プレストン・トマス・タッカー
アメリカ合衆国の起業家、発明家
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人物
アメリカ合衆国のミシガンで生まれる。幼いころから車が好きな少年であった。
車のセールスマンやデザイナーなどを経て、第二次世界大戦期には軍に装甲車を売り込もうとしたが、装甲車としては速すぎたために採用されなかったと言われている[1]。その後は「理想の車を人々に提供する」という大きな夢を持つようになり、戦後の平和な時代の需要をあてこんで自動車メーカーTucker Corporationを設立。安全を重視した画期的な乗用車、通称タッカー・トーピードの量産を目指したが、様々な事情で50数台の完成を以って製造は打ち切られ、会社はオークションにかけられた。ディスク・ブレーキ、シートベルト、パッドを厚く取り付けたダッシュボード、飛散防止の強化ガラス、操舵性の高いハンドルなどを考案、開発。現代では常識となっているこれらの設計はタッカーによるものである[2]。
その後も持ち前の楽観性で活動を続けた。「ヘンリー・フォードでさえ最初は(会社を)失敗している」(Even Henry Ford failed the first time out.) と発言したとされ、彼を描いた映画『タッカー』も、新しい事業の構想を語りながら終わっている。1956年12月16日、肺癌のため53歳で死去した[3]。
生い立ち~若い頃
1903年、ミシガン州セントクレア郡の田舎町キャパックで生まれた。父親は農家をしながら練炭工場にも勤めていた。母親は教師だった。プレストンが2歳の時に弟のウィリアムが生まれたが[4]、その数ヶ月後に父親が27歳の若さで亡くなった[5]。
プレストン・タッカーの人生は少年時代から車と切り離せないものだった。「子供の頃から自動車修理工場に入り浸りシャツはいつも油で真っ黒だった、16歳で中古車の売買をして収入を得ていた」などと母親は回想する[4]。デトロイトのキャス工業高校(のちにジョン・デロリアンを輩出)に進学したが、中退してキャデラックの事務員に就職した。
19歳になると「ハドソンのパトカーを運転出来る」という理由でリンカーンパーク警察署に転職。パトカーには暖房が装備されておらず、冬にエンジンルームの熱気を車内に引き込もうとファイアウォール(バルクヘッド)に穴を開けたのを咎められパトカーの使用を禁じられた[4]。
1923年、20歳でヴェラ・フークア(1903-1995)と結婚。1年で警察を辞めリンカーンパーク近くのガソリンスタンドの経営権を6ヶ月のリース契約すると、店の切り盛りはヴェラに任せ自身はフォードの組立ラインで働いた。リースが終わると自動車のセールスマンへと転向し、クライスラー、ピアースアロー、スタッツなどで優れた販売実績を上げた。高性能だが高額なスタッツは多くのセールスマンが敬遠したが、タッカーは客を助手席に乗せて実際に性能を体感させることで多数の契約を獲得したという。1927年にビュイックのメンフィス支店の部長、1929年にはスチュードベーカーのメンフィス支店のゼネラルマネージャーに指名された。
レースカーへの進出
タッカーはカーレースへの関心も高くインディアナポリス500の熱心なファンだった。1929年のレースを観戦しに行った際、レース用エンジンの設計者として名高いハリー・ミラー(1875-1943)と知り合った。1933年にミラーの工場が倒産したのを機に、タッカーは友人のエドセル・フォードを連れてミラーのもとを訪ね、タッカーがプロデューサーとなって10台のフォードV8レーサーを作ることになった。
契約額は10台で75,000ドル(2026年換算で180万ドル)[6]。タッカーとミラーはインディアナポリスに「ミラー&タッカー」を設立し[1]、1935年のインディ500に向けて当時としては先進的な前輪駆動と独立懸架サスペンションのレースカーを設計した。しかしレース開催日まで60日間しかなく十分なテストが行えないまま参戦したため、ステアリングギアボックスが排気管の熱で焼き付き全車がリタイアするという惨憺たる結果となってしまった[6]。大恐慌の中で企業のイメージアップを図ろうとしたフォード社にとって大きな痛手となり、タッカーとの関係を断ち切った[7]。(ミラーの基本設計は間違っておらず、小さな改良のみでその後15年間も活躍する)

