笠原十九司
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群馬県生まれ。群馬県立前橋高等学校、東京教育大学文学部卒業。同大学院修士課程中退。宇都宮大学教育学部教授、都留文科大学教授を経て、1999年より南京師範大学南京大虐殺研究センター客員教授、2000年より南開大学歴史学部の客員教授を務める。
2009年、東京大学より博士(学術)の学位を取得、学位論文の題は「第一次世界大戦期の中国民族運動と東アジア国際関係」[2]。
日中戦争初期に起きた南京事件研究者の1人。本来は中国近代経済史が専門だったが、1980年代半ばから南京事件の研究を開始し、歴史認識論争に巻き込まれたことで、戦史研究が主となった。現在は韓国の東北アジア歴史財団やピースボートが主催する国際教科書会議の日本側代表として参加している[3]。
写真の誤用問題

1998年 、笠原は、前年11月発行の著書『南京事件』III章の扉の写真として、米国のスタンフォード大学フーバー研究所東アジア文庫で閲覧した『日寇暴行実録』(中国国民政府軍事委員会政治部、1938年)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった)。しかし、この写真は実際には『アサヒグラフ』1937年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により『産経新聞』[4]ならびに『諸君!』[5]において指摘された。笠原は、朝日新聞カメラマンが撮った写真を中国国民政府軍事委員会政治部が悪用したものであったことに気づかず自らが誤用したとして、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン・朝日新聞・読者に謝罪し、秦に謝意を表した[6][7]。これを受け、岩波書店も同じページに「読者の皆さまへ」と題した謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替え、初版本の取り換えにも応じた[注釈 1][10] 。なお、本多勝一も著書『中国の日本軍』で同様の写真誤用を起こしている[11][12][注釈 2]。
『未来をひらく歴史』
評価
憲法九条「幣原発案説」をめぐって
笠原は2020年代、日本国憲法第9条の発案主体をめぐる問題を扱った本を複数、出版している[13]。9条はマッカーサーと占領軍によって考案され、日本政府に強制されたものであるとする議論と、日本側の考案・制定の主体性を重視する議論があるが、後者の立場に立つ笠原は、一貫して憲法作成時の総理大臣であった幣原喜重郎が発案者であると主張している。
一方、歴史学者の杉谷直哉による書評では、笠原が当該著作(2冊)で行った議論はいずれも実証性に欠けているとして厳しく批判されている[14]。まず史料批判について、笠原は「平野文書」(政治家の平野三郎が1951年に幣原から憲法作成過程について聞き取ったとされるもの)を自説の根拠として重視しているが、すでにその内容は、その他の重要な関係資料と比較・検証した結果、信憑性に欠けることが様々な研究者によって判明していること。また思想的側面についても、幣原が戦前の外交官時代から一貫して国際世論による平和維持のために動き、それが戦後の平和憲法につながったというのが笠原の議論であるが、近年の外交史研究では、幣原の対華不干渉や軍縮といった政策は平和主義というより、むしろ東アジアの国際関係の変化に合わせた現実主義的な路線にもとづいていたことが明らかになっている以上、そのままでは成立しがたい。その他、いくつかの実証手続面での瑕疵が見られるという。この問題をめぐって杉谷以外にも複数の歴史学者から批判が寄せられている[15]。