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マリー=テレーズ・ワルテル

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マリー=テレーズ・ワルテル[注釈 1](Marie-Thérèse Walter、1909年7月13日 - 1977年10月20日)は、フランスの美術モデルである。パブロ・ピカソの最初の愛人であり、ピカソとの間に娘マヤをもうけている。

死没 1977年10月20日(1977-10-20)(68歳没)
フランスの旗 フランス ジュアン=レ=パン(英語版)
非婚配偶者 パブロ・ピカソ(1927年 - 1940年)
概要 マリー=テレーズ・ワルテル, 生誕 ...
マリー=テレーズ・ワルテル
Marie-Thérèse Walter
生誕 (1909-07-13) 1909年7月13日
フランスの旗 フランス ル・ペルー=シュル=マルヌ
死没 1977年10月20日(1977-10-20)(68歳没)
フランスの旗 フランス ジュアン=レ=パン(英語版)
非婚配偶者 パブロ・ピカソ(1927年 - 1940年)
子供 マヤ・ウィドメーアー=ピカソ
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ピカソのミューズ(英語版)の一人として知られる。ワルテルとピカソの交際は、ワルテルが17歳、ピカソが45歳のときからである。1935年に夫の不倫を知ったピカソの正妻オルガ・コクローヴァは、ピカソとの離婚を決意して別居した。ピカソはワルテルからインスピレーションを受け、ワルテルを題材とした数多くの作品を制作した。この交際は、ピカソがドラ・マールとの交際を始めたことにより終焉した。1977年、68歳で自殺とみられる死を遂げた。

生涯

マリー=テレーズ・ワルテルは1909年7月13日にフランス・ル・ペルー=シュル=マルヌで生まれた[2]。父はスウェーデン人、母はフランス人だが、両親は結婚していなかった[3]。

ピカソとの生活の当初

1927年1月8日、ワルテルが17歳のとき、パリの百貨店ギャラリー・ラファイエットの前で45歳のピカソと初めて会った[4]。当時ワルテルは、母や姉妹と共にパリ南東郊外のメゾン=アルフォールに住んでいた。ピカソはワルテルに近づき、「君は面白い顔をしている。君の肖像画を描きたい。私はピカソだ」と告げた。ワルテルはその名前を知らなかったが、注目されたことを嬉しく思った。その直後の1月11日、ピカソはワルテルを、ラ・ボエシ通り(英語版)のアパルトマンの上階にある自身のアトリエに招いた。ピカソはワルテルの顔と体を観察し、翌日また来るように言った。ワルテルは、それから毎日ピカソのアトリエを訪れるようになった。母親には、仕事があるからと告げていた。出会ってから1週間後、2人は性的関係を持った。当時、ピカソにはオルガ・コクローヴァという正妻がおり、5歳の息子がいた。ピカソとワルテルの関係は、1935年までオルガには秘密にしていた[5]。ワルテルはピカソの創作活動を再活性化した。ピカソは、ワルテルの瑞々しくアスリートのような風貌、曲線美、楕円形の顔にインスピレーションを受けて、彼女の肖像画を繰り返し描くようになった。ワルテルは非常に活動的であり、ボート漕ぎ、体操、自転車に熱心に取り組んでいた。ワルテルは後に、「私の彼との生活は、常に秘密で、穏やかで、平和でした。私達は誰にも何も言いませんでした。私達はそれで幸せで、それ以上は何も求めませんでした」と述べている[4]。

1928年の夏、ピカソ一家はディナールに滞在していたが、ピカソはワルテルを女子向けのサマーキャンプに参加させ、借りたビーチの小屋でワルテルと密かに会っていた。1930年7月、ピカソはパリの北西の1時間ほどの距離にあるジゾール(英語版)近郊のボワジュルー(英語版)というシャトーを購入し、彫刻のアトリエとして使用した。週末にはオルガとパウロが訪れたが、平日にはピカソはワルテルと共にここで過ごした[5]。ワルテルは、ピカソの家族からは見えない影のような存在であり、絵画と彫刻の両方において、ピカソのモデルでありミューズ(英語版)であった[6]。

1932年9月、ワルテルはマルヌ川でカヤックから転落し、溺れかかけた。この事故が原因でウイルス感染症にかかり、入院を余儀なくされ、一時的に髪の毛を失った。この出来事からインスピレーションを受けて、ピカソは溺れる女性を救助する場面を描いた"Le Sauvetage"(救助)を制作した[7]。

1932年10月、ジョルジュ・プティの画廊で開催されたピカソの初の大回顧展で、ピカソは公然とワルテルを題材とした作品を多数展示した。その多くは、『夢(英語版)』(Le Rêve)や『ヌード、観葉植物と胸像』(Nu au Plateau de Sculpteur)などの裸体の肖像であり、ピカソとワルテルがどのような関係にあるのかを明らかにするものだった[5]。

ピカソとの生活の終盤

1934年、ワルテルは妊娠し、同年のクリスマスイブにそれをピカソに伝えた。ピカソの正妻のオルガは既にラ・ボエシ通りの家を出ていたが、ピカソはワルテルとの同棲はせず、自宅近くに部屋を借りてワルテルを住まわせた[8]。ピカソの不倫と相手の妊娠を伝え聞いたオルガは、息子を連れて南仏に移った。法律で義務付けられている離婚時の財産の均等分割をピカソが拒否したため、オルガは1955年に死去するまでピカソとの婚姻関係を維持していた。