だがこの大失敗にもタッカーはミラーを責めなかった。32歳のタッカーと60歳のミラーは意気投合し、互いを親友と認め合い1943年にミラーが亡くなるまで交流が続いた[8]。ミラーが癌を患ったときタッカーは医療費を工面し、亡くなったときには葬儀費用まで支払ったという[9]。
兵器分野への進出
装甲車の開発
1937年、虫垂炎の手術で療養していた彼は、新聞や雑誌を読みながらナチスの台頭によって緊迫するヨーロッパ情勢に強い関心を持った。
2年後、ミシガン州イプシランティの自宅裏に「イプシランティ工作機械」(Ypsilanti Machine and Tool Co.)を創業し、ハリー・ミラーと共にパッカードの7.8リッターV型12気筒エンジンを搭載する「タッカータイガー」”Tucker Tiger Tank”という装甲車を試作した。ヨーロッパの地形に適したコンパクトな車体と、最高速度は時速180キロ、不整地でも100キロで走れる走行性能をアピールし、オランダ政府が100台の導入を決定した。しかし1940年5月にドイツがオランダに侵攻したため生産開始間際で契約は白紙となった[5]。

その後アメリカ軍にも売り込んだが、「装甲車に過度な速度は不要」という理由で不採用となった。なお陸軍が行なったテストによると舗装路の速度は時速120キロに留まったという。
だがタッカータイガーに搭載される「タッカー銃塔」”Tucker gun turret”にアメリカ海軍が関心を示した。.50口径2門または.30口径2門を装備する360度旋回可能な電動式銃座で、ダグラスB-18爆撃機に搭載しようと開発を進めたものの採用には至らなかった。B-17やB-29爆撃機、PTボートなどに搭載されたと記す文献が多く見られるが、正式採用された記録は無い。
その後、戦時法の適用によりアメリカ政府に特許を没収されてしまい、特許権の回収を巡って長期の訴訟に巻き込まれた。
航空機の開発
第二次世界大戦中の1940年、タッカーとハリー・ミラーは「タッカー・アビエーション」を設立し、小型機の「モデルAL-5コンセプト」を開発して航空機産業への進出を試みた。アメリカ陸軍航空隊が興味を持ち、XP-57戦闘機として試作機を発注したが[10]、資金難により1機が作られただけでわずか2年で計画は頓挫した[要出典]。
1942年3月、タッカー・アビエーションはヒギンズ・ボートやPTボートで有名なヒギンズ・インダストリーズ社に買収された。タッカーが副社長に就任し、ヒギンズのために船舶用エンジンを100基ほど製造したが[11]、1年半ほどで社長のアンドリュー・ヒギンズと仲違いし関係を断ち切った。ヒギンズは皮肉たっぷりに「プレストン・タッカーは世界最高のセールスマンだ。あいつの大きな茶色い目で見つめられたら用心しろ!」と言ったという。
自動車業界への進出
タッカー・コーポレーションの設立
その後ミシガン州イプシランティに戻り、1943年に「タッカー・コーポレーション」を立ち上げ、自動車業界への参入を表明した。アメリカの大手自動車メーカー、いわゆるビッグスリー(GM、フォード、クライスラーの3社)は戦時中に新型車の開発を中断しており、いずれ戦争が終われば小規模の自動車メーカーに大きなチャンスが訪れるはずだった。タッカーは自動車デザイナーのジョージ・A・ローソンを雇い、誰もが驚く画期的な自動車を世に送り出そうとした。
戦争終結の翌年の1946年、サイエンス・イラストレイテッド誌1946年12月号に、1/4スケールのクレイモデルを実物のように撮影した「タッカー・トーピード コンセプト」の写真が掲載されると、その未来的なスタイルに多くの自動車ファンが熱狂した[12]。しかしあまりにも現実離れしていたため、タッカーは「2年間を無駄にした」とローソンを非難した。反発したローソンは慰謝料5万ドルを要求し、最終的にタッカーが1万ドルの和解金を支払ったと伝えられている[12]。

