マジュド・アル=ムルク
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生まれ
ヤズドのアタベグの元宰相であったサフィー・アル=ムルクの子として生まれる[1]。
シャムスッディーン・ジュヴァイニーへの疑い
マジュド・アル=ムルクは最初イスファハーンの長官ホージャ・バハー・ウッディーンに仕え、その後その父で宰相のシャムスッディーン・ジュヴァイニーに仕えるようになった[1]。シャムスッディーン・ジュヴァイニーは彼にグルジア王国の戸籍調査を委託したが、信頼していなかったため、やがて無視するようになった[1]。マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーを陥れることを計画し、数人のモンゴル貴族に近づいて好意をつかもうと努めた[1]。マジュド・アル=ムルクはある日、イスゥ・ブカ・グルゲンに、シャムスッディーン・ジュヴァイニーの弟でバグダードの長官アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの代理であるマジュドゥッディーン・アシールがジュヴァイニー兄弟の名でエジプト人(マムルーク朝)と内通しており、バグダードをマムルーク朝に渡そうとしていると嘘をついた[1]。イスゥ・ブカ・グルゲンからこのことを聞いたアバカはアシールを捕らえて500回の棒刑を科して尋問したが、何も自白しなかった[1]。シャムスッディーン・ジュヴァイニーはマジュド・アル=ムルクを危険と判断し、スィヴァース市の長官に任命し、1バーリシュの黄金とルームの歳入に対する1万ディーナールの徴税請負権を与えた[2]。しかし、マジュド・アル=ムルクはジュヴァイニー兄弟に対し、なおも憎しみを抱いたままであった[2]。
1279年3月、アバカ・ハンがタブリーズ市を出発してホラーサーン州に向かった際、息子のアルグンがアバカに会いにカズヴィーン市に来たので、マジュド・アル=ムルクはアルグンの宮廷官を通じてアルグンにお目通りすることに成功した[3]。そこでマジュドはアルグンに宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーがマムルーク朝と内通しており、その弟アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーも謀反を企んでいると嘘をついた[4]。アルグンはこの話を父アバカ・ハンにもっていくと、アバカは内緒にするよう言った[4]。アバカがシャルーヤーズに滞在中、マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーの政敵である将軍タガチャルとサドルッディーン・ザンジャーニーを介して、浴室にいたアバカにうまく謁見することができた[5]。マジュド・アル=ムルクは廷臣のような優雅な物腰でアルグンに言ったように同様の話をし、シャムスッディーンは宰相就任以来、ハン国の歳入を正確に報告したことがないこと、ハン国を自分の領地にようにみなしていること、彼の弟アラーウッディーン・アターマリクはイラークの行政で国税総額以外に600トゥメンを徴収し、公共の費用や軍隊の経費にも充てなかったと述べた[5]。この告発はアバカの心を動かし、マジュド・アル=ムルクを手厚く待遇し、さらに1杯の酒を賜い、御衣のなかの一襲を着せてやった[6]。アバカが行政の一般問題を出したところ、彼の返答は非常に満足のいくものであったため、アバカは彼を財務の監査長官に任命し、収入が支出より超過していることを証明できるように直近数年間の会計報告を検査するよう命じた[6]。彼を任命した勅書に、軍隊の司令官、カトン、親族の王侯であれ、いかなる人間もこの任務の完遂を妨害することが禁止され、アバカは彼に虎符[注釈 1]を下付した[6]。同時にアバカはシャムスッディーン・ジュヴァイニーの徴税代官たちに帳簿を携えて出頭するよう命じた[6]。驚いたシャムスッディーンは宮廷へ赴き、オルジェイ・カトンに庇護を求め、カトンは機会を見つけて彼のためにとりなした[6]。シャムスッディーンがアバカの面前に現れるやいなや、アバカは興奮しながら彼を叱咤した[6]。シャムスッディーンは敵の中傷を言うことなくただアバカへの忠誠を述べた[6]。これにアバカは怒りを静め、再び恩寵をとりもどし、徴税代官の命令を取り消した[7]。マジュド・アル=ムルクはシャムスッディーン・ジュヴァイニーが恩寵を取り戻したことに失望してアバカに訴えたが、アバカはタガチャルのもとにいるよう命じた[7]。
1280年の春、マジュド・アル=ムルクはその後も陰謀を企て、突然イルハン朝の行政長官(ムシリフ)に任命され、シャムスッディーンと協同して政務をとることになった[8]。アバカはマラーガ市の仏教寺院において集まった親族の王侯とカトンたちの前で、マジュド・アル=ムルク任命の勅書を朗読さえした[8]。アバカは彼に行政・財政・自分の宝蔵と厩舎に関する一切の事務を検査し、彼の部下が事務を監督できるように権限を与えたため、人々の尊敬の的となった[8]。マジュド・アル=ムルクは諸州に課税の割り当てと収納に協力する任務を託された自分の代官を配置した[8]。財務庁(ディーワーン)から発布されるすべての謄本には、右側に宰相の署名と官印が、左側にマジュド・アル=ムルクの署名と官印がなされるようになった[8]。
