アンティオキア攻囲戦
第1回十字軍中の包囲戦
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アンティオキア包囲戦(アンティオキアほういせん)は、第1回十字軍の最中の1097年から1098年にかけて、十字軍がシリアを経由してエルサレムへ向かう途上で行われた包囲戦である。この包囲戦では、2度に渡る包囲戦が連続して発生した。十字軍はセルジューク朝支配下の要衝都市アンティオキアを1097年10月20日[11]から1098年6月3日まで包囲し、その日に十字軍は都市の占領に成功した。続いてセルジューク朝の救援軍がアンティオキアを制した十字軍を6月下旬から3週間にわたって逆包囲した。第2次包囲戦は、十字軍とケルボガ率いる後詰軍勢との決戦に至り、十字軍が後詰を返り討ちにして決着した。その後、ボエモン公がアンティオキアの領有を宣言し、史上2つめの十字軍国家であるアンティオキア公国が建国された[12]。
変化
- 十字軍によるアンティオキアの占領
- アンティオキア公国の建国
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アンティオキア(現在のアンタキヤ)は、十字軍がアンサリヤ山脈を越えてユダヤ地方へ向かうルート上の戦略的要衝に位置していた。この都市を押さえることで、兵站補給、増援、および退路のすべてを制御することが可能であった。攻撃を予期していたセルジューク朝のアンティオキア総督ヤギー・シヤーンは、食料を蓄積し、周囲へ救援要請を送り始めた。都市を取り囲むビザンツ時代の城壁は占領への恐るべき障害であったが、十字軍の指導者たちはアンティオキアを包囲せざるを得ないと考えた。
十字軍は10月21日に都市の郊外に到着し、包囲を開始した。守備隊は12月29日に出撃を試みたが失敗に終わった。周辺地域の食料を浚い尽くした十字軍は、より遠方まで補給を探しに出ることを余儀なくされ、待ち伏せの危険に身をさらした。12月31日、2万人の十字軍部隊がアンティオキアへ向かっていたダマスカスの統治者ドゥカーク率いる救援軍と遭遇し、これを撃破した。包囲が長期化するにつれて補給は底を突き、1098年初頭には十字軍の7人に1人が飢餓で死亡する事態となり、脱走者が相次ぎ始めた。
続いて、ドゥカークの兄弟であるアレッポ総督リドワーンが率いる第2の救援軍がアンティオキアを目指して進軍し、2月9日に到着した。この軍勢も、以前のドゥカークの軍と同様、撃破された。アンティオキアは6月3日に陥落したが、内側の第2の砦にはまだ守備隊が立てこもり交戦を続けていた。モスルのアタベクであるケルボガが、アンティオキアを占拠した十字軍に対する包囲を開始し、これは1098年6月7日から28日まで続いた。この第2次包囲戦は、6月28日に十字軍が都市から打って出てケルボガの軍勢に決戦を挑み、これを撃破したことで終結した。トルコ軍の敗走を目撃した内城の防衛部隊も降伏した。
背景
アンティオキア包囲戦および第1回十字軍に関する当時の史料はいくつか存在する。叙述的な記録としては、シャルトルのフールシェ、ペトルス・トゥデボドゥス、アギレールのレーモン、そして作者不詳の著作『フランク人の事績』の4つが挙げられる。十字軍に関する、あるいは十字軍から送られた9通の手紙が現存しており、うち5通は包囲戦の最中に、もう1通は都市占領から間もない9月に執筆されたものである。
史料は豊富にあるものの、十字軍参加者の正確な人数は不明である。これは参加者が常に変動していたことや、兵士たちに大勢の非戦闘員(巡礼者)が随伴していたためである。歴史家のジョナサン・リリー=スミスによる概算では、1097年6月のニカイア包囲戦にはおそらく約43,000人(兵士、武装した貧民、非戦闘員を含む)が関与していたのに対し、1099年7月のエルサレム包囲戦に参加したのは15,000人ほどであった可能性があると示唆されている[13]。
