ガイハトゥ
イルハン朝5代ハン。アバカ・ハンの次男。
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名前
この人物の本名はイリンチン=ドルジ(Irinčin-Dorǰi > Irīnǧīn Durǧī)であるが、『集史』などのペルシア語史料ではほとんどの場合كيخاتو(Kyḫatw)という名前で表記される。このكيخاتوは慣例的にガイハトゥ(Gayḫātū)と読まれ、「神威/驚奇」「驚嘆すべき」「感嘆すべき」[1]を意味するモンゴル語qayiqaが転訛したものとされる。
しかし、近年の研究の進展により、「كيخاتو」という人名の読みについて新たな説が出されるようになった。松井太らの研究者は、(1)同時代のモンゴル語史料中に動詞としてのγayiqa-という形はあっても名詞としてのqayiqatuもしくはqayiqaという用法が存在しないこと、(2)ウイグル文字のQ(ᠬ)はアラビア文字では多くの場合K/G(گ/ک)ではなくQ/Ġ/Ḫ(خ/غ/ق)で表されること、(3)モンゴル王族名のアラビア文字表記・ウイグル文字表記を併記する『五族譜』ではكيخاتوのことをウイグル文字でKyq’dwと表記しており、 Kiqatu/Giqatという読みが導かれること、(4)「كيخاتو」の読みをKiqatuとすると『東方見聞録』に見えるChiatoなどの表記とよく合致すること、などの点によりガイハトゥ(Gayḫātū)ではなくキハト(Kiqatu)という表記を用いるようになっている[2]。
生涯
生まれ
アルグンの反乱に従う
1282年、スルターン・アフマド(テグデル)が第3代イルハンに即位した[3]。 1283年冬、アバカの長男アルグンは反アフマドの将校たちにそそのかされてハン位を簒奪しようと決心し、バグダード市で冬営していたときに父アバカの親衛軍の一部であったカラウナス万戸と出会ったため、将軍タガチャルの指揮下に置いた[4]。アルグンはタガチャルに万戸長(トゥメン・ノヤン)の称号と旗鼓を与えた[4]。この軍隊はタガチャルの下でアルグンの弟ガイハトゥ、従弟のバイドゥならびにジャウクル、ジャンクトル、ドラダイの諸将およびアバカの旧将と旧臣のすべてと同じくアルグンに忠誠を誓っていた集団であった[4]。
コンクルタイの処刑とアルグン派の逮捕
1284年1月18日、スルターン・アフマドはアルグンと王侯コンクルタイが宴会の日にアフマドを捕らえようとしている計画を察知したため、将軍アリナクにコンクルタイを捕らえさせ、背骨を折って殺害した[5]。同時にディヤールバクルに駐屯していた軍隊にはバグダード州でアルグンの将校・属吏たちを捕らえさせた[5]。将軍タガチャル、ジャウクル、ドラダイ、イルチ、スナタイ・ノヤンの子アバイ、ジュウシらは厳重な護衛のもとにタブリーズ市へ連れていかれ、牢獄に入れられた[5]。しかし、王侯ガイハトゥ、将軍バトマジとその他の将校はうまく逃れてホラーサーンへ走った[5]。
アルグンがアク・ホージャ平原で敗北

一方、アルグンはその使節が帰ってくると、アフマドの意図について知らされ、ガイハトゥからもことの一部始終を聞き、武力で訴えることを覚悟した[6]。アルグンはホラーサーン、マーザンダラーンに駐屯している軍隊を集め、自分が支配しているすべての場所で国庫金を奪って得た金銀を彼らに分配した[6]。アルグンはダームガーン市においてアリナクがカズヴィーン市の付近に到着し、ライ地方を荒掠してアルグンの私領であるラールのサライを破壊したこと、その属民すべてを捕らえてアーザルバーイジャーンへ送ろうとしたことを聞き、怒りのあまり、アリナクに復讐しようと誓った[6]。アルグンはその部隊を3つに分け、自らは後軍を指揮し、シーシー・バクシーには後方で輜重を守らせ、将軍ノウルーズにカラウナス万戸(トゥメン)1万5千を率いて進軍させ、アリナク軍とはライ市とカズヴィーン市の中間に位置するハイル・イ・ブズルグ村で遭遇した[6]。アリナクはアルグンの間諜を捕らえて敵の位置と兵力を入手し、5月4日にカズヴィーン付近のアク・ホージャ平原でアルグンを発見し、夕暮れまで戦闘になった[6]。アルグンの左翼は潰走したが、右翼は反撃し、アリナクの左翼を追撃したものの、アルグンはかなわないと悟ってフィールーズクー路を経て300騎を率いて退却した[6]。残されたアルグンの兵は四散し、その途中でダームガーン市とその周辺を掠奪した[6]。アフマドはアルグンに対し、戦争を中止して信頼して自分に会いに来るよう勧めた[7]。アルグンは時間を稼ぐため、ノヤン・クトルグシャーとレグズィーをアフマドの元へ派遣し、服従すると伝えた[7]。