シャムスッディーンは自分の信用が日増しに衰えていくのを見て苦悩を禁じえなかった[9]。しかし、彼は意気消沈したところを見せないように気を付けた[9]。宰相が自尊心を傷つけられるのを辛抱せねばならなかったこと、モンゴルの君主たちがペルシア人の大臣たちを取り扱ったやり方と同時に二つの事柄が伝えられている[9]。アバカはある日、自分に報告があった件に関して、シャムスッディーンをマジュド・アル=ムルクと対決させるために呼んだことがあった[9]。慣例に従ってこの二人の出頭人は互いに対面して玉座の前で跪いた[9]。アバカはシャムスッディーンにもっと遠く離れた場所へ下がって跪くよう命令した[9]。また、ある日の宮中の宴に際して、シャムスッディーンはアバカに3たび杯を献じたが、アバカは彼の手から杯を受け取ろうとはしなかった[9]。シャムスッディーンはそのマジュドの意地悪いひやかしをやめさせようと望んでいただけに尻込みしなった[9]。彼は四度杯を献じた[9]。アバカはナイフの先にイスラム教徒にとって不浄である豚肉を指してシャムスッディーンの前に突き出した[9]。シャムスッディーンは床に額をつけて拝したのち、この肉片を食べ、アバカは捧げられた杯の酒を飲むと彼に罵声を浴びせた[10]。このような恩寵の失墜を示す明らかなしるしがあったにもかかわらず、シャムスッディーンはなおその地位にとどまっていた[10]。
アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーに対する追及
1281年7月、シャムスッディーン・ジュヴァイニーの弟アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーはアバカに伺候するため、バグダードから入京した[10]。アラーウッディーンはその管轄であるイラークの1年間の課税にあたる大量の黄金をアバカに手渡し、その年の収入の増加分に由来するもう1年分の黄金を献上した[10]。そこでマジュド・アル=ムルクは意見を述べるに「アラーウッディーンがイラーク・アラビー州とフーズィスターン州の徴税請負全権を許可されてより12年、彼は毎年、正規の納付額以外に20トゥメンの黄金を徴収し、この黄金を他の不正取得財産と一緒に隠していた」と言った[10]。宰相のシャムスッディーンはかねてから恩恵を施してきた自分の部下たちがこの意見を跳ね返すものだと思っていたが、彼らすらもアラーウッディーンに対する非難が真実であるかのように偽証した[10]。アラーウッディーンが弁明するには、親族の諸王侯、カトン、将軍たちによって発行された歳入担保の約束手形にせよ、委員と使者たちに対する給養にせよ、君主の恩賜物にせよ、このような毎年必要なあらゆる特別支出のために、歳入の超過分から指定された額を集めることは不可能であったこと、これらすべての出費さえ通常歳入に打撃を与えていたこと、しかし、前年度の歳入に生じた不足分にもかかわらず、自分は自分の負債額を宮廷へ完納したこと、彼はこのことを非常な善意をもって取り扱ったこと、さらに本年は運が自分にとって不利であったことを見て、もっと多くを納入しようと欲していたこと、そして自分の敵の攻撃に立ち向かうために、最近2年間に特別支出が増加したにもかからわず、実際には存在していなかった収入超過額を献上したこと。自分は納税者の苦痛を軽減するために自分自身の地所を国庫へ引き渡さざるを得なかったこと、国庫が金を必要とするとき、その金がないと答えて計算書の提出を渋ることはできないと知っていたことなどを答えた[11]。これにマジュド・アル=ムルクはアラーウッディーンがちゃんとやりくりしていたことを証明するのではないかと恐れて計画を変えることにし、別の件で立件しようとしたが、アバカはアラーウッディーンの証言が正しいということを覚って彼をバグダードに帰らせた[11]。9月、アバカはバグダードで冬を過ごすためにイルビル、モースルへの道を通った[12]。アバカはアラーウッディーンを先に出発させて駅站と食糧の準備をさせた[12]。この時、マジュド・アル=ムルクは1270年~1271年に支払うべきであった250トゥメンをアラーウッディーンが滞納していることをアバカに告発した[12]。これにアバカはアラーウッディーンに問い詰めたところ、兄であるシャムスッディーンがアラーウッディーンをかばうため、自分の私財でもってアバカを静めようとしたため、かえってアバカはこの兄弟を疑うようになり、大断事官(イェケ・ジャルグチ)であるタガチャルをバグダードに呼んで審理が始まった[12]。アラーウッディーンに関わる人物はすべて尋問を受け、アラーウッディーンが建てた建造物、寺院も次々と調査されたが、何も発見することはできなかった[13]。にもかかわらずアラーウッディーンは枷をつけられ、国庫に納入すべき黄金300トゥメンを支払わさせることによって死刑は免れた[13]。