オロンテス川流域の斜面に位置するアンティオキアは、3.5平方マイル以上の面積を占め、400の塔がそびえる城壁に囲まれていた。川は北壁に沿って流れた後、北西から都市に進入し、都市の北半分を通り抜けて東へ流れていた。城壁より内側の第2の砦がそびえるシルピウス山はアンティオキアの最高地点であり、谷底から約1,000フィート(約300メートル)の高さがあった。都市には6つの門があり、北壁に3つ、南、東、西の各側に1つずつが配置されていた[要出典]。谷の斜面により南・東・西側からの接近は困難であったため、大人数の軍勢にとって最も現実的な進入路は、地勢が平坦な北側からであった。都市の防衛施設は6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の治世に遡る。それから1097年に十字軍が到着するまでアンティオキアの支配者は二度交代したが、戦を決着させた原因は、いずれも防衛の不備というよりは守備側の裏切りによるものであった[14]。
ビザンツ帝国がアンティオキアを奪還した969年以降、周辺地域での要塞建設が進められ、その一環としてアンティオキアのシルピウス山に内城が築かれた。下方の都市から隔絶した高所にあったこの城について、歴史家のヒュー・ケネディは「その主要な防衛手段として、接近の困難さを利用していた」と評している[15]。1085年にセルジューク朝の手に落ちた際、アンティオキアはシリアにおけるビザンツ帝国の最後の要塞となっていた[16]。ヤギー・シヤーンは1087年にアンティオキア総督に任命され、1097年に十字軍が到着した時もその地位にあった[17]。
ヤギー・シヤーンは、1097年に十字軍がアナトリアを横断して進軍してくるのを察知していた。この都市は十字軍とパレスチナの間に立ちはだかる要衝であった[18]。トルコ人の統治下にあったが、アンティオキアの住民の多くはキリスト教徒であった[17]。ヤギー・シヤーンは当初、キリスト教徒の住民に対して寛容であったが、十字軍が接近すると態度を硬化させた。到着に備え、彼はアンティオキア総大司教であるヨハネス7世オクシテスを投獄し、カッシアン教会を厩舎に変え、多くの有力なキリスト教徒を市外へ追放した。ヤギー・シヤーンは各方面へ救援を要請した。アレッポのリドワーンからは個人的な敵対関係を理由に拒絶されたが、他の有力者たち(ダマスカスのドゥカーク、トゥグテキーン、ケルボガ、バグダードとペルシアのスルタン、そしてホムスのエミールたち)は援軍の派遣に同意した。並行して、ヤギー・シヤーンは包囲戦を見越して物資の蓄積を開始した[18]。
アンティオキアの攻略が必要不可欠であると知っていた十字軍の指導者たちは、その方法を検討した。アナトリアを越える長い道中で兵力が消耗していたため、指導者たちは春に増援が到着するまで総攻撃を見送ることも考えた。十字軍のビザンツ顧問タティキオスは、968年にビザンツ軍がアンティオキアを占領した際と同様に、約12マイル離れたバグラスに陣を張り、通信線を遮断して封鎖を行う戦術を提案した[19]。トゥールーズ伯レーモン4世のみが都市への強襲を主張したが[20]、最終的に十字軍はアンティオキアに向けて進軍し、市壁の至近に陣を構えて包囲戦を開始する道を選んだ[19]。
第1次包囲戦
包囲の開始
包囲戦を本格的に開始するにあたり、3つの重要な地点の制圧が不可欠であった。それはアルタの町、オロンテス川に架かる鉄の橋、そして聖シメオン港である[21]。アルタの街は、ユーフラテス川とオロンテス川の各流域を結ぶ主要なルート上に位置し、さらにはアパメア、アレッポ、アンティオキアをつなぐ戦略的要衝であった[22]。フランドル伯ロベール2世率いる十字軍の分遣隊がアルタ奪取のために派遣されたが、現地のアルメニア人住民がすでにトルコ人の守備隊を追い出しており、ロベール伯と彼の軍勢に兵士や軍馬のための物資を提供するとともに彼らを歓迎した[23]。その後、ヤギー・シヤーンはアルタ奪還のために軍を派遣したが、十字軍の主力軍が到着したのを見て撤退した[23]。