アルグンの即位

1284年8月10日、アルグンはその後ブカの助けによってアフマドを圧倒し、アフマドを処刑した[8]。そしてハトゥン、王侯、将軍たちはユズ・アガチュ付近のアブ・シュールに集まって満場一致でアルグンを推挙した[9]。アルグンは叔父のフラジュウに通知して、大ハトゥンたち将軍たちおよびノヤンたちが自分に即位するよう懇願したこと、自分はこれを拒絶できなかったこと、フラジュウは最高権に対してアルグンの協力者となってほしいことを伝えた[9]。フラジュウはアルグンと争う気はなかったので、アルグンのもとへ入朝し、アルグンはクリルタイのすべての参加者とともにクルバーン・シラに赴いた[9]。弟ガイハトゥもまたアルグンの選出に同意するために到着した[9]。8月11日、ハシトルードとクルバーン・シラの間にあるカムシウンという場所で占星学者の指示に従ってフラジュウとアンバンチがアルグンを第4代イルハンに即位させた[10]。王侯キンシュウとジュシカブはフラジュウの党派であり、アルグンの即位に反対していたが、即位式の3日後にアルグンに宣誓し、臣従を誓った[10]。アルグンはアフマドに忠誠を誓っていた数人の将校を殺し、勅令を発してアフマドに仕えていた人々に不安を与えないようにした[10]。
ルームの長官となる
1289年、ルームの長官フラジュウがアミール・ノウルーズの反乱に加担して処刑されたので、ガイハトゥがルームの長官となった[11][12]。
アルグンの崩御
アルグンは病を患ってから5か月後の1291年3月10日、バグチェ・イ・アッラーンの宮殿で崩御した[13]。5日後、諸将はホラーサーンにいるアルグンの子ガザンへ主馬頭カバンを派遣して通知し、翌日タイタクをバグダードにいるバイドゥへ派遣し、レグズィーをルームのガイハトゥのところへ派遣した[14]。レグズィーの任務はガイハトゥにハン位に即いてもらうことであった[14]。しかし、タガチャルたちはガイハトゥがハン位につけば、ルームの将校たちが重んぜられることを恐れ、またガザンを立てることも欲しなかったため、バイドゥを推すことにした[14]。シクトル、サマガル、ドラダイ、タクナ、イルチダイ、ブグダイ、クンチャクバル、トガン、トゲルら諸将、ならびに左翼の将校たちはタガチャルの意見に従った[14]。タガチャルはバーリーザードという将校をルームへ派遣してバイドゥを新ハンに推戴したことをガイハトゥに伝えた[14]。ガイハトゥはバーリーザードを拷問してこの首謀者の名を吐かせ、バイトミシュ指揮下の部隊を前衛として王宮へ向けて出発させた[14]。
バイドゥが即位を辞退する
諸将はバイドゥのところへ一人の将校を派遣してバイドゥは長兄としての権利によってハン位を継ぐべきであると伝え、王宮へ来るよう伝えた[15]。バイドゥは慎重かつ臆病だったので、これを信用せず、「ハン位継承はチンギス・カンのヤサに従えば先代の子または兄弟とあるので、自分は難儀な重荷を引き受けることはできない」と返答した[15]。バイドゥは諸将から送られた書状をガイハトゥへ送り、ゆっくりとクルバーン・シラへ進み、この地からクイト・ブラク[注釈 2]へ赴いた[15]。タガチャルはノヤン・シクトルによって逮捕され、クンチャクバルはアラタク方面へ、トゲルはグルジア方面へ逃走した[16]。
ガイハトゥが行軍中であるという知らせに接して王侯スケイ、将軍チョバン、クルミシおよびハトゥンたちの諸オルドは1291年5月23日、ガイハトゥに謁見するためにアラタク街道へ赴いた[16]。26日の夜、別の3人の将軍がひそかにルームへ逃亡した[16]。次の夜、エブ・オグラン(衛士)たちも同じ方面へ逃げ、他の諸将も逃げた[16]。これによってガイハトゥ即位に反対する者がいなくなり、ガイハトゥのハン位は固まった[16]。ガイハトゥにとって有利なこの経緯はドグズ・ハトゥンの姪でアルグンの寡婦であるウルク・ハトゥンの尽力によるものであった[16]。
