黒山頭古城
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黒山頭古城遺跡は、アムール川の源流のアルグン川に、ゲン川(根河)という清流が注ぎこむ河岸段丘上に位置する[1]。この付近にはドルブル川の合流地点もあり、アルグン川、ゲン川、ドルブル川の三河川一帯は「三河地方」と呼ばれ良好な遊牧地として知られていた[2]。
遺跡は外城と内城の二重の囲壁から構成される。ただし、外城の中心軸は北に対し30度西に傾く一方、内城は10度西に傾くという相違があり、このことは二つの壁が異なる時期に建設されたことを示唆する[3]。外城の囲壁は堅固で、門には甕城、壁面には馬面といった防御施設があり、軍事的施設としての特徴を持つ[3]。このような特徴はウイグル帝国期・キタイ帝国期の遺跡と共通し、実際に契丹期の陶器片が出土している。また、外城は平行四辺形だが本来は1辺592m(20尺)の正方形を企図していたとみられ、この設計プランは契丹モジュールと共通する[3]。内城の壁には防御的色彩はみられず、長辺174m✕短辺111mの長方形プランである[3]。設計には1尺=31.6cmのものさしが用いられたようで、四辺の総和は1800尺、ちょうど一里となる[3]。この尺度は宋・金代に用いられたものがモンゴル帝国期(特にオゴデイ以降)に広く用いられるようになったもので、内壁がモンゴル帝国期に築かれたものであることを示唆する[3]。
内城の中央には高さ3mの大型の建物基壇があり、その上には細長い廊で南北につながれた二つの建造物が存在する[4]。南側建物は、間口/奥行きが約20m、カコウ岩の大きな柱礎石・緑釉瓦の屋根の豪壮な建築であり、公務を行う宮殿の正殿と推定される[4]。一方、北側建物は私的な場で、寝殿と推定される[4]。このような「工」字状の建物配置は工字形プランと呼ばれ、近辺に位置するバヤンウラ城址などの逆凸字形プランの建築とは明らかに異なるものである[4]。モンゴルにおける工字形プランは、クビライが1270年代に建設した大都の大明殿をモデルに広まったもので、黒山頭古城の内城も1280年代頃に築かれたものと想定される[5]。
このほか、西門附近には大きな貯水池のようなものが残存し、城内の所々に井戸の跡が見られる[6]。