1097年10月20日、十字軍はアンティオキアから12マイル離れたオロンテス川の要塞化された渡り場「鉄の橋」に到達した。フランドル伯ロベール2世と、アデマール司教が橋への突撃を指揮し、軍の進路を切り開いた。ボエモン公は前衛部隊を率いて川の南岸に沿って10月21日にアンティオキアへ向かい、十字軍は都市の北壁外側に陣を布いた[19]。十字軍はいくつかのグループに分かれた。ボエモンは城壁北東端近くの聖パウロ門の外に陣営を張り、そのすぐ西側にヴェルマンドワ伯ユーグ、ノルマンディー公ロベール、フランドル伯ロベール、ブロワ伯エティエンヌが続いた。アデマールとレーモン伯は、オロンテス川が防衛線を突き抜ける地点の両脇、犬の門(Dog Gate)の外側に布陣した。ゴドフロワ・ド・ブイヨンは城壁北西の公爵の門(Duke's Gate)の西側に駐屯した。この時点でアンティオキア西壁外側のオロンテス川の橋は、依然としてヤギー・シヤーンの支配下にあった[24]。後に続く9か月間の包囲戦は、「この時代における大包囲戦の一つ」と評されている[25]。

史料は、直接的な総攻撃を行っていれば失敗していただろうという点に力点を置いている[26]。例えば、アギレールのレーモンは、レーモン4世の司教が「(アンティオキアは)極めて強固に要塞化されているため、攻城兵器による攻撃も人間の突撃も恐れる必要はない。仮に全人類が結集して立ち向かったとしても同様である」と述べたと記録している[27]。シャルトルのフールシェによれば、指導者たちは都市が降伏するまで包囲を維持することを決意した[26]。アギレールのレーモンは、守備側の兵力について「都市には2,000人の最精鋭騎士、4,000人から5,000人の一般騎士、さらに1万人以上の歩兵がいた」と記している[28]。
都市のあまりに近くに布陣したことは、包囲側を守備隊による出撃や飛び道具の標的となるリスクにさらすこととなった。包囲の最初の2週間、防衛側が城壁の安全な内側に留まることを選んだため、十字軍は周辺地域で略奪を行うことができた[29]。しかし11月、ヤギー・シヤーンは十字軍が総攻撃では都市を落とせないと判断していることを察知し、防衛戦から包囲軍を悩ませる戦術へ切り替えた[30]。彼は騎兵を動員して包囲軍を襲撃し始めた。至近の食料が浚い尽くされたため、十字軍の略奪部隊はより遠方へ補給を探しに出る必要が生じ、待ち伏せに対して脆弱になり、幾度となく近隣要塞の守備隊による攻撃を受けた[29]。ヤギー・シヤーンの部下たちは、犬の門外側の犬の橋(Dog Bridge)を利用して十字軍を嫌がらせした。アデマールとレーモンの部下たちが橋の破壊を試みたが、防衛側の飛び道具の応戦を受け、強固な構造物にほとんど打撃を与えられなかった。その後、可動式のシェルターで自らの体を隠しつつ、橋を破壊しようとする試みもなされたが、守備隊の出撃によって撃退された。結局、十字軍は敵の出撃を阻止するために橋を封鎖することにした[31]。
地中海沿岸の聖シメオン港は、アンティオキアから西へ9マイルの地点にあり、十字軍にとって増援の窓口であった。アギレールのレーモンは、十字軍が到達する前にイングランド人が港に上陸したと述べているが、聖シメオンの制圧をめぐる戦闘があったかどうかは記録していない。11月17日、13隻のジェノヴァ船が聖シメオンに到着した。アンティオキアから聖シメオンへのルートは敵の城壁に近く、補給線は守備隊によって妨害されるリスクがあったが、ジェノヴァ人は残りの十字軍と合流した[32][33]。ジェノヴァの年代記作家カッファロによれば、彼らは聖シメオンからアンティオキアへの移動中に多大な犠牲を払ったという[34]。ボエモンの軍勢は、聖パウロ門の外側に、敵からの飛び道具を防ぐための対塁を築いた。「マルルガール(Malregard)」として知られるこの砦は、丘の上に建てられた土塁であったと考えられる[34][35]。さらにタンクレードが続けて到着し、ボエモンの西側に陣営を設けて十字軍による包囲網は強化された[20][24]。
冬
12月に十字軍の食料供給が危機的なレベルに達する中[34]、指揮官の1人ゴドフロワが病に倒れた。12月28日、ボエモンとフランドル伯ロベールは約2万人の兵を率い、食料と戦利品を求めてオロンテス川上流へ略奪に出発した。十字軍の戦力が分断されたことを知ったヤギー・シヤーンは、12月29日の夜を待って出撃した。彼は川向こうのレーモン伯の陣営を攻撃したが、不意を突かれたレーモンは体勢を立て直し、ヤギー・シヤーンの軍勢を押し戻した。レーモンは攻撃を完全に逆転させることにあと一歩まで迫り、橋を渡って反対側に足がかりを確立し、都市の門を開けたまま保持するまでに至った。十字軍が都市を占領する勢いを見せたその時、1頭の軍馬が騎手を失い、結果、暗闇の中で生じた混乱により十字軍はパニックに陥って橋を渡って撤退し、セルジューク軍の追撃を受けた。こうして膠着状態が回復し、双方が損失を被った[36]。