1935年9月5日、ワルテルはブローニュ=ビヤンクールで女児を出産し、マリア・デ・ラ・コンセプシオン(通称マヤ)と名付けられた[4]。ワルテルとマヤは、1936年3月25日から5月14日までピカソとともに南仏ジュアン=レ=パン(英語版)に滞在し[5]、1937年秋にはヴェルサイユから約25キロメートル離れたル・トロンブレ=シュル=モルドル(英語版)に移った[8]。ピカソは、毎週末や時折平日にも、娘と遊ぶためにここを訪れていた。ピカソは1938年の『人形を抱くマヤ(英語版)』(Maya à la poupée)など、マヤの肖像画も描いている[9][10]。

マヤが生まれたときには、ピカソはアリス・パーレン(英語版)やヴァランティン・ユゴー(英語版)などの他の複数の女性と付き合っていた[11]。マヤが生まれてから数か月後、ピカソはドラ・マールとの交際を始めた。マールはシュルレアリスムの写真家であり、ピカソのモデルでもあった。ピカソは2人の女性との関係を維持した。1937年の作品『赤いベレー帽とポンポンの少女(英語版)』はワルテルの肖像画ということになっているが、娘のマヤは、この絵はワルテルとマールの肖像が組み合わされたものだと考えている[12]。ピカソはワルテルとその母、姉妹をロワイヤンに住まわせ、普段はマールとともに暮らし、週末だけワルテルに会いに来ていた[11]。

ピカソが『ゲルニカ』を制作していたとき、ピカソのアトリエで偶然ワルテルはマールと出会った。2人がどちらを選ぶのかとピカソに迫ると、ピカソは「自分たちで解決しろ」と言い放ち、2人は取っ組み合いの喧嘩を始めたという。美術史家でピカソと親交のあったジョン・リチャードソンは、ワルテルとマールが喧嘩をしたという話は事実ではないと述べ、マールもピカソも、リチャードソンにそんなことは起きなかったと述べたという。リチャードソンは、この話は『ゲルニカ』の両端にワルテルとマールが争っているように描かれていることからの想像から生まれたものではないかと語っている[13]。娘のマヤは後に、母とともにピカソのアトリエを訪れた際に偶然マールと遭遇したときのことを、「ある日私達がやって来ると、彼女がそこにいて、ゲルニカの横に立っていました。私は泣き出して、『あのよだれを垂らしている女とは会いたくない』と父に言いました。それは、唇を舐める癖のあるドラ・マールのことでした。私達は二度と彼女に会うことはありませんでした」と回想している[10]。

1937年12月7日、ピカソは『ベレー帽と四つ葉の女(マリー=テレーズ・ワルテル)(英語版)』(Femme au béret et à la robe quadrillée (Marie-Thérèse Walter))を描いた。この作品も、タイトルにワルテルの名前が入っているが、ワルテルとマールの肖像が組み合わされており、ワルテルから新たな愛人マールへと移り変わるピカソの愛情が表現されている[14]。ワルテルとピカソの関係は1940年に終焉を迎えた[15]。

晩年と死去

1939年9月に第二次世界大戦が勃発したとき、ワルテルとマヤはロワイヤンにいた。1941年春までそこに留まった後、2人はパリに戻り、サン=ルイ島のアパルトマンで生活した。後にピカソの愛人となったフランソワーズ・ジローは、マヤは「父親は遠くで働いているという虚構」の中で生きていたと述べている[4]。

ピカソはその後10年間、毎週木曜日と日曜日にワルテルとマヤに会いに来続けた。第二次世界大戦終結後、ピカソはフランソワーズ・ジローとともに南仏に移り住んだ。それ以降、ピカソとワルテルは時々会う程度となり、しばらくの間はワルテルはピカソに手紙を送っていた。1955年に正妻のオルガが死去したとき、ピカソはワルテルに電話をして結婚を申し込んだが、ワルテルは断った。それからピカソはワルテルと会わなくなり、ワルテルはピカソの住む南仏に移った。

1973年にピカソが死去した。ピカソの後妻ジャクリーヌがピカソの孫のパブリート(フランス語版)の葬儀参列を拒み、それに深く傷ついたパブリートは漂白剤を飲んで自殺を図った。それに気づいたワルテルは保健大臣に連絡し、パリの病院までヘリコプターで搬送するよう手配した。ワルテルはパブリートの医療費を賄うために、所持していたピカソの絵画2点を売却したが[5]、パブリートは3か月後に死亡した[16]。

1977年10月20日、ワルテルはジュアン=レ=パン(英語版)にある自宅のガレージで首を吊って自殺した[17][18]。68歳だった。

評価

ワルテルは美術評論家から、ピカソの「黄金のミューズ」と評されている。ピカソは、古典主義とシュルレアリスムの要素を融合させたワルテルの肖像画を多数制作した[3]。これらの作品は官能的であり、当時の2人の激しい恋愛関係が反映されている。シュルレアリスムの写真家のブラッシャイは、「彼は、彼女のブロンドの髪、彼女の輝く肌、彼女の彫刻のような体を愛していた。彼の生涯において、彼の絵画で波を打つしなやかな曲線、包み込むような腕、カールした髪が描かれた時期は他になかった」と述べている[19]。

スペイン内戦中のドイツ軍によるゲルニカ爆撃を描いたピカソの1937年の作品『ゲルニカ』において、描かれた人物のうちの少なくとも3体はワルテルをモデルとしている。マヤの娘のダイアナ・ウィドメーアー・ピカソによれば、ワルテルはピカソにとって永遠の希望と平和の象徴だった[8]。

ピカソの墓には、ピカソがワルテルをモデルとして1933年に制作した豊穣の女神の石膏像をブロンズで複製したものが安置されている[20]。

大衆文化において

1996年の映画『サバイビング・ピカソ』では、ワルテルの役をスザンナ・ハーカー(英語版)が演じた[21]。2018年のテレビドラマ『ジーニアス』第2シーズンでは、ワルテルの役をポッピー・デルヴィーニュ(英語版)が演じた[22]。

ギャラリー

脚注

参考文献

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