その後、マジュド・アル=ムルクはアラーウッディーンが国庫に返還することを約束していた300トゥメンの黄金を受け取るためにバグダードに赴いた[14]。支払いができなかったアラーウッディーンはすべての所有物、妻子すらも明け渡し、将来どんな小さなことでも背任行為を犯したら自分の首をもって償うことを承諾した[15]。アバカは彼の罪を赦免し、1281年11月27日に出獄させた[15]。しかし、その後もマジュド・アル=ムルクは主張を繰り返し、将軍タガチャル、オルドカヤとともにバグダードに赴いて未払いの300トゥメンを強奪しようと計り、まだ支払うことができないアラーウッディーンを捕らえて拷問にかけ、裸で市中を引き回した[15]。
アラーウッディーンはその後もマジュド・アル=ムルクの執拗な嫌がらせを受け、ことあるごとにマムルーク朝と内通していると嘘の報告をされていた[16]。ある時、アバカ・ハンはさすがにマジュドの中傷にすぎないと思い、アラーウッディーンを自分の元へ来るよう命じた[16]。マジュドはこれによってアラーウッディーンが無実になるのではないかと恐れ、アバカが派遣した委員を賄賂で買収し、アラーウッディーンを鎖で使いで厳重に王宮へ護送した[16]。アサド・アーバード山に到着したところでアバカ・ハン崩御のため交通が遮断されたため、護送隊は立ち往生し、新ハン即位までの間アラーウッディーンは鎖につながれたままとなった[16]。
テグデル・ハン(スルターン・アフマド)が即位
1282年、アバカ・ハンが崩御すると、弟のテグデルが第3代イルハンに即位し、スルターン・アフマドと称した[17]。スルターン・アフマドは財務庁(ディーワーン)を引き続きシャムスッディーン・ジュヴァイニーに委ね、マジュド・アル=ムルクとアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーを出頭させた[17]。マジュドは宮廷へ到着すると、あるモンゴル貴族に支持されていたため、シャムスッディーンに対する陰謀を再開し、財政収入の徴税請負全権をまたも入手しようとした[18]。しかし、シャムスッディーンはスルターン・アフマドの妃でコンギラト部出身のアルマニ・カトンの庇護により、アフマドの恩寵を得ていたので、マジュドを破滅させようとした[18]。シャムスッディーンは自分に対し、あらゆる非難をしてきたマジュドのことをアフマドに訴えた[18]。マジュドはアルグンに書を送って「シャムスッディーンはあなたの父上に毒をもって殺し、今私の生命を奪おうとしています」と伝えた[18]。しかし、シャムスッディーンはマジュドの甥であるサアドゥッディーンを使ってこのアルグンとの密通を告発させることに成功した[18]。これによってスルターン・アフマドはまず、アラーウッディーンが没収されていたものをすべて彼に返還し、スウンジャクとアルクに命じて、マジュドの罪状を調査させた[19]。二人が彼の家宅捜査していた時に、彼の衣服のなかから黄色と紅色で未知の文字が書かれた1枚のライオンの皮を発見した[19]。これによってマジュドは有罪判決を受けたが、スウンジャクは死刑を科すことは欲しなかった[19]。しかし、シャムスッディーンは友人のアブド・アル=ラフマーンを使ってスウンジャクに対して強硬な態度で迫ったため、マジュドの死刑が決定した[19]。
マジュドの死
1282年8月1日、スルターン・アフマドはマジュドをシャムスッディーンのもとへ引き渡す命令を交付すると、多数の人々が剣と小刀を帯びて牢獄の前に集まった[19]。シャムスッディーンはマジュドの生命を助けようと思っていたが、アラーウッディーンとハールーンが反対したため、牢獄から放たれたマジュドは群衆によって一瞬のうちに殺され、ばらばらにされた[19]。マジュドの四肢は各州に送られ、彼の首はバグダード市内に懸けられた[20]。アラーウッディーンは自分の財産を取り戻し、スルターン・アフマドによってふたたびバグダード長官に任命された[20]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 87.
- 1 2 佐口 1976, p. 88.
- ↑ 佐口 1976, p. 89.
- 1 2 佐口 1976, p. 90.
- 1 2 佐口 1976, p. 91.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 佐口 1976, p. 92.
- 1 2 佐口 1976, p. 93.
- 1 2 3 4 5 佐口 1976, p. 94.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 佐口 1976, p. 95.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 96.
- 1 2 佐口 1976, p. 97.
- 1 2 3 4 佐口 1976, p. 98.
- 1 2 佐口 1976, p. 99.
- ↑ 佐口 1976, p. 117.
- 1 2 3 佐口 1976, p. 118.
- 1 2 3 4 佐口 1976, p. 135.
- 1 2 佐口 1976, p. 134.
- 1 2 3 4 5 佐口 1976, p. 136.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1976, p. 137.
- 1 2 佐口 1976, p. 138.
参考資料
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982。