マアッラ攻囲戦

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マアッラ包囲戦(マアッラほういせん、英語: siege of Ma'arra)は、第1回十字軍の最中の1098年後半、現在のシリアに位置する都市マアッラト・アン=ヌウマーンで発生した包囲戦である。十字軍側によって広範な人肉食が行われたという主張・報告があることで悪名高い戦いとして知られる。

概要 マアッラ攻囲戦, 交戦勢力 ...
マアッラ攻囲戦
第1回十字軍

1098年、アンティオキア領内のマアラ要塞の陥落(19世紀の画家アンリ・ドゥケースヌ画)
戦争第1回十字軍
年月日1098年11月 - 12月
場所マアッラト・アン=ヌウマーン(マアッラ)
結果:十字軍の勝利
交戦勢力
十字軍 リドワーン総督英語版の領内の諸都市[1]
指導者・指揮官
レーモン伯
ボエモン公
ロベール伯
不明
戦力
不明 不明
損害
不明 市民20,000人程
第1回十字軍


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背景

トゥールーズ伯レーモン伯ターラント公ボエモンを含む第1回十字軍の兵士たちは、1097年10月にアンティオキア包囲戦を開始した[2][3]。同年12月、ボエモンとフランドル伯ロベール2世は食料を調達・略奪するために2万の兵を率いて周辺の農村地域へ向かったが、これにより手薄になったレーモン4世の陣営は、セルジューク帝国の指揮官でありアンティオキア総督であったヤギ・シヤーン英語版による反撃に晒されることになった[4]。1098年初頭までに、十字軍の間では広範囲にわたる飢餓が広がっていた[5]

1098年7月、レーモン4世の軍勢に属する騎士レイモン・ピレ・ダレス英語版が、南のダマスカスへと続く主要街道上の都市マアッラ(マアッラト・アン=ヌウマーン)に対する遠征を敢行した。しかし、彼の部隊は町を固めるはるかに大規模なムスリムの守備隊と遭遇し、多くの死傷者を出して敗退した[6]。その夏の残りの期間、十字軍は南進を続け、他の多くの小規模な町を占領し、11月に再びマアッラへと到着した。

包囲戦

1098年11月28日の朝、レーモン4世とロベール伯はマアッラへの突撃を試みたが、これは失敗に終わった。その日の午後にはボエモンも合流し、2度目の攻撃を試みたものの成果は上がらなかった[7]。先にレイモン・ピレの遠征を退けていたマアッラの市民たちは、当初は十字軍を恐れておらず、彼らを挑発した。また、冬が近づいており物資も乏しかった十字軍には長期戦に持ち込む余裕はなかったが、深い堀と強固な城壁で構成された都市の防御を突破することもできずにいた。

主に都市の民兵や戦闘経験のない市民からなる防衛側は、約2週間にわたって攻撃をしのぎ続けた[7]。十字軍側は、フランク人の総督を受け入れることと引き換えに、アラブ人住民の生命と財産の安全を保障するという降伏条件を提示する使者を繰り返し送ったが、これらの条件は拒否された[8]。十字軍はこの時間を利用して、城壁を乗り越えるための攻城塔を建設する一方、一部の騎士たちが都市の反対側にある防備の手薄な城壁をよじ登った[7]

12月11日、十字軍は攻城塔を用いて城壁の一角を破壊し、略奪を開始した。夜間は戦闘が一時的に収まったものの[9]、翌朝には凄惨な略奪が再開された。一部のムスリムはボエモンとの間で降伏交渉を行っていたが[9]、結果としてこれらの男たちは殺害され、女子供は奴隷として売り飛ばされた[10]。その一方でボエモンは戦利品の大部分を差し押さえた。しかし、都市の大半を実質的に制圧したのはレーモンの軍勢であったため、レーモンは同地をアルバラ司教ピエール英語版の領地であると主張した。1月13日にはたいまつを手にした十字軍がマアッラの家々に火をつけて回り、城壁のみならず町も完全に破壊された[11]。同日、エルサレム奪還に向けて再び南進を開始した[12]

