ホルシード朝
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| ホルシード朝 | |||||
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| سلسلهٔ خورشیدیان | |||||
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ホルシード朝(小ルル)の位置。 | |||||
| 公用語 | ペルシア語 | ||||
| 首都 | ホラマーバード | ||||
| アタベク | |||||
| 1203年 - 1224年頃 | ショジャッディーン・ホルシード・イブン・アリー | ||||
| 変遷 | |||||
| 建国 | 1203年 | ||||
| 滅亡 | 1597年 | ||||
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ホルシード朝あるいはフルシード朝[1](ホルシードちょう、ペルシア語: سلسلهٔ خورشیدیان、Selsele-ye Khorshidiān)は、13世紀から16世紀にかけてイラン南西部のロレスターン(ロル族の国)と呼ばれる地域を支配した地方政権である。12世紀以降ロレスターンはデズ川を境界として大ロル(ルル)と小ロル(ルル)に分かれ、大ロルはハザーラスプ朝が支配し、ホルシード朝は小ロルを支配していた。
この王朝の創始者であるショジャッディーン・ホルシード・イブン・アリーから来ている[1]。
歴史
成立
ホルシード朝の起源はルル・ジャンガルディ族から始まり[2][3]、10世紀の始め、二人の兄弟がルリスターンを分割し、西の小ルル(ホルシード朝)と東の大ルル(ハザースラプ朝)に分かれた[1]。初代統治者の名にちなんで「ホルシード」という名を冠した[2][3]。彼らの領土にはホッラムバードと、衰退するまでアンナジードがかつて支配していた領土が含まれていた[4]。
12世紀、ショジャッディーン・ホルシード・イブン・アリーはアタベクの称号を名乗り、1203年の宗主の死後、独立した統治者となった[2]。その後、1224年頃に亡くなる前に、アッバース朝のハリーファ・ナースィルから、いくらかの金銭と引き換えにフーゼスターンのタラザク地区を与えられた[2]。
アッバース朝時代
彼の後を継いだのは甥のサイフッディーン・ロスタムで、彼は力ずくで権力を掌握し、有能な統治者となった[2]。
その後、シャラフッディーン・アブー・バクル、イッゼッディーン・ガルシャースプ、そしてホサームッディーン・ハリールが後を継いだ[2]。後者は家族間の争いで殺害された。
モンゴルに臣従
ハリーファ・ナースィルはホサームッディーン・ハリールの兄弟であるバドルッディーン・マスウードを新たな指導者として認めることを拒否し、バドルッディーン・マスウードはモンゴル帝国の支援を求めて接近し、その支援を得た[2]。マスウードはその地位を維持し、1258年のフレグのバグダード包囲戦で得られた戦利品の分配を受けた[2]。彼は1260年に死去した[2]。
イルハン朝時代
その後、継承争いが起こり、タージュッディーン・シャー・イブン・ハリールがホルシード朝の新たな統治者として擁立された。しかし彼の統治についてはほとんど何も分かっておらず、1278/79年にイルハン朝の命令によって殺害された[2]。
その後、領土はバドルッディーン・マスウードの2人の息子の間で分割され、両者は支配領域を拡大し、ハマダーンからシューシュタルに至る地域、さらにイスファハーンからアラブ人居住地域にまで勢力を広げた[2]。しかし1293年、イルハン朝のガイハトゥ・ハンは両者を廃し、タージュッディーン・シャー・イブン・ハリールの息子ジャマールッディーン・ヘズルを統治者として擁立した[2]。
タージュッディーン・シャー・イブン・ハリールは1294年に死去し、ホサームッディーン・ウマルが後継者となった。しかし彼はすぐにサムサームッディーン・マフムードに権力を譲らざるを得なかった[2]。だがこのマフムードは、ヘズル殺害に関与したとしてガザン・ハンによって1296年に処刑された[2][5]。
その後、この地はイッゼッディーン・アフマド・ホサインが統治し、彼は従兄弟のバドルッディーン・マスウードの後見下に置かれていた。領土は両者の間で分割されたが、最終的にイッゼッディーンが全域を掌握し、1310年代後半まで統治した[2]。
彼の死後、その未亡人ダウラト・ハトゥンが統治権を引き継ぎ、領土を彼女の兄弟イッゼッディーン2世・マフムードに譲ったことで、新たな王家の系統が成立した[2]。
イッゼッディーン2世・マフムードは1329/1330年まで統治し、その後はその息子ショジャッディーン・ムハンマドが継承したが、彼は1349年から1369年の間に死去した[2]。
ティムールの侵攻