ガイハトゥの即位

1291年7月23日、ヒラート市付近のある地で親族の諸王侯、将軍たちが参集する中、ガイハトゥは第5代イルハンに即位した[1]。ガイハトゥは恒例の宴会と遊興が終わったのち、8月上旬に摂政の職をおこなっていた貴族たちを逮捕した[1]。彼らはアルグン崩御の際の事情と大臣や宮廷の高官を勝手に処刑したことを訊問された[1]。ガイハトゥは第一回目の裁判に臨席し、バイドゥを祭り上げた首謀者はタガチャル、クンチャクバル、サマガル、タクナであったことがわかり、3回の棒刑に処した[17]。タガチャルの万戸(トゥメン)は没収されてノヤン・ビガウルに与えられ、クンチャクバルの万戸はノヤン・シクトルに、トガルの万戸はナリン・アフマドに与えられ、トガンは監獄に留め置かれた[17]。ジュウシとオルドカヤの家族は復讐することを要求したが、ガイハトゥは許可しなかった[17]。ウルク・ハトゥンがガイハトゥに対して「このような事態を引き起こした将校に寛大な処置をとれば罪人を勢いづけることにしかならないでしょう」と言ったため、トガンは処刑された[17]。
ルームへ出兵
1291年8月7日、ガイハトゥはアラタクに帰り、翌日タガチャル、クンチャクバルおよびその他貴族の入朝に接した[18]。ガイハトゥはモンケ・ティムールの長子である王侯アンバルチにホラーサーン州の管領を委ね、ノヤン・シクトルを全国の民政・軍事の最高の代官に任命した[18]。
9月1日、ガイハトゥはルームの反乱鎮圧のために出発した[19]。鎮圧して凱旋後、ガイハトゥは以前シクトルによってタブリーズで逮捕されていたサドルッディーン・ザンジャーニーを釈放し、自分に背いていたアミールたちを赦免した[19]。ガイハトゥは宮殿に帰ってまもなく病にかかり、学者(ウラマー)、教長(イマーム)、キリスト教司教、修道士、ユダヤ教律法師らを召集して熱烈な祈祷をおこなった[19]。
即位式

1292年6月、病気が治ると、占星術で不吉とされていたため延期されていた即位式を慣例の儀式によっておこなった[20]。ガイハトゥは親族の諸王侯、諸将から忠誠を誓う誓約書を受け、正式に即位した[20]。人々は1か月間も宴会と遊興をおこなって式典を祝った[20]。アルグン・ハンの治世で血なまぐさい徴発によって満たされていた国庫は惜し気もない恩賞によって空になった[20]。さらにガイハトゥは囚人を釈放し、施し物をばらまき、イスラームの博士たち、ムハンマドの後裔(サイード族)および学者たちの一切の課税を免除した[20]。
マムルーク朝の侵攻
1292年6月29日、この宴会の最中にビーラ市の北、ユーフラテス川の右岸に位置するカラート・アル=ルーム城がマムルーク朝スルターン・アシュラフによって占領されたという報告が入った[21]。カラート・アル=ルーム城は1268年からアルメニア教会の総主教の駐在地となっていが、マムルーク朝軍は宮殿と総大主教の教会堂に火を放った[21]。彼らは総大主教エティヤンヌ4世を捕らえ、その修道士たちとともにイェルサレムに移した[22]。以降のアルメニア教会の総大主教はキリキア・アルメニア王国の首都スィスに駐在するようになる[22]。スルターン・アシュラフは「ローマ人の城堡」を意味するカラート・アル=ルームという名を「ムスルマーンの城堡」という名前に変えた[22]。ガイハトゥは軍隊を送ってこの城堡を救援させたが、到着したころにはマムルーク朝軍が退却した後だった[22]。
しばらくしてのちガイハトゥはスルターン・アシュラフに使者を派遣して書簡を届け、シリアを奪い返すつもりであることを綴った[23]。これに対しアシュラフは「我々も同じでバグダードを再びイスラームの首都とするつもりである」と伝えた[23]。
ケルマーンの事件
ガイハトゥは慣例に従って(レビラト婚)父アバカの寡婦パーディシャー・ハトゥンを娶った[23]。1292年、パーディシャー・ハトゥンの弟でケルマーンのカラヒタイ朝の君主ジャラールッディーン・ソユルガトミシュを廃して、パーディシャー・ハトゥンをカラヒタイ朝の君主とした[23]。パーディシャー・ハトゥンは任地に赴くと、ソユルガトミシュを牢獄に入れたが脱走したため、死刑とした[24]。