人肉食

犠牲者の体を切り開く十字軍(13世紀の絵画)

包囲戦の最中、あるいはその後に、飢餓に苦しむ一部の十字軍兵士がムスリムの遺体を食べるという人肉食(カニバリズム)に手を染めた。この事実自体について深刻な疑いはもたれていない。なぜなら、十字軍運動の終結から20年以内に執筆され、少なくともある程度は目撃者の証言に基づいている10余りのキリスト教側の年代記において、この事件が認められているからである[13]。 十字軍による人肉食はアラブ側の史料にも簡潔に言及されており、そこでは飢え(「欠乏に苦しめられた」)が原因であると説明されている[14]

しかし、人肉食が具体的に「いつ」「なぜ」行われたのかについては、史料によって記述が対立している。包囲戦の最中に敵の肉が食べられたとする史料もあれば、都市が征服された後であったとする史料(こちらがわずかに多数派)もある[15]。もう一つの対立点はその動機に関するものであり、飢饉のために秘密裏に行われたのか、あるいは敵を震撼させ恐怖に陥れるために公然と目の前で行われたのか、という点である[16]

都市の陥落後、十字軍の指導者たちが征服した土地の分割方法について議論を交わしている間、軍勢は約1か月間現地に滞在した[17]。一連の年代記は、人肉食が包囲戦の終了後に発生し、完全に飢えが動機であったことを示唆している。この内容を伝える最も初期の文献である『ゲスタ・フランコルム英語版(フランク人の事績)』は、包囲戦の後の深刻な物資不足により、「死体の肉を細長く切り、食べるために調理する者たちもいた」と記している。ピエール・テュドボード英語版の年代記も同様の描写をしているが、食べられたのはムスリムのみであったという点を付け加えている[18]。『ゲスタ・フランコルム』を一部のベースとした他のいくつかの著作も同様の記述を含んでおり、一様にムスリムまたは「トルコ人」の肉だけが消費されたと述べている。そのうちの1つだけが「人肉が公然と取引されていた」と言及しているが、他の史料は人目の付かない場所で慎重に食べられたことを示唆している[19]

マアッラの現場に居合わせていたとみられるレイモン・ダギレール英語版も同様に、人肉食が包囲戦の後、かつ「飢饉のただ中」に発生したと述べている。しかし彼は、人肉は秘密裏に恥じるようにして食べられたのではなく、公衆の面前で「美味そうに(with gusto)」消費されたと付け加えている。彼は、これらの光景がムスリムを震撼させ、十字軍の決意と残虐性に恐怖を抱かせたと書き残しているが、この記述は、近隣のすべてのムスリムがすでに死亡しているか奴隷化されていた都市陥落後に発生したとする彼自身の説明とは、やや矛盾している[20]

これとは異なり、シャルトルのフルシェ英語版(十字軍の参加者であるがマアッラの現場にはいなかった)、アーヘンのアルベール英語版、そしてカーンのラウール英語版(両者とも十字軍参加者への聞き込みに基づいて執筆)による3つの記述は、人肉食が包囲戦の最中に発生したと述べ、それが恥ずべき隠されたエピソードではなく、一種の公開見世物であったことを示唆している[21]。ラウールは、「食料不足により人肉を食事とせざるを得なくなり、大人はシチュー鍋に入れられ、子供は串に刺されて炙られた。その両方が調理されて食べられた」と断言している[9][注釈 1]。彼はこの話を「この恥ずべき行為のまさに張本人たち」、すなわち食人を行った当事者たちから直接聞いたと主張している[24]。アルベールは、「キリスト教徒たちは、先述の不足に直面しても、自分たちが殺したサラセン人やトルコ人の遺体だけでなく、捕らえた犬の死体までも火で調理して食べることを恐れなかった」と書いており、犬を食べる方がムスリムを食べるよりも悪質であるかのように皮肉を込めて暗に示している[25]。フルシェは、包囲戦真っただ中であった時期に、多くの十字軍兵士が遺体から切り取った「サラセン人の臀部の肉」を調理し、「野蛮にも口をいっぱいに満たしていた」と述べている[26]