レーモンが出撃してきたアンティオキア守備隊を撃退している間、ダマスカスの統治者ドゥカーク率いる軍勢がアンティオキアを救援するために進軍中であった。ボエモンとフランドル伯ロベールは、自分たちの略奪部隊がドゥカークの軍勢に向かっていることに気づいていなかった。12月30日、ドゥカーク軍がシャイザールに滞在していた際、十字軍が近くにいるという情報が届いた。12月31日の朝、ドゥカークはボエモンとロベールの軍勢に向けて進軍し、両者はアルバラの村で遭遇した。ロベールがボエモンの先を行軍していたため、真っ先にドゥカークの軍と接触した。ボエモンが合流して戦闘に加わり、ロベールとともにドゥカーク軍を撃退して甚大な損害を与えた。ドゥカーク軍はハマへ撤退したが、十字軍も多くの犠牲者を出したためそれ以上の略奪を継続することができず、アンティオキアへと帰還した[37]。この戦闘の結果、十字軍は食料として集めていた家畜を失い[29]、必要量以下の食料しか持ち帰ることができなかった[38]。
この月は双方にとって不吉な形で終わった。12月30日には地震が発生し、続く数週間は季節外れの悪天候と寒さに見舞われたため、ドゥカークはそれ以上の交戦を行わずに帰国せざるを得なかった[38]。十字軍は雨と地震を神の恩寵を失った兆候と恐れ、略奪などの罪を贖うため、アデマール司教は3日間の断食を命じた。いずれにせよ、この時期に補給は危険なほど底を突き、間もなく7人に1人が飢餓で死亡する事態となった[37]。
地元のキリスト教徒が食料を運んできたものの、彼らは法外な価格を要求した。飢饉は軍馬にも影響を及ぼし、間もなく700頭しか生存しないまでに至った[38]。十字軍が受けた影響の程度を正確に測定することは困難だが、12世紀の歴史家エデッサのマタイによれば、包囲戦中に5人に1人の十字軍士が飢餓で死亡し、貧しい兵士ほど状況は過酷であったと考えられる[39]。飢饉は士気を損ない、1098年1月には隠者ピエールや勇猛さで知られたムラン副伯ギヨーム・ル・シャルパンティエといった人物を含む騎士や兵士たちの脱走が始まった。これほどの有力者の脱走を聞き、ボエモンは部隊を派遣して彼らを連れ戻した。ピエールは赦されたが、ギヨームは叱責され、十字軍から離れないという誓いを立てさせられた[40]。
春
2月。春の訪れとともに十字軍の食料事情は改善した[41]。その月、東ローマ帝国の指揮官タティキオスは、遠距離からの封鎖に依拠すべきだという以前の助言を繰り返したが、彼の提案は無視された[41]。その後、彼は軍を離れて帰国した。タティキオスは自身の帰国の理由として、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスに対し、十字軍側が『アレクシオス帝が秘密裏にセルジューク朝を支援していると信じており、自分を殺害する計画があることをボエモンから告げられたため』だと説明した。ボエモンの側近たちは、これが裏切り、あるいは臆病な行為であり、アンティオキアをビザンツ帝国に返還するといういかなる義務をも破るに十分な大義名分であると主張した。セルジューク朝の軍勢が接近しているという報せが届くと、ボエモンはこの状況を自身の有利になるよう利用した。彼は、都市が占領された際にアンティオキアを自分の領地として保持することが許されないのであれば、自身は離脱すると宣言した[42]。ボエモンが都市を自らのものにする野心を抱いていること、そしてこれを容易にするためにタティキオスの離脱を仕組んだ可能性が高いことを完全に知りながらも、ゴドフロワとレーモンは彼の要求に屈しなかったが、ボエモンは下位の騎士や兵士たちの同情と協力を獲得した[要出典]。
