『原初年代記』には、「ヴャチチ族とラジミチ族は、(西スラヴ民族の)リャフ人(ru)より派生した」という主旨の記述がある[8]。考古学的検証によれば、ヴャチチ族の移住はドニエプル川左岸[9]、もしくはドニエストル川上流(ドゥレーブィ族の居住地)[10]から発しているとされる。また、同じく『原初年代記』中に、ヴャチチ族の名は、彼ら一族をオカ川流域に導いたヴャトコという人物に由来するという記述がある[8]。しかしこの祖先の名前を部族の名前の由来とする記述は、中世のキリスト教関係者による文献の特徴(エウヘメリズム)であり[注 5]、「ヴャチチ」とは大きい・大規模な、を意味するスラヴ祖語の語根のvęt-に基づくという説などの[11][12]、言語学的な立場の研究者による異論も見られる。
構成員に関しては、大多数の研究者は、ヴャチチ族という集団はバルト地方の部族・ゴリャヂ族を基層としていたとみなしている[9]。3 - 5世紀には、このオカ川上流域への殖民の先駆者によって、モシチナ文化(ru)が形成されていた。モシチナ文化は、住居や装飾品から、バルトの様式を持つ文化に含めることができる[7]。その後の、ヴャチチ族のオカ川流域への定住は6 - 8世紀とみなされている。一方ゴリャヂ族は10世紀半ば以降には特記されなくなるが、それはスラヴ民族への同化が終了したことを示唆している[13]。
定住の後、『原初年代記』によれば、9世紀から10世紀半ばのヴャチチ族は、シェリャーグ(おそらくは銀貨を指している。なお、シェリャーグはキエフ大公国でのディルハム銀貨に対する呼称でもある[14])をハザール・カガン国に貢納していた。この貢納はソハ(ru)(プラウ)1つにつき一定の額が定められていたが、それはヴャチチ族の居住地域が農業普及地帯であったことを示唆するものである[13](他の地域ではかまど(=各戸・各家族)を課税単位とした例もある)。9世紀にオレグがキエフを奪い、他の東スラヴ諸族(ポリャーネ族、スロヴェネ族 クリヴィチ族、ラジミチ族、セヴェリャーネ族、ドレゴヴィチ族、ドレヴリャーネ族)が承認した段階でも、未だヴャチチ族はキエフ大公国の中に支配下になかった。ヴャチチ族がキエフ大公国に組み込まれるのは、964年から966年、あるいは968年から969年の、キエフ大公スヴャトスラフ1世によるハザール制圧の後のことである。『原初年代記』966年の頁には、スヴャトスラフ1世がヴャチチ族に貢税(ダーニ)を課したという記述がみられる[15]。
ただし、キエフ大公国の政府がヴャチチ族を完全に従属化したわけではなく、981年に、スヴャトスラフ1世の子のウラジーミル1世がヴャチチ族を攻めている。ウラジーミル1世はヴャチチ族に税を課したが、ヴャチチ族は反乱を起こしたため、982年に再度制圧軍を送らねばならなかった。11世紀末まで、ヴャチチ族は一定の政治的独立性を保持しており[16]、史料には、時の大公によるヴャチチ族への遠征が記述されている。例えばウラジーミル2世による『モノマフ公の庭訓(ru)』には、「二冬続けてヴャチチ族の長・ホドタとその息子を攻めたが、彼らを捕えることはできなかった」という主旨の記述がある[17][注 6]。
12世紀のルーシ諸公の闘争の記述の中には、それ以前から建設されていたヴャチチ族の都市に関する記述がある。B.ルィバコフ(ru)によれば、ヴャチチ族の居住領域の中心都市はコリドノという名であり、現カルーガ州のコルノエ(ru)にあたるという[18]。
年代記上で、最後にヴャチチ族という名称が言及されるのは1197年の記述である。ヴャチチ族の地はチェルニゴフ公国、ロストフ・スーズダリ公国、リャザン公国の領域に編入された。