1960年代から1970年代にかけて、アジアを代表するゴルファーの一人であり、フィリピン出身のゴルファーとしてマスターズと全英オープンの出場資格を初めて獲得した。 フィリピンオープンを含む3回のアジアサーキットでのトーナメントで優勝し、1970年には賞金王に輝く。日本ツアーでは4勝を挙げ、1973年の日本オープンでは青木功との大激戦の末に出場16年目での初優勝を飾る[1] [2] [3]。最終日最終組最終ホールでの決着となり、現在でもプロツアー界で語り継がれている[2]。ワールドカップゴルフにも16回出場し、1977年にパートナーのルディ・ラバレスと共に団体で2位に入賞。
ゴルフ場設計者としての顔を持ち、日本では長野県岡谷市の「諏訪レイクヒルカントリークラブ」の設計を担当した[2]。