ティムール朝のティムールは1386年、この王朝が住民に過重な課税を行っていることを口実として領域に侵攻し、首都ホッラマーバードを完全に破壊し、ボルージェルドを荒廃させた[2]。この侵攻当時、この地はイッゼッディーン3世によって統治されていたが、彼はトルキスタンへ追放され、その後3年間の帰還を許された[2]。彼はティムールが1392/93年に再び侵攻した際に逃れることができたが、最終的には1403/04年に殺害された[2]。
その息子シーディー・アフマドは、1405年のティムール死後に領地の回復に成功し、1412/1413年まで統治した[2]。
その後はその弟シャー・フセインが継承し、1466年から1469年頃に死去するまで統治した[2]。
サファヴィー朝時代
彼の息子シャー・ロスタム・アッバースィーと、その孫ミール・ウグル・イブン・シャー・ロスタムはサファヴィー朝に与したが、この時期の王朝史についてはほとんど情報が残っていない[2]。
この王朝の支配者はモハンマディーであり、彼はサファヴィー朝のシャー・イスマーイール2世の死の時点で統治していた[2]。彼は当初オスマン帝国の宗主権を認めていたが、その後サファヴィー朝への忠誠を改めて表明した[2]。
滅亡
サファヴィー朝のシャー・アッバース1世は、当時のホルシード朝統治者シャーフェルディー・アッバースィーの娘と結婚した[2]。しかしサファヴィー朝のシャーに呼び出されたシャーフェルディー・アッバースィーはバグダードへ送られ、1594/95年に復位されたものの再び従属状態となり、最終的には1597/98年に処刑され、これによりホルシード朝は終焉した[2]。
歴代君主
| 代数 | 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | ショジャッディーン・ホルシード・イブン・アリー | 1203年 - 1224年頃 | ホルシード朝を創始 |
| 2 | サイフッディーン・ロスタム | 1224年頃 - ? | ショジャッディーン・ホルシード・イブン・アリーの甥。 |
| 3 | シャラフッディーン・アブー・バクル | ? - ? | |
| 4 | イッゼッディーン・ガルシャースプ | ? - ? | |
| 5 | ホサームッディーン・ハリール | ? - ? | |
| 6 | バドルッディーン・マスウード | ? - 1260年 | ホサームッディーン・ハリールの兄弟。モンゴルに臣従。 |
| 7 | タージュッディーン・シャー・イブン・ハリール | 1260年 - 1278/79年 | イルハン朝によって処刑 |
| 8 | 名称不明 | 1278/79年 - 1293年 | タージュッディーン・シャー・イブン・ハリールの子。ガイハトゥ・ハンによって廃位。 |
| 共治 | 名称不明 | 1278/79年 - 1293年 | タージュッディーン・シャー・イブン・ハリールの子。ガイハトゥ・ハンによって廃位。 |
| 9 | ジャマールッディーン・ヘズル | 1293年 - 1294年 | タージュッディーン・シャー・イブン・ハリールの子。ガイハトゥ・ハンによって擁立。 |
| 10 | ホサームッディーン・ウマル | 1294年 - 1296年 | ガザン・ハンによって処刑 |
| 11 | サムサームッディーン・マフムード | 1296年 - ? | ガザン・ハンによって擁立 |
| 12 | イッゼッディーン・アフマド・ホサイン | ? - 1310年代後半 | |
| 13 | ダウラト・ハトゥン | 1310年代後半 - ? | イッゼッディーン・アフマド・ホサインの妻 |
| 14 | イッゼッディーン2世・マフムード | ? - 1329/1330年 | ダウラト・ハトゥンの兄弟 |
| 15 | ショジャッディーン・ムハンマド | 1329/1330年 - 1349年から1369年の間 | イッゼッディーン2世・マフムードの子 |
| 16 | イッゼッディーン3世 | 1349年から1369年の間 - 1403/04年 | ティムールによって殺害 |
| 17 | シーディー・アフマド | 1403/04年- 1412/1413年 | イッゼッディーン3世の子 |
| 18 | シャー・フセイン | 1412/1413年- 1466年から1469年頃 | シーディー・アフマドの弟 |
| 19 | シャー・ロスタム・アッバースィー | 1466年から1469年頃 - ? | シャー・フセインの子 |
| 20 | ミール・ウグル・イブン・シャー・ロスタム | ? - ? | シャー・ロスタム・アッバースィーの孫 |
| 21 | モハンマディー | ? - ? | |
| 22 | シャーフェルディー・アッバースィー | ? - ? | アッバース1世によって廃位 |
| 復位 | シャーフェルディー・アッバースィー | 1594/95年 - 1597/98年 | アッバース1世によって処刑 |