ポリュージエの出現は、東スラヴの諸部族に対するルーシの支配の拡大と関連している。ポリュージエは、公とその従士団(ドルジーナ)が土地を巡回し、各地から貢税を徴収した。また、ポリュージエとしてその地にとどまる間の食料の供給も受けた。ポリュージエは11月から4月にかけて行われた。ポリュージエの史料上の初出は、ルーシの年代記や、ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世の著述した『帝国統治論(ru)』における、10世紀半ばの記述である。『帝国統治論』における記述は以下のような内容である。
十一月が訪れるとすぐさま、彼ら(ロース)の諸公は、全ロースと共に
キエフを出て、パリューヂエに出発する。これは、「巡回」という意味で、ロースにとって条約に基づく貢納者である
ドレヴリャーネ、
ドレゴヴィチ、
クリヴィチ、
セヴェリャーネ、その他のスラヴ人の土地を巡回する。彼らは、そこで冬のあいだ寄食し、そして、
ドニエプル川の氷が解け始める四月になると、キエフに戻る。その後、丸木舟を入手して、艤装し、
ビザンツに向けて出発する。
— 和田春樹編、『ロシア史』(山川出版社、2002年)p35より引用
ポリュージエで徴収した貢税(ダーニ)は、テン・ビーバーなどの毛皮や、蜂蜜・蜜蝋などが主要な品目であり、『帝国統治論』中の「ビザンツに向けて出発する」とは、ルーシ人がこれらの品をコンスタンティノープルへ持ち込んで交易を行っていたことを意味している[4]。また、スカンジナヴィアのサガ(『ハラルドのサガ[注 1][訳語疑問点]』)では、ポリュージエ形式の徴税をpoluta、polutaswarfと記述している。さらに、ペルシャの歴史家ガルディジ(ru)[注 2]の著作の中に、「常に100から200人のルーシがスラヴ人の元へ行き、当分の間そこに逗留し、彼ら自身の生活の糧を強制的に徴収した。」という記述がみられる。別の視点からみれば、このようなシステムは、政治的一体性をもった各部族の存在を示すものであり、巡回を支えうる、農工商のある程度の熟成がなされていたともいえる[5]。
945年の、キエフ大公イーゴリ1世による、ドレヴリャーネ族に対するポリュージエは、貢税の要求に抵抗したドレヴリャーネ族の蜂起につながった。『原初年代記』には、「イーゴリが所定以上にドレヴリャーネ族から貢税を取り立てようとしたために、ドレヴリャーネ族は、彼らの公・マール(ru)の指揮の元に兵を繰り出し、イーゴリを殺した。」という趣旨の記述がある[6]。これを受けて、イーゴリ1世の妻オリガはドレヴリャーネ族を討ち、徴税に関する改革を行い、各部族の中心的都市ではなく貢物納入所(ポゴスト)で徴税を実施するよう定めた。その後貢税は大都市のナメストニクの元へ集められ、キエフに送られた。このシステム設立以降には、たとえば、「1014年、ノヴゴロドのナメストニク・ヤロスラフは、キエフ大公ウラジーミル1世の元への貢税(ノヴゴロドに集まった貢税の2 / 3)の供出を拒んだ」等という記述がみられる。一方、イーゴリ1世の死以降も、966年にはスヴャトスラフ1世が、ハザールの支配下にあったヴャチチ族を征服し貢税を課すなど[7]、征服した部族を課税対象に組み込む行為はみられる。キエフ・ルーシ期のポリュージエに関する最後の言及の1つとして、1190年からウラジーミル・スーズダリ公フセヴォロドが行ったポリュージエが挙げられる。研究者はこのフセヴォロドのポリュージエの主な記録から、ポリュージエに回る部隊は一日平均7 - 8kmの速度で移動していたと計算した。
なお、ロシアの辺境では、ポリュージエ形式の徴税は、より長期に渡って行われていた(現チュクチ自治管区では19世紀まで)。ポリュージエ形式の徴税は、ユーラシア・アフリカにおいて広く分布したシステムであるという説もある[8]。