このように、複数の史料が人肉食の事実については一致しているものの、その時期と動機の双方に疑問が残されている。また、こうした行為がマアッラだけに限定されていたのか、あるいは第1回十字軍の期間中に他の場所でも発生していたのかという点についても、いくつかの記述がそれを疑わせている。特定の史料は、数か月前のアンティオキア包囲戦の際にも人肉食があったと描写している[27]。東ローマ帝国の皇女アンナ・コムネナは、それをさらに初期の民衆十字軍の時期の出来事として帰属させており、カーンのラウールと類似した方法で、「彼らは赤ん坊の一部を切り刻み、他の者を木の串に突き刺して火の上で焼いた」と描写している[28]

ギベール・ド・ノジャン英語版ギヨーム・ド・ティール、そして『アンティオキアの歌英語版』といった中世の解釈では、十字軍期間中の人肉食を「敵に恐怖を植え付けることを意図した」意図的な心理戦の一環として解釈している。これが事実であれば、事件は「その恐怖の副産物を目撃し、実感するだけのムスリムがまだ生存していた時期」、すなわち包囲戦の後にではなく、その最中に発生していなければならなかったことになる[29]

歴史家のジェイ・ルーベンスタイン英語版は、十字軍による人肉食に関する様々な記述を議論する中で、年代記作者たちが不快感を抱き、何が起きたのかを控えめに表現しようとしたため、事実と解釈の一部分のみを(しかも互いに一致しない形で)伝える傾向があったと指摘している[30]。彼はまた、ムスリムだけが食べられたという事実自体は、飢えだけが唯一の、あるいは主要な動機であったとする説とは矛盾すると指摘している。なぜなら、本当に絶望的な飢餓状態にある人々であれば、消費する対象の宗教をそれほど気にしなかったはずだからである[31]。彼は、マアッラの事件はおそらく「飢饉に対する周期的な反応の最も記憶に残る事例」に過ぎず、貧しく飢えた人々が死体を隠れて食べるという行為を超えたものであったと結論づけている。むしろ彼は、「一部の兵士がその潜在的な有用性(恐怖の兵器としての役割)を認識し、防衛側を迅速な降伏に追い込むことを期待して、食人の様子を見せ物にし、確実にムスリムだけが食べられるように計らったのであろう」と推測している[30]

歴史家のトーマス・アスブリッジ英語版は、「マアッラでの人肉食は第1回十字軍が犯した最も悪名高い暴挙の一つ」であるとしつつも、それが「十字軍の短期的な見通しに対していくつかのプラスの効果」をもたらしたと述べている。マアッラやアンティオキアにおける彼らの残虐行為の報告や噂は、「多くのムスリムの指揮官や守備隊に、十字軍が血に飢えた野蛮人であり、抵抗不可能な無敵の狂戦士であると確信させた」。その結果、彼らの多くは「戦闘でフランク人と対峙するよりも、多大な代償を伴う屈辱的な休戦を受け入れる」道を選んだ[32]

