約427m(設計値1350尺)。四隅には角楼があり、南東方向にメインゲートが設けられている[1]。
- 内囲壁: 南北長辺は約284m(900尺)、東西短辺は約237m(750尺)[6]。
- 歩廊: メインゲートから中心の正殿まで、磚(レンガ)で舗装された長さ約158m(500尺)の直線通路が続く。これは大都の宮城にある「千歩廊」に対し、その10分の1の規模の「百歩廊」とでも呼ぶべき特殊な設備である[2]。
外壁の東南辺の長さがカラコルムの万安宮のものと一致すること、基壇の規模がオゴデイが築いた春の離宮(ドイティン・バルガス遺跡)が一致することなどから、バヤンウラは万安宮とほぼ同時期に築かれたのではないかと推定されている[7]。