オルガ・コクローヴァ

ロシアのモデル、ダンサー From Wikipedia, the free encyclopedia

オルガ・ステパノブナ・コクローヴァ[注釈 1]Ольга Степановна Хохлова (Olga Stepanovna Khokhlova)、1891年6月17日 - 1955年2月11日)またはオルガ・ピカソ(Olga Picasso)は、ロシアバレエダンサーである。バレエ・リュスに所属し、パリを拠点に活動した[1][2]。パリで芸術家パブロ・ピカソと出会って結婚し、ピカソの初期のミューズ英語版の一人となった。

ピカソのモンルージュのアトリエにて(1918年春)
生誕 Ольга Степановна Хохлова (Olga Stepanovna Khokhlova)
(1891-06-17) 1891年6月17日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 チェルニゴフ県ニジィン
死没 1955年2月11日(1955-02-11)(63歳没)
フランスの旗 フランス カンヌ
配偶者
パブロ・ピカソ
(結婚 1918年、別居 1935年)
概要 オルガ・ピカソ, 生誕 ...
オルガ・ピカソ
Olga Picasso
牧神の午後』出演中のオルガ(1916年頃)
生誕 Ольга Степановна Хохлова (Olga Stepanovna Khokhlova)
(1891-06-17) 1891年6月17日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 チェルニゴフ県ニジィン
死没 1955年2月11日(1955-02-11)(63歳没)
フランスの旗 フランス カンヌ
職業 バレエダンサー
配偶者
パブロ・ピカソ
(結婚 1918年、別居 1935年)
子供 パウロ・ピカソ
親戚
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若年期

オルガは1891年6月17日にロシア帝国チェルニゴフ県ニジィン(現 ウクライナ領)で生まれた[3]。父ステパン・コクロフはロシア帝国陸軍の大佐だった[4]。母リディア・ジンチェンコはウクライナ出身だった[5]。コクロフ家には息子が3人、娘が2人いた[6]

オルガは、興行師セルゲイ・ディアギレフのバレエ団に友人の姉が入団したことに触発されて、バレエダンサーになることを志した。サンクトペテルブルクの私立バレエ学校で学び、ディアギレフが主宰しパリを拠点とするバレエ・リュスへの入団オーディションに合格した[7]。オルガはバレエ・リュスの一員として、ヨーロッパやアメリカで公演を行った[6]

ピカソとの関係

1917年、ピカソはディアギレフ制作のバレエ『パラード』に関わった。これはジャン・コクトー脚本、エリック・サティ作曲の作品で、1917年5月18日、パリのシャトレ座にてバレエ・リュスの公演で初演された。ピカソは、舞台美術と衣装を担当した[8]

その後、イタリアで"Le donne de buon umore"(陽気な女たち)というバレエのリハーサル中のオルガを見たピカソは、彼女に恋に落ちた[9][7]。オルガはピカソと出会った後、南米ツアー中にバレエ団を退団し、バルセロナでピカソと同棲を始めた。ピカソはオルガを家族に紹介した。当初ピカソの母はオルガを嫁に迎えることに反対したが、オルガはピカソとの結婚を望んでいた。長い婚約期間中、オルガはピカソと共に寝ることを当初は拒んだ。オルガはパスポートを持っていなかったためスペインから出ることができず、孤立してピカソに頼らざるを得なかった。この時期、ピカソは初めてオルガの肖像画"Olga Khokhlova à la mantille"(マンティラ英語版を被るオルガ・コクローヴァ)を描いた。

6か月後にビザが降り、オルガはピカソとともにパリに戻った。最初の6か月間は、2人は別れて住み、オルガはホテル・ルテシアに、ピカソはモンルージュに借りた家に滞在した。婚約を祝って、ピカソはアングルの作風を模した肖像画"Portrait d'Olga dans un fauteuil"(肘掛け椅子に座るオルガ)を描いた。この絵では、オルガは黒いドレスを着て扇子を持っている[7]

結婚生活

オルガとピカソは、1918年7月12日にパリにあるロシア正教の教会、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂英語版で結婚した。ジャン・コクトーマックス・ジャコブが証人を務めた[10]。元々、結婚式は同年5月に予定されていたが、オルガが右足を怪我し、手術してギプスが外れるまで延期されていた。結婚式の後、2人はフランス南部ビアリッツにあるエウヘニア・エラスリス英語版が保有する別荘で新婚旅行を過ごし、ピカソはそこでオルガのスケッチを残した。1918年9月、オルガの怪我は完治したが、リハビリが必要だった。これ以降、オルガが人前で踊ることはなかった。1918年10月に2人はパリに戻り、同年12月、画商ポール・ローゼンバーグが見つけてくれたラ・ボエシ通り英語版のアパートに入居した[7]