プロトタイプの完成
タッカーは年内にデザインを具現化しようと、デューセンバーグやオーバーンなどの名車を手掛けたシカゴのアレックス・トレムリス(1914-1991)を訪ねた。
経験豊富なトレムリスはローソン案をベースにしつつも空力性能なども考慮し、わずか6日間でより現実的なスタイルを提案。感銘を受けたタッカーは、デザインの権限を彼に一任した[12]。年が明けるとニューヨークのJ.ゴーデン・リピンコットデザイン事務所に所属するフィリップ・イーガンや、当時は珍しかった女性デザイナーのオードリー・ムーアらがトレムリスのチームに加わりプロトタイプの完成へと導いた[13]。世間では「トーピード」(魚雷)の車名で定着しつつあったが、戦争を思い起こさせるのを嫌い「タッカー’48」に改名した。だがこのデザインと車名の変更に関しては、前任者のジョージ・ローソンのものであるため、変えざるを得なかったのだろうという見方もある[12]。
1947年3月の新聞広告に「15年の歳月をかけてついに完成!」と最終デザインを掲載したが、その実態はトレムレスらが3ヶ月で作り上げたものであり、タッカー自身も後に「15年前に思い付いただけだった」と明かしている。その次の広告では様々な新機能や安全装備が具体的に説明された。
工場の確保
第二次大戦が終結し、アメリカ政府は軍事用の資材や財産を処分するため、戦時資産管理局(WAA:War Assets Administration)を設置した。タッカーはシカゴにあるダッジ・シカゴ航空機エンジン工場に目を付け、WAAと交渉を始めた。大戦中にB-29爆撃機のエンジンを製造した世界でも最大規模を誇る工場である。だが工場を借りるには年間50万ドルのリース料だけでなく、翌年3月時点で1,500万ドル(2026年換算で約2億ドル)の運転資金を保有していることがWAAの条件だった。
短期間で資金を集める手段として、タッカーは「ディーラー・フランチャイズ」と呼ばれる異例の手法を導入する。一般的に自動車メーカーは量産体制が整ってからディーラー網を構築するものだが、タッカーは開発の段階で販売店を募集しその加入金を開発資金に回すという、通常とは逆の手順を用いたのである[14]。革新的な新型車を独占販売できるという売り文句に全米の2,000軒近い販売店が飛び付き、1店舗あたり7,500~30,000ドル(2026年換算で10万~40万ドル)の加盟金を集めることに成功。銀行口座には1,700万ドルの資金が蓄えられた[15]。
ようやく工場を取得できると思った矢先、同じ工場を狙っていた住宅メーカーのラストロン社と賃借権を巡って裁判で争うことになり、工場の使用開始は1年遅れとなった。本格的な生産に向け、プリムスの元社長を副社長に、GMの元副社長をエグゼクティブVPに、フォードの元幹部を製造部門の責任者に任命し、他にも自動車業界からベテランのエンジニアを雇い入れた。
エンジンの確保
シカゴ工場を確保する頃、自宅のイプシランティ工作機械では、9.7Lの水平対向アルミ製エンジンとタッカーマチック変速機の開発に苦戦していた。既に1,500万ドルを費やしたが、この金額はタッカーが想定した自動車1台分の開発費に等しく、車の開発にはその10倍近い大金が必要だと判明した[16]。(フォードは1949年モデルの開発費に3億ドルを投じている[17]。)
まず最初にエンジンとシャーシーを決定するのが当時の自動車作りの鉄則だったが、タッカーは理想の車体作りに夢中になるあまり、エンジンを後回しにしてしまったのである。行き詰まったタッカーは他社エンジンの使用を検討。ライカミング・エンジンズの航空機用エンジンを取り寄せてみたがサイズが合わず失敗し、次に倒産寸前にあるエアクールドモーター(前身はフランクリン・エンジン)から、5.5LのフランクリンO-335空冷エンジンを入手した。これを水冷式に改造して載せてみると非常に相性が良かったので、エアクールドモーター社を180万ドルで買収して98基のエンジンを確保した。
