ヘレナ・スパロウ

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 Гелена Спарроу
(1891-06-05) 1891年6月5日
ロシア帝国ボフスラーウ(現ウクライナ
死没 (1970-11-13) 1970年11月13日(79歳没)
フランスコルシカ島ピエヌラ英語版
別名 ヘレナ・スパロウ・ジェルマ
Hélène Sparrow-Germa
国籍 ポーランド、ロシア、フランス
ヘレナ・スパロウ
Hélène Sparrow
生誕 Гелена Спарроу
(1891-06-05) 1891年6月5日
ロシア帝国ボフスラーウ(現ウクライナ
死没 (1970-11-13) 1970年11月13日(79歳没)
フランスコルシカ島ピエヌラ英語版
別名 ヘレナ・スパロウ・ジェルマ
Hélène Sparrow-Germa
国籍 ポーランド、ロシア、フランス
研究分野 医学、微生物学、公衆衛生
研究機関
出身校 キエフ大学医学部(1909年–1915年)
ポズナン大学(1923年学位)
ワルシャワ大学(1928年博士号)
博士論文 Problèmes de la vaccination contre le typhus exanthématique (The problems of vaccinations against exanthematic typhus) (1928年)
主な業績 予防接種の国家プログラムを主導。ワクチン開発(Durand-Sparrow抗腸チフスワクチン、ロッキー山紅斑熱ワクチン)
影響を
受けた人物
主な受賞歴
  • クラクフ医学アカデミー賞、チフスワクチンに関して (1922年)
  • Member Société de Pathologie Exotique (1945)
配偶者
  • ロバート・フォン・クーゲルゲン男爵 (1887年11月12日 - 1932年);
  • Phillippe Germa、農業工学者、c.1890 - 1960
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ヘレナ・スパロウ英語: Hélène Sparrow, ウクライナ語: Гелена Спарроу、1891年6月5日 1970年11月13日)は、ボフスラーウ生まれの医師微生物学者であった。学位PhD(ワルシャワ大学)。公衆衛生の先駆者の一人である。第一次世界大戦後のポーランドでのチフス対策、1960年代のポーランドとチュニジアでのジフテリア猩紅熱斑点熱英語版回帰熱の予防接種の国家プログラムを主導したことで知られる[1]

若い頃

スパロウは1891年6月5日、キエフ総督府ボフスラーウで生まれた。両親は1890年に結婚。父親はレオポルド・スパロウ(1860年頃生まれ)で、イギリス出身の判事。母親は親が医師のX・ステファンスカ(1870年頃生まれ)[2]。キエフのポドルスキー女子高校ウクライナ語版で金メダルを獲得して卒業[2]。1909年にキエフ大学の医学部に通い、1915年に医学の学位(優等学位)を取得した[3]

大学卒業後

第一次世界大戦が始まった翌年の1915年、スパロウはロシア軍の伝染病管理に携わった。1917年にロシア軍の外科医のロバート・フォン・クーゲルゲン男爵と結婚し、翌年娘マリーが生まれている(後、離婚)。1917年、ユリエフ大学(現エストニア)の附属病院でアレクサンダー・ゼリスラヴォヴィッチ・ビリーナ教授の指導の下に働いた。

1918年、スパロウはキエフに戻り、ボロディミール・リンデマンウクライナ語版が指導するキエフ女子医科大学ウクライナ語版の細菌学研究所で働いた。そこで、クロントヴスキー・アントニノヴィッチウクライナ語版らと共に、発疹チフスの研究を行っている[4]

ポーランドに移住

ウクライナは1917年10月のロシア革命をきっかけに内乱状態となり、1918年3月にはドイツ軍、1920年にはロシア軍、ポーランド軍、ロシア軍と相次ぎ占領されることとなった。最終的には1921年のポーランド・ソビエト・リガ平和条約により、ソ連の一部ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の状態で安定した。

スパロウは1920年のポーランド・ソビエト戦争を機にポーランドに移住して、ルドヴィク・ライヒマン英語版が指導する衛生研究所で働いた[3]。1921年にリヴィウ大学ルドルフ・ヴァイグル英語版と共同で発疹チフスの研究を実施(1933年まで)。1922年に衛生研究所の課長級となった。1923年にはポズナン大学で2つめの学位を取得。