破局

1921年2月4日、オルガは男児を出産した。その子供は、父の名前パブロ(Pablo)のフランス語形であるポール(Paul)からポール・ジョゼフ・ピカソ(Paul Joseph Picasso)と命名され、普段は愛称のパウロ(Paulo)で呼ばれた[9]。これ以降、オルガとピカソの関係は悪化した。ピカソはオルガと息子のことを誇りに思っていたが、オルガは息子に対して執拗なほど過保護になった。オルガは、ピカソの妻という名声と、セレブのようなライフスタイルを享受していた。ピカソの友人がそれを批判すると、ピカソはオルガの上品な趣味のせいにした。1922年の夏、夫妻がディナールのリゾートに滞在中、オルガは重病に倒れた。9月中旬、オルガはパリの病院に搬送されて緊急手術を受けた。1923年の夏の終わりには、ピカソのオルガへの情熱は冷め、パリの売春宿に通うようになった[7]

1927年、ピカソは17歳のフランス人女性マリー=テレーズ・ワルテルと付き合い始めた。ピカソは、自宅では普段通りの夫と父親を演じ、マリー=テレーズとの交際は秘密裏に行った。1928年の夏、ピカソ一家はディナールで過ごしたが、ピカソは密かに、マリー=テレーズもディナールに呼び寄せていた。しかし、ここでオルガが再び重病となり、一家は9月5日にパリに戻った。オルガは再び手術と療養が必要になり、12月初旬まで入院していた。この長期にわたる妻の不在の間、ピカソはマリー=テレーズと自由に交際をしていた。1930年、ピカソはパリの北西の1時間ほどの距離にあるボワジュルー英語版というシャトーを購入した。ピカソはそこで、平日はマリー=テレーズと過ごし、週末にはオルガとパウロが訪れた。1932年にジョルジュ・プティの画廊で開催されたピカソの初の大回顧展で、ピカソは公然とマリー=テレーズを描いた作品を多数展示した。オルガは激しい嫉妬と疑念に駆られた。ピカソの孫(パウロの息子)のベルナール・ルイズ=ピカソは、この頃にはオルガもピカソの不倫に気づいていたのではないかと考えている。この時期にピカソが描いたオルガの姿には、彼女の動揺が見て取れる。1931年のクリスマスに描かれた『スティレットを持つ女』は、不幸な妻を痛ましいほどに風刺したものである[7]

1935年、オルガは友人から、ピカソがマリー=テレーズと不倫していることと、マリー=テレーズが妊娠していることを知らされた。オルガはひどく落ち込み、離婚を申請して、息子パウロとともに家を出てホテルに滞在した。オルガはボワジュルー城を経て南仏に移り住み、20年後の1955年2月11日にカンヌで癌により死去した。63歳だった[11]。遺体は誤って、ロシア人墓地ではなくイギリス人墓地に埋葬された[7]

法律で義務付けられている離婚時の財産の均等分割をピカソが拒否したため、オルガは死ぬまでピカソとの婚姻関係を維持していた[11]

子孫

息子ポール(パウロ)は、1950年5月10日にエミリアン・ロッテフランス語版(Émilienne Lotte)と結婚し、1953年に離婚した[12]。エミリアンとの間には以下の2人の子供がいる。

その後、1962年3月9日にクリスティーヌ・ポープラン(Christine Pauplin)と結婚した。クリスティーヌとの間には以下の1人の子供がいる[13]

パウロは1975年6月5日に死去した[16]

大衆文化において

1996年の映画『サバイビング・ピカソ』では、オルガの役をイギリス人女優ジェーン・ラポテア英語版が演じた[17]。2004年の映画『モディリアーニ 真実の愛』では、オルガの役をチェコスロバキア出身の女優エヴァ・ハーツィゴヴァが演じた。テレビドラマ『ジーニアス』第2シーズンでは、オルガの役をロシア人女優Sofya Doniantsが演じた。

脚注

参考文献

外部リンク

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