映画「タッカー」ではハワード・ヒューズの助言でエンジンを手に入れるが、ヒューズとの交流は確認されておらず、実際にエンジン調達に尽力したのは技術主任のベン・パーソンズだった。
プレミア
コンセプトの発表から半年後の1947年6月19日、シカゴの工場で発表会が行われた。
会場には3,000人が詰めかけ、15万通以上の電報や手紙が全米から殺到。多くの自動車ファンが登場を待ち望んでいることが証明された。会場にはタッカーの家族も揃い、20歳になった娘のマリリンがシャンパンのボトルを割った[18]。
しかし華やかな発表会の舞台裏は、綱渡りのような有様だった。会場ではバンドが大音量で演奏を続けたが、それはあまりにも大きいエンジン音を誤魔化すためだった。スターターを回すには60ボルトの外部電源が必要なためエンジンを止めることが出来ず、それが原因でオーバーヒートを起こし冷却水が漏れ出した。前の晩には前輪のサスペンションアームが両側とも折れてしまい大急ぎで溶接作業が行われていた。
夏になるとニューヨーク、セントルイス、ボストン、トロントなどでも公開され、見学者は延べ150万人に達した。株価も順調に上がり、タッカーは得意のセールストークを駆使して「本格的に生産がスタートすれば最初の4ヶ月間は1日140台。その後は35,000人を雇用して1日300台、年間6万台を生産する計画だ」という壮大なビジョンを掲げた。
彼は早い段階から海外市場も視野に入れており、ニューヨークに輸出部門の「タッカー・エクスポート・コーポレーション」を設け、南米や南アフリカ、ヨーロッパなどの自動車販売店と代理店契約を結ぼうとした。また「イタリアのジェット機の父」と呼ばれるセコンド・カンピーニ技師(1904-1980)と提携してガスタービンエンジンの開発も始めた。しかしこれらの事業には進展がなく、政府や投資家の関心を引くためのタッカー流の宣伝活動だろうと言われている。
製鉄所確保の失敗
WAAが軍事工場の払い下げを進める一方で、連邦住宅庁(FHA:Federal Housing Administration) は帰還兵による空前の新築住宅ブームの到来に備え、数十万戸の住宅用地を欲しがっていた。民間企業よりも退役軍人を手厚く支援すべきだという世論が広がりつつある中、WAAは一方的にタッカーの工場をFHAに移管しようとした。憤慨したタッカーは猛然と抗議し阻止するが、この騒動で彼は政府機関に多くの敵を作ることになる。
また、戦後の自動車産業に深刻な問題をもたらしたのが鉄鋼の不足である。タッカーはWAAが管理する製鉄所の入札に参加したが、最高入札額と思われたにもかかわらず、その製鉄所はカイザー=フレーザーが獲得した[19]。
これらの成り行きを「デトロイトを守ろうとするミシガン州の上院議員や、WAAの役人が妨害した」と主張する向きもあるが、裏工作があったと断じるのは早計である。資本金1,700万ドルで未だ試作車すら完成しないタッカー社に対し、カイザー=フレーザーは資本金5,200万ドル[20]、1945年の創業からたった1年で12,000台を販売した実績を比較すれば、後者が優先されるのは当然の結果であった。
期待から失望へ
1947年4月、顧問弁護士のハリー・A・トゥールミンJr.を会長として迎え入れたが、わずか5ヶ月で突如辞任した。彼は「プレストン・タッカーは未完成の車を誇大宣伝して株式操作をしている」という告発文書を証券取引委員会(SEC)に送り付け、さらに記者を相手に「試作車にはバックギアが付いていない」「工場の機械はギーギーと音を立てている」などと内情を暴露した。これを受け18の州がタッカー社の株取引を禁止する事態となった[17]。トゥールミンJr.はタッカー社が近いうちに経営破綻すると確信したため、責任追及に巻き込まれる前に関係を断ち切りたかったのだった[5]。
