マイク・デビアス

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リングネーム アイアン・マイク・デビアス
マイク・デビアス
ミゲル・ロペス
本名 マイケル・デビアス
(マイケル・ディビアシ)
ニックネーム 鋼鉄男
身長 183cm[1]
マイク・デビアス
プロフィール
リングネーム アイアン・マイク・デビアス
マイク・デビアス
ミゲル・ロペス
本名 マイケル・デビアス
(マイケル・ディビアシ)
ニックネーム 鋼鉄男
身長 183cm[1]
体重 104kg(全盛時)[1]
誕生日 (1923-12-24) 1923年12月24日[1]
死亡日 (1969-07-02) 1969年7月2日(45歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ネブラスカ州の旗 ネブラスカ州
ダグラス郡オマハ[1]
スポーツ歴 レスリング[2]
デビュー 1950年[1]
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"アイアン" マイク・デビアス"Iron" Mike DiBiase、本名:Michael DiBiase1923年12月24日 - 1969年7月2日)は、アメリカ合衆国プロレスラーネブラスカ州オマハ出身。

テッド・デビアス継父であり、マイク・デビアス(2代目)テッド・デビアス・ジュニアブレット・デビアスの祖父にあたる[2]。テッド・デビアスの実母である妻のヘレン・ヒルドも、女子プロレスラーとして活動していた[3]

ネブラスカ大学ではレスリングの強豪として活躍[2]アメリカ海軍を除隊後の1950年にプロデビューを果たし、マイク・デビアスMike DiBiase)のリングネーム中西部太平洋岸北西部など各地を転戦[1]南西部ニューメキシコおよびコロラドではミゲル・ロペスMiguel López)の変名を用い、1953年4月27日にアルバカーキにてロッキー・マウンテン・ヘビー級王座を獲得、11月3日にデンバーレジー・リソワスキーに敗れるまで戴冠した[4]

1956年よりテキサス西部のアマリロ地区を主戦場とし、1957年8月15日にはボブ・ガイゲルからアマリロ版のNWA北米ヘビー級王座を奪取[5]。以降、同王座を巡ってドリー・ファンクと抗争を繰り広げ、テキサス・デスマッチでは互いに16回のフォールを奪い合い、1時間44分におよぶ死闘を展開した[2][6]。タッグではダニー・プレッチェスをパートナーに、1959年アル・コステロ&ロイ・ヘファーナンファビュラス・カンガルーズとNWAインターナショナル・タッグ王座を争っている[7]

他地区での活動も続け、1959年5月29日にはオクラホマシティにてアンジェロ・サボルディを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得[8]フロリダでは1960年1月19日にペドロ・ゴドイからNWA南部ヘビー級王座を、4月19日にはエディ・グラハムからブラスナックル王座をそれぞれ奪取[9][10]オレゴンでは1961年2月24日にルー・テーズと対戦して時間切れ引き分けの戦績を残し、3月5日にはパット・オコーナーが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[11]

1963年3月15日にはアリゾナ州フェニックスにおいて、元プロボクシング世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアとボクシング・マッチで対戦したが、3ラウンドでTKO負けを喫している[2][12]1964年11月6日には古巣の中西部地区にてサニー・マイヤースを破り、NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を獲得した[13]。その後もアマリロを主戦場にヒールのポジションで活動、ドリー・ファンク・ジュニアテリー・ファンクワフー・マクダニエルとも抗争した[14]

1967年4月、日本プロレスの『第9回ワールドリーグ戦』に来日。ジャイアント馬場吉村道明キム・イルには敗れるも、芳の里グレート・イトーミツ・ヒライデューク・ケオムカからは勝利を収め、外国人陣営ではダン・ミラーと並び、ザ・デストロイヤーワルドー・フォン・エリックに次ぐ3位の戦績を残した[15]。5月12日の岐阜大会ではワルドーと組み、同月に東京プロレスから日本プロレスに復帰したアントニオ猪木と馬場のコンビと対戦[15]。これは馬場と猪木のBI砲が正式に初結成された試合とされている[16]

日本遠征からの帰国直後、ロサンゼルスWWAに参戦。キラー・カール・コックスカール・ゴッチと組んでペドロ・モラレス&リッキー・ロメロとWWA世界タッグ王座を争い[17]、1967年6月16日にはパンピロ・フィルポからアメリカス・ヘビー級王座を奪取[18]。同王座は7月28日にマーク・ルーインに奪われるも、7月28日にはキム・イルを下してWWA世界ヘビー級王座を獲得、8月25日にバディ・オースチンに敗れるまで戴冠した[19]

その後は地元のオマハを拠点とするAWAのミッドウエスト地区に出場。1968年1月6日にマイティ・イゴール、8月17日と10月26日にカウボーイ・ボブ・エリスを破り、AWA中西部ヘビー級王座を3回獲得した[20]。オマハでは同年3月15日、バーン・ガニアが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも挑戦している[21]

1969年7月2日、テキサス州ラボックでの試合中に心臓発作を起こし、搬送先の病院で死去[2][6]。45歳没。

獲得タイトル

脚注

外部リンク

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