アフラースィヤーブ1世が特赦される
大ルルのアタベクであるアフラースィヤーブ1世はマンジャンシト堡に難を逃れていたが、将軍ドラダイにこの堡塞を囲まれて降伏し、ガイハトゥの宮廷に連行された[25]。アフラースィヤーブ1世はウルク・ハトゥンとパーディシャー・ハトゥンのとりなしによって特赦を得て、その弟アフマドを人質として宮廷に残し、自分の国に帰った[25]。
アルグンの子ガザン
1292年、ガザンはガイハトゥ即位に際し、ホラーサーンを将軍クトルグシャーに任せ、入朝のため首都タブリーズへ向かった。しかし、ガイハトゥからは「即刻自分の職務に帰任するように」と厳命されて、ホラーサーンへと引き返した[26]。
サドルッディーン・ザンジャーニーがワズィールとなる

ガイハトゥはアク・ブカを元帥に昇格させ、シクトルとタガチャルをその副官とした[26]。ガイハトゥ・ハンは自分の私領地の管理を二人の寵臣ハサンとタイジュウに委ねた[28]。当時なお欠員であったワズィールの地位はトガチャル配下の徴税官サドルッディーン・ザンジャーニーが策略を用いてこれを得ようとしていた[28]。アルグン・ハンの代に謀反したモンゴル貴族の遺産を没収して富を作った彼は自分に役立つすべての人々に莫大な賄賂をし、ついに元帥アク・ブカの庇護を受けることに成功した[28]。
1292年11月19日、ガイハトゥ・ハンは「ワズィールとして最も適している人物はサドルッディーン・アフマドをおいて他にはいない」と言い、サドルッディーンをワズィールに任命するとともにサーヒブ・ディーワーン(財務長官)に任命した[28]。また、サドル・ジハーン(世界の首長)という称号を名乗る許可も得た[28]。さらにガイハトゥ・ハンは手厚い恩賞のしるしとして、金印(アル・タムガ)、トク(纛)、太鼓を与え、トゥメンの長にも任命した[28]。弟のクトブッディーン・アフマドには大法官の地位とサードル(宗教長官)の地位を与えられ、クトブ・イ・ジハーン(世界の極)の称号を名乗る許可を得た[28]。
ガイハトゥ・ハンの放蕩と失政
ガイハトゥ・ハンは酒と女と美少年にふけって官能快楽にひたり、政務のことごとくをワズィールであるサドルッディーンに丸投げしたため、彼の権力は全能を極めた[29]。サドルッディーンは各地の知事を勝手に移動したり、大官たちの許可はおろかハンの許可なしにあらゆることを決裁できた[29]。サドルッディーンはハサンとタイジュウから采邑(インチュウ)の管轄権を奪い、これを公賦(デライ)に併せた[29]。ハサンとタイジュウはこのことをガイハトゥ・ハンに訴えようとしたが、サドルッディーンによってもみ消され、彼を信用していたガイハトゥ・ハンは自分の大臣の悪口を言う者は死刑にすると言った[30]。これによって誰もサドルッディーンに逆らうことができなくなった。ついで、勅令が発せられ、ジャイフーン川からマムルーク朝との境界にいたるイルハン朝全体の行政がサドルッディーンに委ねられること、一切の公職を任命する権限を有すること、ハトゥンたち諸将によって雇われている使用人すべては彼の自由裁量に委ねられるべきであることが決定された[30]。これらの失政によってイルハン朝の国庫は空になった[31]。
紙幣の発行
1294年5月、イッズッディーン・ムザッファルの提案により、サドルッディーンは元朝の鈔にならって紙幣を発行することを決め、ガイハトゥ・ハンが鈔(チャーウ چاو chāw、チャーヴ chāv)[注釈 3]を新設するための勅令を発布した[33]。あわせてこれまでの通貨の使用を禁止した[32]。9月、タブリーズで鈔が発行されると、鈔を受け取らない者は死刑にするという勅令のもと、無理やり市民に配布した[34]。まもなくして商店街や市場から商品がなくなり、多くの人は都城から立ち去った[34]。あるときガイハトゥ・ハンとサドルッディーンがバザールを通った時、ガイハトゥが商店街が空なのを怪しんだが、サドルッディーンはごまかした[34]。さらに金曜日にイスラム教寺院に参集したイスラム教徒はイッズッディーン・ムザッファルとサドルッディーンを公然と批判し、サドルッディーンを襲った[34]。命からがらこの暴動から逃げ帰ったサドルッディーンは数人を死刑にしたが、食料品を現金で買うことを許可するようにした[35]。そしてまもなく鈔の廃止が決定された[35]。