1948年6月になると、人気ジャーナリストのドリュー・ピアソンがトゥールミンJr.の報道を自身のラジオ番組で採り上げた。彼は「間もなくタッカー社に証券取引委員会やFBIの捜査が入り、プレストン・タッカーは凧のように吹き飛ばされるだろう」と報じ、その数日後の新聞のコラム欄でも「WAAは製鉄所の買収を拒んだ」と書いた[21]。
焦ったタッカーは全国紙を通じて「政府や大手自動車メーカーの妨害を受けている」と、外部から圧力を仄めかすが、かえって世間の不信感を高めるだけだった。
投資詐欺疑惑
1948年の春頃、タッカー’48の生産が始まった。2,200人の従業員を雇いながらも組み立てはほぼ手作業で、「自動車メーカー」としての体裁を成すには程遠いものだった。依然として資金が足りず、「タッカー'48の購入予約権」を付帯したカーラジオやシートカバー、スーツケースなどの専用アクセサリーを先行販売し、約44,000人の「将来の顧客」から200万ドル以上を集めた。
1949年2月、証券取引委員会(SEC)はタッカー社の調査を開始し、6月に詐欺容疑でタッカーと7名の関係者を起訴した。販売店から加盟金を徴収するディーラーフランチャイズシステムと、一般ユーザーに対する専用アクセサリーの先行販売が、『実体のない商品への投資詐欺』と見なされたのである。罪状は31件。全て有罪なら懲役155年と罰金16万ドル(2026年換算で220万ドル)が見込まれた。起訴事実が報じられるとタッカーの株価は急落し、各地のディーラーが加盟金の返還を求める訴訟を起こし始めた。
裁判
1949年10月4日、裁判が始まった。他の被告人の中にタッカーを擁護しようとする者は一人もいなかったという[22]。
裁判と同じ日に工場が閉鎖されたが、300人の従業員が居残り、無給と承知のうえで13台を組み上げた(この13台にはエンジンと変速機が搭載されなかったが1950年台に愛好家の手で完成した)。こうして総生産台数は試作車1台と量産車50台を合わせた51台となった。
検察側の主張は「プレストン・タッカーは最初から車を量産するつもりがなかった」というものであった。検察は、エンジンと変速機を他社から寄せ集めた顛末や、原始的な組立作業など、内情を従業員に証言させた。またミネソタ州セントポールの販売店オーナーは「28,000ドルを騙し取られた」と語った。
これらに対し、チーフデザイナーのアレックス・トレムリスは「開発時に既成部品を使うのは自動車業界の常識だ」と返した。大金を騙し取られたと訴える販売店オーナーは、実はタッカー'48の完成品を受け取り既に56,000キロも走行を楽しんでいた事実が露呈した。証券取引委員会に調査資料を提示するよう求めるが、「政府の機密情報」のため公開出来なかった。このようにして弁護側は検察の主張を次々に覆した。
弁護側の反対尋問の番になると「そもそも罪を犯していないから何も用意していない」[5]と話して法廷を驚かせ、タッカーも「まったく馬鹿げているが我々の状況を説明する良い機会だ」と喜ぶような芝居を打った。その後陪審員たちは裁判所の前に並べられた8台のタッカー'48に乗るように促され、検察が主張する『車を作るつもりがなかった』という筋書きを完全に覆した。
【罪状】
- 郵便詐欺罪 25件:カタログや広告を投資家や販売店に郵送し不当に資金を集めた容疑。
- 証券法違反 5件:会社の将来性が不透明なまま株式を公開した詐欺容疑。
- 共謀罪 1件:証券法違反を他の被告と共謀した容疑。
【被告人】
- プレストン・T・タッカー(46)
- フロイド・D・サーフ(61) 投資家。タッカー社に株式公開を指導した。
- ロバート・ピアース(63) 経理担当。
- フレッド・ロッケルマン(64)副社長。元プリマス社長という立場を利用して宣伝に携わった。
- ミッチェル・W・ドゥリアン(50)営業担当。元GM副社長という立場を利用して宣伝に携わった。
- オーティス・ラドフォード(42) 元取締役、元会計監査役。
- クリフ・ノーブル(42) 広報担当。
- ハロルド・A・カーステン 別名エイブラハム・カラッツ(58)工場の入札を指導した。銀行詐欺の前科者。
判決