ヤギー・シヤーンはこの時には既にアレッポのリドワーンと和解しており、進軍してくる軍勢は彼の指揮下にあった[43]。2月初旬、リドワーンがアンティオキア近辺のハーリムを占領し、そこからアンティオキアへ進軍する準備を進めているという報せが包囲側に届いた。ボエモンの提案により、十字軍は(約700人の騎士からなる)すべての騎兵を派遣して進軍してくる敵軍を迎え撃つこととし、アンティオキアの防衛側が出撃してきた場合に備えて歩兵部隊を背後に残した。2月9日の朝、リドワーンは鉄の橋に向けて移動した。十字軍は前夜のうちに配置に就いており、敵軍が橋に到達する前に突撃を仕掛けた。最初の突撃はわずかな犠牲を出したにとどまったが、リドワーンの軍勢は十字軍を狭い戦場へと追った。一方を川、もう一方をアンティオキア湖に挟まれたため、リドワーンは十字軍の側面を突くことができず、自軍の数の優位性を活かすことができなかった。2回目の突撃はより大きな打撃を与え、セルジューク軍は混乱に陥って撤退した。同時に、ヤギー・シヤーンは守備隊を率いてアンティオキアから出撃し、十字軍の歩兵部隊を攻撃していた。彼の攻勢は騎士たちが帰還するまで包囲側を押し戻していた。リドワーンが敗北したことを悟ると、ヤギー・シヤーンは都市の内側へと退却した。リドワーンの軍勢がハーリムを通過する際、彼がそこに配置していた守備隊にパニックが広がり、彼らは町を放棄したため、同地は十字軍によって奪還された[44]。
オルデリック・ヴィタリスによれば、イングランド王位を主張するウェセックス家のイングランド王族エドガー・アシリングに率いられたイングランドの艦隊が、3月4日にビザンツ帝国からの物資を積んで聖シメオン港に到着した。歴史家スティーヴン・ランシマンもこの主張を繰り返しているが、この艦隊がどこから発したのかは不明であり、エドガーの指揮下にあったわけではないと考えられる。いずれにせよ、艦隊は攻城兵器を建設するための原材料を運んできたが、港からアンティオキアへの移動中に守備隊の一部が突撃してきたため、これらの物資は危うく失われるところであった。ボエモンとレーモンが物資を護衛していたが、一部の資材と100人の人員を失った後、彼らはアンティオキア外側の十字軍野営地へと退却した[45]。ボエモンとレーモンが到着する前、彼らが殺害されたという噂がゴドフロワのもとに届き、彼は生存している護衛部隊を救出するために部下を準備させた。しかし、伏兵としての役割を終え、城内に帰還する兵士を援護するために、都市から別の部隊が出撃してきたため、彼の注意はそらされた。ゴドフロワはボエモンとレーモンが救援に駆けつけるまで、なんとか攻撃を持ちこたえることができた[46]。その後、再編成された軍勢は、アンティオキアの城壁内側に到達する前の守備隊に追いついた。この反撃は十字軍にとって好機となり、アンティオキア防衛側の兵士1,200人から1,500人を討ち取ることに成功した[45]。十字軍は攻城兵器の建設に本格的に着手したほか、「ラ・マオメリー(La Mahomerie)」と呼ばれる砦を建設して橋の門(Bridge Gate)を封鎖し、ヤギー・シヤーンが聖シメオン港やアレクサンドレッタの港からの十字軍の補給線を攻撃するのを防いだ。同時に、依然として都市に食料を届けるために使用されていた、聖ジョージ門の西側にある放棄された修道院を修復した。タンクレードは400銀マルクでこの修道院(年代記では「タンクレード砦」と言及される)の守備隊を引き受け、一方でレーモンはラ・マオメリーの制御を担った。これにより、強固に防衛された都市に対して、包囲戦はようやく一定の効果を及ぼすことが可能となった。春が近づくにつれて十字軍の食料事情は改善し、都市は襲撃側から完全に封鎖された[要出典]。
ファーティマ朝の使節団