バイドゥの謀反
1294年6月12日、バイドゥはアラタクの宮廷へ来朝した[36]。ある夜の宴会で、ガイハトゥはいつものように酔っ払い、バイドゥと口論し、侍臣の一人に命じてバイドゥを殴らせた[36]。翌日、ガイハトゥは酔いが醒めると自分がしたことを後悔し、バイドゥに合って陳謝し、数々の厚情のしるしを贈った[36]。ガイハトゥは自分の冠(クーラ)を脱ぎ、バイドゥの頭にかぶらせた[36]。バイドゥは自分の怒りを包み隠したが、ダクーカー市付近の自分の冬営地に帰るなり、部下の将校たちにこのことをうちあけ、バグダード州に駐屯地を持つ数人の将軍を獲得した[36]。モンゴル貴族たちはガイハトゥが自分たちの家族を凌辱するなど、淫逸放縦なのに屈辱と憤懣の念を抱いていた[37]。そこで彼らはバイドゥの側につき、バイドゥの軍隊に随ってモースル市へ赴き、この地の司令官を捕らえて殺した[37]。バイドゥの密偵はバグダードへ赴いてその司令官ムハンマド・スクールチーを暗殺し、反旗を掲げた[37]。これに触発されてその他の諸将もバイドゥの味方となった[37]。ガルバタイ・クルカンはバグダード市から急使をガイハトゥのもとに送り、「現在宮廷にいるドラダイ、クンチャクバル、イルダル、トガル、イルチダイらの諸将はバイドゥと内通している」と報じた[37]。ガイハトゥは当時ガウパリに滞在しており、そこからこれらの諸将を逮捕させた[37]。ガイハトゥの寵臣ハサンとタイジュウはむしろこれらの反逆者を亡き者にすることが肝心であると提案した[37]。しかし、タガチャルはその実行を妨げ、「まずバイドゥを召喚することが必要であり、もし彼が入朝を拒否すれば謀反は明確ということになります」と言い、ガイハトゥはこれに賛成した[37]。一方でタガチャルは逮捕者を釈放し、バイドゥに使者を派遣して来朝した際に自分の徒党がガイハトゥを捕らえることを伝えた[37]。
ガイハトゥの死

1295年3月12日、アブハル川岸の地を出発し、元帥アク・ブカとタガチャルはそれぞれ1万の兵を率いて、バイドゥより4日先に進軍した[37]。この時、タガチャルはアク・ブカを裏切り、自分がバイドゥ政権での元帥となると言ってアク・ブカの軍隊の大部分を自分の軍隊に吸収した[38]。アク・ブカは300人の部下を率いて逆戻りしてガイハトゥにタガチャルの裏切りを報告した[38]。ガイハトゥは誰も信用できなくなり、ルームへ逃亡しようとした[37]。ガイハトゥは数騎を伴ってアッラーン州のオルドへ向かった[38]。これを見たハサンとタイジュウ、その他の侍従はガイハトゥを見限って逃げた[38]。ムーガーン州においてガイハトゥは彼の調馬師たちの牧地に駐屯した[38]。この地でクンチャクバル、ドラダイら諸将がガイハトゥに襲い掛かり、その身柄を捕らえた[38]。ガイハトゥは彼らに命乞いをしたが、クンチャクバルたちはガイハトゥに対して侮辱的な罵りをするだけであった[39]。彼らはついにガイハトゥを帳幕の中に引きずり込み、その中で弓の弦で絞殺した[39]。時に3月24日であった[39]。ガイハトゥの3人の従者も同じく殺された[39]。
宗室
『集史』「ガイハトゥ紀」によると、アルグンには男子は3人、女子も4人いたという。
父母
- 父 アバカ
- 母 ノクダン・ハトゥン
后妃
- アーイシャ・ハトゥン[注釈 4]
- ドンデイ・ハトゥン[注釈 5]
- イルトゥズミシュ・ハトゥン[注釈 6]
- パードシャー・ハトゥン[注釈 7]
- ウルク・ハトゥン[注釈 8]
- ブルガン・ハトゥン[注釈 9]
側室
- ナナイ
- エセン
男子
- 長男 アラーフランク 母 ドンデイ・ハトゥン、ジハーン・テムルの父
- 次男 イーラーン・シャー 母 同上
- 三男 チン・プーラード 母 ウルク・ハトゥン
女子
- 長女 オラ・クトルグ 母 アーイシャ・ハトゥン
- 次女 イル・クトルグ 母 同上
- 三女 アラ・クトルグ 母 同上
- 四女 不詳[注釈 10]