マイナー・シール・ベイツ
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1916年、米国オハイオ州ハイラム学院において文学士号を得る。同年、ロード・スカラーシップを得てオックスフォード大学に入学。第一次世界大戦中に世界YMCAの書記としてインドやメソポタミヤに派遣され、戦時中の民衆救済活動に参加した。1920年にオックスフォード大学を卒業し、基督会によって宣教師に任命され、南京の金陵大学の歴史学教授に就任する。1923年、金陵女子文理学院教師リリア・ロビン(Lilliath Robbins)と結婚。1934年から1935年には、ハーヴァード大学にて日本語・ロシア語を学んだ。1935年、イェール大学にて中国史研究による哲学の博士号を取得した。1936年には長野県野尻湖畔の教会に避暑のため家族で訪れる。知日家で日本人クリスチャンに知人も多く、日本社会を分析した論稿も多い。1937年12月、東京日日新聞では、長く日中親善のため活躍してきた親日家として紹介され、数年前から長男のモルトン(当時12歳)を神戸のカナデイアン・アカデミーに留学させていることが伝えられている[4]。
1937年にも避暑のため家族で野尻湖畔に訪れていたが、9月中旬に日中戦争の開始と南京空爆を知ると単身南京へ戻る。以降、南京において民衆救済活動に従事し、11月22日には南京安全区国際委員会の委員となる(12月13日に南京陥落)。委員会の中心メンバーとして財政実務や南京日本大使館への抗議交渉を担当。南京国際赤十字委員会委員、金陵大学緊急委員会委員長として、金陵大学施設に設置したいくつかの難民キャンプの責任者も務めた。ハロルド・ティンパーリーが翌1938年7月に出版して南京における日本軍暴虐の実態を広く世界に伝えた『What War Means: The Japanese Terror in China』の中には、南京安全区国際委員会のベイツによる日本大使館への南京事件抗議のための報告文やベイツによって上海の共通の知人に送られたと思われる南京の実情を知らせる手紙文等が収録されている[5][6]。1938年1月13日には金陵大学副学長に任命される。同年8月に妻子の待つ日本を訪問。多くのクリスチャンや日本人有識者と会って時局を談じる機会を持った。1939年11月、既に東大教授を退いていた矢内原忠雄は、駿河台女子基督教青年会でのイザヤ書講演の際に、先に行われた東京青山での基督教徒大会で松井石根(某陸軍大将と呼ぶ形をとっている)の挨拶があったこと、松井が最高指揮官であった南京占領時にキリスト教女学校(金陵文理女子学院)で事件が起こっていたことを述べ、主催者は南京事件を知っていたのであれば、基督教徒大会は日本のキリスト教徒の名において松井に謝罪を要求すべきだったのではないかと語って、松井とそれを黙って迎えたキリスト教関係者を批判している[7]。