パスツール研究所の研究に参加

1923年、スパロウは国際連盟から助成金を受け取り、フランスのパスツール研究所での短期インターンシップが認められた[5]。スパロウはそこでアルベール・カルメットカミーユ・ゲラン英語版と共に結核を研究した。

1924年、スパロウは、パリのパスツール研究所のアレクサンドル・ベスレドカ英語版の研究室で微生物学を研究するため、再びフランスに送られた。この時スパロウは、その後のチフス研究に大きく関わりを持つ細菌学者、シャルル・ジュール・アンリ・ニコルと出会う[6][6]。1925年、パスツール研究所はシャルル・ニコルと共催で、チュニジアでのチフスの流行状況を研究した。チュニジアでは、弱毒化したチフス・リケッチア(Rickettsia prowazekii)を少量繰り返し注射するという、流行性チフスに対するワクチン接種の研究も続けられた。

1928年、スパロウは初めての教職として、ワルシャワ大学医学部の准教授になった。1928年にワルシャワ大学で博士号を取得[1]。博士論文のタイトルは「チフスに対するワクチン接種の問題」だった[3]。さらに同1928年に衛生研究所の予防接種サービス課長となると、予防接種キャンペーンの組織化とコレラ発生の調査が職務に含まれていた。

1931年、ポーランド政府はスパロウをシャルル・ニコルに同行させて、メキシコグアテマラのチフス流行を研究させた。

チュニジアに移住

1933年、シャルル・ニコルが所長を務めるチュニジアパスツール研究所に赴任し、主任となる。同年、フランスの市民権を獲得。スパロウはそこで過去に学んだルドルフ・ヴァイグルの開発した手法の導入を行った。この手法にはシラミの実験室培養が必要で、スパロウの専門知識はチュニスのパスツール研究所でのチフス研究を大きく加速した。スパロウの専門知識には、ワクチン開発、殺虫剤の使用法、チフスとチフスに似た症状を起こす他の細菌との分離技術などが含まれていた[6]

1933年10月、農学者のフィリップ・ジェルマと結婚。以後はH・スパロウ・ジェルマ名義でも論文を投稿している。

1935年からは腸チフスワクチン開発の基礎としてマウスウイルスに取り組み、1940年にポール・デュラン[7]と共にDurand-Sparrow抗腸チフスワクチンを開発した。またスパロウは、ロッキー山紅斑熱ワクチン開発を目指して、紅斑熱の病原体培養を進めた。

1949年からは結核に対するBCGワクチンの推進責任者を務めた。1955年からは世界保健機関の要請でエチオピアにて回帰熱の研究を担当した[3]

1956年、チュニスはフランスから独立した。スパロウは夫のジェルマと共にコルシカ島に移り住み、1970年にコルシカ島で亡くなった[1]

使った手法

ペストの実験動物にはモルモットが使われたが、ペストに感染したモルモットの症状は直腸温が上昇するのみであり、当時の技術ではペスト以外の病原体を完全に排除することは難しかった。スパロウは実験に使われた病原体がチフスであることを証明するため、1921年12月25日、2次感染したモルモットからの採取物を自らに注射し、チフスの同定に必要な症状を全て発症した。幸いこの時は治癒した[5]

在チュニス時代、当時はまだ安全な発疹チフスワクチンを作ることが難しかったので、スパロウは抗原としてラットチフス(発疹熱英語版)を代用、ボランティアに接種した[5]

また顕微鏡観察の技術にも優れており、1938年にはネズミに存在した非常に似た2種の病原体を識別したと報告されている[5]

研究以外

第二次世界大戦中、スパロウはチュニスに逃れてきたフランス人難民やポーランド脱走兵を受け入れた。1942年12月、作家のアンドレ・ジッドは前月から枢軸国占領地になったチュニスに入ると潜伏、翌1943年5月に連合国が来るまで隠れていた間に、フランス人コミュニティの昼食会を催したり出席したりしたスパロウの姿を日記につけている[8]:173。また1943年1月1日にはスパロウが泊まっていたアパートに不発弾が落ち、直後の1月6日には隣接する2軒が破壊されたとも記した[8]:146

受賞と栄誉

論文・書籍

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI