マラン・ブランセン
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1931年6月6日、翡翠の産地で有名なカチン州てパカンに生まれる。父親は零細商人で、7人兄弟姉妹だった[1]。叔父の1人はパンロン会議にカチン族代表として参加したローダン・ドゥワ・ゾーラ(Lawdan Duwa Zau La)である[2]。
優秀だったため、叔父の援助で学業を続け、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)に入学。大学ではラングーン大学学生組合(RUSU)の副議長と教育学部書記長に選出された。大学卒業後は、ミャンマー代表団の一員としてシンガポールのYMCAに数ヶ月派遣された後、ミッチーナーにあるカチン・バプテスト高校の校長に就任した[2][1]。
1958年、中央政府のカチン州軽視に対抗するため、カチン文化振興青年組織(Kachin Cultural Enhancement Youth Organization)を設立した[2]。
1962年ビルマクーデターが起きると、前年に結成されたカチン独立機構・軍(KIO/A)に参加した。バーティル・リントナーのインタビューに応えて、KIO/Aに加わった理由を、ブランセンは次のように語る[3]。
ご存知の通り、私たちカチン族は1961年までラングーンの政府に対して武装蜂起しなかった。ビルマで最後に立ち上がった少数民族の一つだ。カレン族は1949年に闘争を開始した。モン族とカレンニー族もほぼ同時期に反乱を起こした。そしてシャン族は1958年にそれに続いた。私たちは武装闘争をすることなく、自分たちの立場を改善できると考えていた。しかし、失望が次から次へと続いた。戦争中、誰よりも粘り強く戦ったにもかかわらず、日本政府からの賠償金はカチン州に届かなかった。州政府の役人だけが日本軍のジープを所有し、住民には何もなかった。開発はなく、あるのは放置と荒廃だけだった。そこで、ラングーンにいた私たちカチン族の学生たちは、密かに組織を作り始めた。私たちはよくラングーンの学生寮にある私の部屋で集まっていた — ブランセン
KIO議長
優れたオーガナイザー、演説家だったブランセンは組織内で昇進し、1967年にはKIO代表団を率いて中国を訪問して、北京で周恩来首相と会談した[4]。
1967年に初めて中国に行った。私たちは国境のパンワ峠を歩いて越え、最寄りの中国軍前哨基地の外で野営した。助けが必要だと伝えると、彼らは私たちが共産主義者かと尋ねた。私たちはキリスト教徒だと答えたが、隣国と良好な関係を築きたいと伝えた。少し混乱と話し合いの後、軍用トラックが私たちを最寄りの空港である保山まで連れて行き、昆明経由で北京へ飛んだ。そこで周恩来に会った。私は自分がキリスト教徒であり共産主義者ではないことを隠そうとしたことは一度もない。周恩来は理解を示し、共感してくれたようだった。 — ブランセン
1975年8月6日、ゾーセン議長、ゾートゥー副議長、プンシュウィ・ゾーセン書記長の3人が、部下により処刑される事件があった。3人には組織の資金を横領していた容疑がかけられ、一般兵士たちの怒りを買っていた。組織の立て直しを迫られたKIO/Aは、1976年1月パジャウで緊急会議を開き、ブランセンを新議長に選出した[5]。
ブランセンが主導するKIO/Aは、1976年5月、各少数民族武装勢力の連合体である民族民主戦線(NDF)に加盟。彼は各少数民族武装勢力の長年の主張である分離独立を取り下げ、ビルマ連邦内における自治権の要求へ方針転換するよう主張した。同年7月、長年の懸念事項だった兵器不足を解消するためにKIO/Aとビルマ共産党(CPB)と同盟を結んだことにより、一旦、NDFを離脱したが、1980年に行われた政府との和平交渉が決裂すると、1983年にNDFに復帰。1984年には連邦内における自治権要求をNDFの方針として採択することに成功した[2]。しかし、1986年にNDFとCPBが同盟を結ぶと、反共主義のカレン民族同盟(KNU)がこれに反発し、同盟に亀裂が生じた[6][7][8]。
1987年3月、ブランセンはシャン州を陸路で横断してKNUとNDFの本部があるマナプロウを訪れた。しかし、その隙にミャンマー軍(国軍)はKIO/Aの拠点に攻撃を加え、パジャウおよびナポーを制圧した[9]。ブランセンはすぐにはカチン州に戻らず、NDF代表団の一員として、イギリス、西ドイツ、スイス、日本を訪問。イギリスでは、最後のビルマ担当国務長官・リストウェル卿とパンロン会議のイギリス代表・ボトムリー卿[10]と一緒に記者会見を行った[11][2][12]。
ビルマの扉は閉ざされているので、私たちは外に出るしかない。人々はビルマで何が起こっているのかを理解していない。状況はポル・ポト政権下のカンボジアに似ている。ビルマ軍は多くの村を破壊し、何千人もの少数民族を殺害した。唯一の違いは、カンボジアでは遺体がすべて一箇所で見つかるということだ。私が世界に伝えたいのは、ビルマの少数民族地域に国際監視団を派遣してほしいということだ。そうすれば、世界は過去25年間に何が起こっていたのかを正確に知ることができるだろう。そうすれば、少数民族の指導者やビルマ政府の主張が真実かどうかを判断できるだろう。 — ブランセン
和平交渉、死
8888民主化運動の後、1988年11月14日、NDFと民主派勢力の連合体であるビルマ民主同盟(DAB)が結成され、ブランセンは副議長に就任した[13]。
しかし、1989年にCPBが崩壊したことにより、兵器をCPBに依存していたKIO/Aは痛手を受けた。1990年から国家法秩序回復評議会(SLORC)との和平交渉を開始し、1994年2月24日、ついに停戦合意が締結された。ブランセンとしては、KIO/Aを合法政党に衣替えすることを構想しており、自分たちが先鞭をつければ、他の武装勢力もそれに続くと考えていたとされる。しかし、KIO/Aの独断的行為は、KNUなど他の武装勢力の反発を呼び、KIO/AはNDF、DABから除名された[2][14]。
KIOにとって最も重要なことは、この憲法改正の時期に合法政党になることです。われわれは1961年以来、すでに3つの異なる政権を経験しており、忘れ去られることがどのようなことか知っています。30年以上にわたり、私たちはテロリストやアヘン密輸業者とみなされ、一度も認められたことがありません。 — ブランセン
停戦合意が締結される直前、1993年10月、ブランセンは脳卒中で倒れた。1992年に中国人の武器商人に1000万米ドルを騙し取られて以来、酒に溺れるようになったとも伝えられる[15]。中国で療養していたが、1994年8月8日、パジャウに搬送される途中で死去した。享年63[2]。
8月12日、大規模な葬儀が催され、葬儀には様々な少数民族武装勢力やみ学生武装勢力の代表者、そしてSLORCの幹部が出席した[2]。