タフールの役割をめぐる論争

一部の年代記作者や後代の複数の史料は、マアッラでの人肉食の責任を、厳格な清貧の誓いを立てていた十字軍の中の一派タフール英語版に帰している。近現代においても、一部の研究者はタフールを食人行為の主な加害者として特定し続けている[33]。ギベール・ド・ノジャンは、食人行為を明確にタフールによるものであるとした最初の人物であり、同時にそれを重視せず、それが起きたとしても秘密裏のことであったとしるした[34]。しかし、後代の『アンティオキアの歌』では、タフールは「アンティオキアの城壁のすぐ外でサラセン人の遺体を串に刺して焼き」、防衛側を驚愕させる狂信者として再登場する[35]。ルーベンスタインは、一部の年代記作者が「食人行為の責任を貧困層に押し付けたいという願望を持っていたことが、タフールの神話を生み出すことにつながった」と結論づけている[36]。そして、この神話が後世に定着した理由は、武装した英雄的な十字軍の騎士たち自身から人肉食という不快な記憶を切り離し、それを武器を持たない貧しい後方支援の集団に全面的に帰すのに役立ったからであるとしている[37]

現代の歴史家の中では、アミン・マアルーフがこのタフール説を支持したことで最もよく知られている。

マアッラ地域の住民は、あの不吉な冬の間、飢えだけでは説明のつかない行動を目撃した。例えば、彼らは狂信的なフランク人(フランジ)であるタフール一派が、サラセン人の肉を噛み砕くと公然と宣言しながら田舎を徘徊し、夜の野営地の周りに集まって獲物を貪り食うのを見たのである。[38]

マアルーフはまた、マアラでの出来事がアラブ人の目における十字軍の否定的なイメージを形成する決定打となったと指摘している。「彼らは3日間にわたって人々を剣にかけ、10万人以上の人々を殺害した」とあるアラブの年代記作者は記している。都市全体の人口がおそらく1万人未満であったことを考えるとこれは大幅な誇張であるが、この記述はイスラム世界に深い衝撃を与えた暴力の規模を示しており、さらに征服者の食料となるという犠牲者の遺体の「ほとんど想像を絶する運命」は、それ以上に深い衝撃を与えた。これらの事件の後、アラブやトルコの史料において「フランジ」は、残虐な「獣」や「食人種」として頻繁に登場するようになる[39]

ルーベンスタインは、「アラブの歴史家たちがマアッラを恐ろしい虐殺の舞台として記憶している」という点ではマアルーフに同意しているが、アラブ人の間でカニバリズムの恐怖が「口承」によって保存されたとするマアルーフの主張については、「おそらく議論のためのまやかしである」と批判し、人肉食を記録・文書化したのはアラブ側ではなくキリスト教側の年代記作者であり、タフールを明確に非難したのもアラブ人ではなく彼ら(キリスト教徒)の一部であったと指摘している[40]。カリーヌ・ブルジェ(Carine Bourget)は、20世紀の主要な十字軍の記述において人肉食のエピソードを過小評価したり完全に省略したりする傾向があるというマアルーフの指摘に同意しつつも[41]、彼が自らの「狂信」仮説を強化するために、人肉食に言及しそれを飢えが原因であると説明している唯一のアラブ側史料に触れていない点については、別の形の「歴史の書き換え」を行っていると非難している[14]

注釈

  1. ラウールが書いた『ゲスタ・タンクレーディ』(en:Gesta Tancredi)には次のようにある。
    ある者によれば、彼らは食糧不足のためやむなく、異教徒の大人を鍋で煮て、子供は鉄串に突き刺してあぶり焼いて貪り食った[9]
    またフルシェも、『エルサレムへの巡礼者の事績』(en:Historia Hierosolymitana)でこの事件について次のように書く。
    これを語るには身震いがする。わが民の多くが、あまりにも過酷な飢えによる狂気にさいなまれ、死んでいるサラセン人たちから尻肉を切り取って刻み調理をした。しかしまだ肉に充分火の通っていないうちに、獰猛な口で貪り食ったのだ[22]
    次いで、アルベールはこう書く。
    キリスト教徒は殺したトルコ人やサラセン人を食べるに躊躇しなかったのみならず、イヌまで食べた (ラテン語: Nam Christiani non solum Turcos vel Sarracenos occisos, verum etiam canes arreptos(...)[23][11]

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

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