4月、ファーティマ朝からの使節団がエジプトから十字軍野営地に到着し、キリスト教徒との和平を望んだ。これはファーティマ朝がセルジューク朝の宿敵であったためである。隠者ピエールが交渉のために派遣された。しかしこれらの交渉は何の結果ももたらさなかった。ファーティマ朝側は、十字軍を単にビザンツ帝国の傭兵代理人とみなしており、もし彼らがファーティマ朝領のパレスチナを攻撃しないことに同意するのであれば、十字軍がシリアを保持することを容認する用意があった。これはトルコ人の侵攻以前におけるエジプトとビザンツ帝国の間で受け入れられていた情勢であった。しかし十字軍側は、エルサレムの領有を含まないいかなる合意も受け入れることができなかった。それにもかかわらず、ファーティマ朝の使節は歓待され、3月に撃破されたセルジューク軍から略奪した多くの贈り物が与えられたが、決定的な合意に達することはなかった[47]。一方でこの交渉は、十字軍に外交の重要性を教えることとなり、彼らはダマスカスのドゥカークに使節を送り、彼の領土に対する野心はないと述べて中立を求めることを決定した。しかし彼らはドゥカークによって拒絶された[48]。
アンティオキア占領

包囲戦は継続され、同時に1098年5月末、モスルからケルボガ指揮下のセルジューク軍でアンティオキアに接近した。この軍勢は、包囲を解こうとしたこれまでの試みよりもはるかに大規模であった。ケルボガはリドワーンやドゥカークと合流しており、彼の軍勢にはペルシアやメソポタミアのアルトゥク朝からの部隊も含まれていた。しかし十字軍にはケルボガの到着に備える時間が与えられた。なぜなら、先に十字軍から離脱し、1098年3月に自身の領国をエデッサに建国していたボードゥアン・ド・ブローニュがケルボガ軍の第一の標的となり、ケルボガ軍がアンティオキアまでの道中に、エデッサの奪還を目論み3週間にわたって遠征を行っていたためである[49]。


十字軍は、この遠征で生き残るためにはケルボガが到着する前に都市を占領しなければならないという結論に達した。数週間前、ボエモンは「二人の姉妹の塔(Tower of the Two Sisters)」の守備を担っていたアルメニア人守衛で、都市の内側にいたフィルーズという人物と秘密裏に連絡を取っていた[50]。フィルーズの動機はボエモンにとっても不明確であり、おそらく貪欲さか復讐心によるものであったが、彼は金銭と称号と引き換えにボエモンを都市内部に引き入れることを申し出た[50]。ボエモンはその後、他の十字軍士たちにアプローチし、もし彼らが自分がアンティオキアの公になることに同意するのであれば、フィルーズを通じて都市への進入路を提供すると申し出た[50]。レーモンは激怒し、1097年にコンスタンティノープルを出発した際に合意した通り、都市はアレクシオスに引き渡されるべきだと主張したが、ゴドフロワ、タンクレード、ロベール公、およびその他の指導者たちは、何としてでも早く都市を攻め落とさなければならないという絶望的な状況に直面していたため、ボエモンの要求に屈した[50]。
それにもかかわらず、6月2日にエティエンヌと一部の他の十字軍が軍を脱走した。同日の後半、フィルーズはボエモンに対し、表向きはケルボガと対峙するために山を越えて南へ進軍するふりをし、その後夜間に引き返して、フィルーズが見張りを務める二人の姉妹の塔で城壁をよじ登るよう指示した。フィルーズは(ボエモンを含む)少数の十字軍の分遣隊が塔をよじ登るのを許可し、彼らが近くの勝手口の門を開けたことで、近くの岩陰に隠れていたより大規模な兵士の部隊が都市に進入して、警戒していた守備隊を圧倒することが可能となった[50]。ボエモンが内城を占領しようと試み[51]、残りの十字軍の兵士が残存するトルコ人の防衛部隊と戦っている間、より貧しい十字軍士たちは無秩序な方法であらゆるものを略奪した[52]。それに続く混乱の中で、アルメニア人とギリシャ人は十字軍に加わって見つけられる限りのトルコ人と戦ったが、その死亡者にはフィルーズ自身の兄弟を含む、多くのトルコ系ではない一般市民も含まれていた[51][50]。ヤギー・シヤーンは逃亡したものの、都市のかなり外側でアルメニア人およびシリア人のキリスト教徒に捕らえられ、彼の切り落とされた首がボエモンのもとへ届けられた[50]。
第2次包囲戦