1950年1月22日、28時間の審議の末に、陪審員はすべての被告に対して「無罪」の評決を下した。しかしタッカー社は既に再起不能な状態にあり倒産した[23]。
タッカーが失敗した原因は、しばしば『デトロイトの3大自動車メーカー(通称ビッグスリー)が政府に働きかけた謀略』という陰謀論で語られるが[24]、裏取引があったという証拠や証言は一切見つかっていない。それどころか、デトロイト周辺にあるビッグスリー御用達の金型工場や部品工場は良質な部品を提供し、電気系はGMの子会社であるデルコ製だった[22]。さらにフォード傘下のリンカーンは部品調達が間に合わないタッカーのために50個のステアリングを提供した[14]。
こうした事実が示す通り、ビッグスリーによる組織的な妨害があったとは考えにくく、戦後の社会情勢や政府役人との人間関係、タッカーの放漫かつ無謀とも言える経営方針など様々な要因が重なった結果というのが多くの歴史研究家の結論である[23]。
その後の人生
タッカーは1年半で3,000万ドルを浪費した。経営破綻は自分のせいではないと断言し、加盟金を受け取った1,872軒の販売代理店や44,000人のアクセサリー購入者への謝罪もなかった。無罪判決から3年後の1953年にはCars誌に楽観的なジョークを寄稿している。「検察は私の罪を一つだけ見逃した。それについては有罪を認めよう。私の車が良すぎたことだ。」
彼の野心は衰えることなく、自宅裏のイプシランティ工作機械を再建して立ち直ろうとしていた[25]。この時期タッカーは肺癌を患っており、リオデジャネイロに住むアメリカ人医師ウィリアム・コッホ(1885-1967)に診てもらうため何度かブラジルを訪れたが、未だ発展途上のブラジルでも新たな自動車事業を構想したという[26]。
アメリカに戻ると小型スポーツカー、「タッカー2」の新事業に取りかかった。自動車デザイナーのアレクシス・デ・サクノフスキー(1901-1964)にデザインを依頼すると、タッカーの強烈な個性と製品コンセプトに惹かれたサクノフスキーはリスクを承知で仕事を引き受けた[27]。

1955年、「タッカー・カリオカ」を発表し新聞などが採り上げ話題になった[27]。「タッカー」の登録商標は破産した際に他社に渡っており残念ながら使用出来ないことが判明した。車名のカリオカは『リオデジャネイロ生まれ』を意味している。
全体的なイメージは1946年に発表したトーピードコンセプトに近く、ボートテールはハリー・ミラーが好んだデザインを取り入れた[28][29]。ボディ以外は出来る限り既製部品を利用してキット販売することで、1,000ドル(2026年換算の12,000ドル)という低価格を想定。900キロの車体後部に130馬力の空冷4気筒エンジンを搭載し、安全装備はタッカー'48から受け継いだ。フェンダーはオーナー自身で取り外せる構造だが、タッカーの経験によると一般的な車のタイヤハウスには1ヶ所あたり5キロものタールや砂利がこびり付くことがあり、除去を容易にするためのアイデアだった。
一方でブラジル政府は自国の産業育成のため、1953年より海外の起業家に誘致する活動に乗り出しており、ブラジルに滞在中のタッカーに白羽の矢が立った。政府は工場建設にかかる税を免除するという優遇措置を提示。初のブラジル産スポーツカーの構想に多くの投資家が興味を示したが、タッカーの癌は進行していた[29]。
1956年8月、アメリカに帰国したときには90キロあった体重が半分になっていた。その年の12月26日、自宅のあるイリノイ州イプシランティのベイヤー記念病院で、肺がんの合併症による肺炎を患い53歳で亡くなった。現在はミシガン州フラットロックのミシガン記念公園に埋葬されている。
私生活
1923年、20歳のタッカーは17歳のヴェラ・フークアと結婚した。5人の子供を授り(シャーリー(1925-2021)、プレストン・ジュニア(1926-2003)、ノーブル(1927-2011)、マリリン(1928-1982)、ジョン(1930-2000))、ヴェラとは生涯を共にした。
1935年の春、リンカーン・パーク市長選に出馬し落選したことがある。
