マリー=アンヌ・コロー
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パリで生まれたが出自はほとんど知られていない。孤児となり15歳で彫刻家のジャン=バティスト・ルモワーヌ(Jean-Baptiste Lemoyne: 1704 -1778)のモデルとなったことから美術界に入った[1]。肖像彫刻家のルモワーヌから影響を受けたとされる。ルモワーヌと親しい彫刻家のエティエンヌ・モーリス・ファルコネ(1716-1791)の弟子になった。彼らの友人の哲学者のドゥニ・ディドロ(1713-1784)とも知人となり、コローの弟は『百科全書』を出版した書店で働き始めた。
ディドロや俳優のプレヴィル(Préville)といった人物のテラコッタ彫刻を制作するようになり、1866年にファルコネがピョートル大帝のモニュメントの制作するためにエカチェリーナ2世の宮廷に招かれた時、18歳であったコローはサンクトペテルブルクに同行した。若い女性彫刻家として人気になり1866年12月にコローはサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーに作品を発表し、1767年1月20日にアカデミーの会員に選ばれた。エカチェリーナ2世からも注文を受け、多くの報酬が得られるようになった。
1777年にサンクトペテルブルクで師匠のファルコネの息子で画家のピエール=エティアンヌ・ファルコネ(Pierre-Étienne Falconet: 1741-1791)と結婚した。娘が生まれたが、この結婚は失敗に終わり、夫に対して虐待を理由に裁判を行い離婚し、1778年にコローは赤ん坊を連れてフランスへ戻った。
1779年にパリを離れ、オランダで働いていたエティエンヌ・モーリス・ファルコネと働き、ハーグで、解剖学者のペトルス・カンパーや、オラニエ公のウィレム5世、オラニエ公妃ヴィルヘルミーネの肖像彫刻を制作し、これがコローの最後に知られている作品となった。
1783年から1791年までパリに住み、脳卒中で部分的に麻痺が残った義父のエティエンヌ・モーリス・ファルコネのをした。ファルコネの没後、フランス北部モゼル県のマリモン(Marimont-lès-Bénestroff)に住み、1821年にモゼル県のナンシーで亡くなった[2]。