6月3日の日の終わりまでに、十字軍はヤギー・シヤーンの息子シャムス・アド=ダウラの手に残されていた内城を除く、都市の大部分を制圧した。アデマール司教は、特にボエモンが明らかに都市を自身のものとして領有を計画していたため、ビザンツ帝国との良好な関係を維持することを望み、ヨハネス7世オクシテスを総大司教に復職させた。しかし、都市は食料が不足しており、ケルボガの軍勢は依然として進軍中であった。ケルボガは6月5日に到着した。彼は6月7日に都市を強襲しようとしたが失敗し、6月9日までに都市の周囲にみずからの包囲網を展開した[53]。
ケルボガが到着する前にさらに多くの十字軍士が脱走しており、彼らはタルススで脱走諸侯の1人エティエンヌ伯と合流した。エティエンヌはケルボガの軍勢がアンティオキア近郊に布陣しているのを目撃しており、すべての希望は失われたと考えていた。脱走者たちは彼の懸念を裏付けた。コンスタンティノープルへの帰還の途中、エティエンヌ伯やギヨーム副伯のような他の脱走者たちはアレクシオス帝と遭遇した。皇帝は十字軍を支援するために進軍中であり、彼らがすでに都市を占領しており、現在は逆に敵に包囲されていることなど知らなかった。エティエンヌは彼に対し、残りの十字軍は死んだも同然であると確信させ、またアレクシオスも偵察からアナトリアの近くに別のセルジューク軍がいるとの報せを得ていた。そのため彼は、戦闘のリスクを冒すよりもコンスタンティノープルへ帰還することを決定した[53]。
聖槍の発見

アンティオキアにおいて、フランス南部出身の司祭ペトルス・バルトロメオは6月10日、聖アンデレの幻視を見たと主張し、聖槍が都市の内部にあると告げられたと報告した[54][55]。飢えに苦しむ十字軍士たちは幻視や幻覚を見がちであり、ヴァランスのステファンという別の修道院長もキリストと聖母マリアの幻視を報告していた[53]。6月14日には流星が敵陣に落ちるのが目撃され、吉兆と解釈された[55]。アデマールはコンスタンティノープルで聖槍の聖遺物を目撃していたため懐疑的であったものの[55]、レーモンはピエールを信じた。レーモン、アギレールのレーモン、オランジュ司教ウィリアムらは6月15日に聖ペテロ大聖堂で発掘を開始した。何も出なかった際、ピエールが自ら穴に降り、槍の穂先を取り出した[55]。レーモンはこれを存続の神の兆候と受け止め、降伏ではなく最終的な戦いに向けて準備を整えた。ピエールは続いて別の幻視を報告し、聖アンデレが十字軍に対し「5日間の断食」を経れば勝利すると告げたと述べた[56]。
ボエモンも聖槍に対して懐疑的であったが、その発見が十字軍の士気を高めたことは否定できない。ピエールが発見した品は、実際に現地の住民が聖槍であると信じていた物体であった可能性も示唆されている。なぜならギリシャ正教の史料は、早ければ10世紀の時点でアンティオキアにおける聖槍の所蔵と崇敬を記録しているからである[57]。ピエールがボエモンの望む通りの報告をしていた可能性もある。ボエモンはケルボガ陣営のスパイから、様々な派閥が頻繁に互いに争っていることを知っていたからである。ケルボガは実際に、ほとんどのエミールからシリアにおける主権を渇望していると疑われており、キリスト教徒の侵略者よりも彼らの利益に対する大きな脅威とみなされることが多かった[58]。6月27日、隠者ピエールがボエモンによってキルボガとの交渉のために派遣されたが、これは無駄に終わり、セルジューク朝との決戦は不可避となった[59]。ボエモンは6つの部隊を編成した。ボエモン自身が1部隊を指揮し、他はヴェルマンドワ伯ユーグとフランドル伯ロベール、ゴドフロワ、ロベール公、アデマール司教、そしてタンクレードとガストン副伯が指揮した。病に倒れていたレーモン伯は200名を率いて市内に残り、ケルボガの家臣であるアフマド・イブン・マルワーンが守る内城を監視した[要出典]。
アンティオキアの戦い

6月28日の月曜日、十字軍は都市の門から姿を現し[53]、アギレールのレーモンが彼らの先頭で聖槍を掲げた。ケルボガは将軍たちの懇願を退けて躊躇し、十字軍を部隊ごとに各個撃破するのではなく、一度に殲滅することを望んだが、敵の規模を過小評価していた。彼は十字軍をより険しい地形へと引き込むために撤退するふりをし、その間、弓兵が前進する十字軍に向けて絶え間なく矢を浴びせた。十字軍の左翼(川によって保護されていなかった側)へ分遣隊が派遣されたが、ボエモンは素早く第7の部隊を形成して彼らを撃退した。セルジューク軍はアデマール司教の旗手を含む多くの死傷者を出させており、ケルボガは自身の陣地と十字軍の間の草地に火を放ったが、これは十字軍の進撃を止めるには至らなかった。彼らには、聖ゲオルギウス、聖メルクリウス、そして聖デメトリウスという3人の聖人がともに騎乗して戦う幻視が見えていた。戦闘は短時間で終わり、セルジューク軍にとって破滅的な結果となった。ドゥカークがケルボガを見捨て、ソクマーンやホムスのエミールも同様に離脱したことで、トルコ軍の圧倒的な数的な優位性は失われた。間もなく、敗北したセルジューク軍の部隊はパニックに陥って退却した[60][61]。
戦後の影響

ケルボガが逃亡すると、内城の守備兵はレーモン伯にではなく、ボエモン公個人に対して降伏した。これは、レーモン伯の知らぬところで事前に取り決められていたようである。予想通り、ボエモン公は都市を自身のものとして領有を主張したが[53]、アデマール司教とレーモン伯はこれに同意しなかった。ヴェルマンドワ伯ユーグとエノー伯ボードゥアン2世が使者としてコンスタンティノープルへ派遣されたが、ボードゥアン伯は途中で待ち伏せに遭い消息を絶った[62]。しかし、アレクシオス帝は夏の終わりというこの時期に、アンティオキアを奪還するための遠征軍を送ることには関心を示さなかった。ボエモンは、これを「アレクシオスが十字軍を見捨てた」とみなし、彼に対する宣誓は無効になったと主張した。ボエモンとレーモンはヤギー・シヤーンの宮殿を占拠したが、都市の大部分はボエモンが掌握し、内城には自身の旗を掲げた。北フランスのフランク人、南フランスのプロヴァンス人、南イタリアのノーマン人がそれぞれを別個の「国民・集団」とみなし、各々が勢力拡大を望んだことが対立の一因と一般に考えられている。個人的な野心こそが内紛の主因であった可能性が高い[要出典]。

間もなくチフスと思われる疫病が発生し[53]、8月1日にアデマール司教が死去した[63]。9月、十字軍の指導者たちは教皇ウルバヌス2世に対し、アンティオキアの直接統治を求めたが[55]、教皇はこれを辞退した。1098年の残りの期間、彼らはアンティオキア周辺の領土を確保していったが、以前よりさらに軍馬が不足し、アラブ人の農民も食料の提供を拒んだ。下級騎士や兵士たちは不穏な動きを見せ、飢えが始まり、不和を続ける指導者たちを置いてエルサレムへ進軍すると脅した。11月、レーモン伯は十字軍の平和的な継続と、反乱を起こしかけていた飢えた部隊を鎮めるため、最終的にアンティオキアの領有をめぐる対立においてボエモン公へ譲歩をみせた。1099年初頭、ボエモンを初代アンティオキア公として当地に残し、十字軍は進軍を再開した。春には、レーモン伯の指揮下でエルサレム攻囲戦が開始された[64]。
アンティオキアでの成功は、ペトルス・バルトロメオに懐疑的な人々にとっては受け入れがたいものであった。彼の報告する幻視はあまりに都合が良く好戦的であったため、公然と嘘つき呼ばわりされた。追及を受けたペトルスは、自らの幻視が神によるものだと証明するため、神明裁判を受けることを申し出た。聖書の土地にいたため、彼らは聖書的な試練を選んだ。ペトルスは燃え盛る炉を通り抜け、神の天使によって保護されるというものである。十字軍は炎の壁の間に道を建設した。ピエールは炎の間の道を歩き、恐ろしい火傷を負った。彼は苦しみのなかで悶絶した末、12日後の1099年4月20日に死亡した[65]。聖槍についてそれ以上語られることはなくなったが、レーモン伯の配下のプロヴァンス人部隊は、ペトルスは炎を無事に通り抜けたが、彼を歓迎する群衆に押し戻されたのだと主張し続けた。また、レーモン伯は自身の礼拝堂でその槍を崇敬し続けた[66]。
アンティオキア包囲戦はすぐに伝説となり、12世紀にはアンティオキアの歌や『アンティオキア包囲戦』といった、十字軍サイクル(十字軍を題材とする物語の群(=サイクル)のこと)に属する武勲詩の題材となった[67]。アルフレッド・ダガンの歴史小説『ボエモン伯』(1964年)は、ボエモンの生涯に関する歴史小説であり、この包囲戦を描写している[68]。彼の初期の小説作品『鎧の騎士』(1950年)も同様である。