Wikiwand AI

マンギト朝

1785年から1920年までの中央アジアの国家 From Wikipedia, the free encyclopedia

マンギト朝(マンギトちょう、ウズベク語: Манғитлар сулоласи、Mangʻitlar sulolasi)は、テュルク系民族ウズベクの一種族であるマンギト族の王朝 (1785年- 1920年) [1]ブハラ・ハン国の第3王朝。マンギト朝の君主号はハンではなく、アミールであったため、ブハラ・アミール国とも呼ばれる[2]

概要

18世紀ブハラ・ハン国第2王朝のジャーン朝の勢力が衰え、マンギト族が政治の実権を握り、マンギト朝を樹立した[3]。当初マンギト族はチンギス・ハンの末裔と称して、同国のアターリク (父、師伝の意) の称号に甘んじていたが、1785年シャー・ムラードがアミール位につき、以後歴代の君主はマンギト族が占めるにいたった[4]。1866~68年に帝政ロシアの保護下に入り、1920年ロシア革命によってマンギト朝の支配は終った[5]

歴史

ムハンマド・ラヒームの治世

ウズベク族の一部族にマンギトという部族があった[6]。その首長ムハンマド・ラヒーム・ビージャーン朝の宰相として大きな貢献をした[6]。彼は無能なジャーン朝の君主アブル・ファイズが死ぬと、後を継いだその長男アブドゥル=ムウミンを暗殺して自ら君主の座に就いた[6]。この時ムハンマド・ラヒーム・ビーはすでに老齢であったが、死去する直前にジャーン朝のアブル=ガーズィーをハンに指名した[7]。しかし、アブル=ガーズィーもすでに老齢であったので、ムハンマド・ラヒーム・ビーの従兄弟マスームが代わって政権を握った[7]

シャー・ムラードの治世

1784年頃、マスームはシャー・ムラードと名乗ってアミール位に就き、ガージャール朝ホラーサーンに侵入して古都メルヴを包囲した[7]。当時のメルヴは付近を流れるムルガーブ川の水を利用して、西トルキスタンで最も富裕なオアシスの一つであった[7]。シャー・ムラードはこの水利設備を破壊して、市民の食糧源を断ち、メルヴを降伏させた[7]。そして莫大な戦利品を獲得し、そのうえ市民の大部分をブハラに強制移住させた[7]。シャー・ムラードはガージャール朝領に侵入してホラーサーンを掠奪し、多数のペルシア人男女を奴隷としてブハラに送った[7]。そのため、奴隷の価格が暴落したとも言われている[7]。シャー・ムラードが東部ペルシアにもたらした荒廃は13世紀モンゴル帝国の侵入に匹敵すると伝えられている[7]。シャー・ムラードは1799年に死去した[7]。彼はその容赦ない征服活動の印象とは反対に、部衆の間では敬虔で有徳なイスラム君主とされていた[7]。彼の支配下のブハラはイスラムの楽園と呼ばれ、イスラム教の隆盛と経済的繁栄には著しいものがあった[7]。シャー・ムラードの治下ではイスラームの法規・規定の違反は厳罰に処され、酒とタバコも厳禁で、窃盗と売春は死刑とされた[7]

サイイド・ハイダル・トラの治世

シャー・ムラードはその子サイイド・ハイダル・トラを後継者に指名したが、例によって王位を巡る紛争が始まった[7]。このころには中央アジアにも大砲が導入され、サイイド・ハイダル・トラはこの近代的武器によって反乱軍を撃破した[8]。彼は即位初期には成功したが、その後は対立していたヒヴァ・ハン国の攻勢に対抗できず、ブハラ周辺の侵入を防ぐことに失敗した[8]。その後まもなく彼は3万の軍を集めてヒヴァ・ハン国に反撃する[8]。これに対し、ヒヴァ・ハン国のハン・イルトゥザル・イナクは少数の精鋭を指揮して後方を脅かしたが、ブハラ軍はこれも撃退した[8]。サイイド・ハイダル・トラはこのヒヴァ・ハン国との戦いにおける一応の成功に満足してブハラに帰還し、以後は無気力なイスラム信者として後宮の女たちにとり囲まれた生活のうちに1826年死去した[8]

ナスルッラーの治世

ナスルッラー・ハーンはサイイド・ハイダル・トラの三男で、アミール位に即く可能性はほとんどなかった[8]。しかし、彼は義父であったアヤーズ・トゥプチ・バーシはもちろんのこと、有力な軍隊指揮者たちに対しても彼らの歓心を買うためにあらゆる手段を弄した[9]。サイイド・ハイダル・トラが亡くなると、その長男フサイン・ハーンがアミール位に即いたが、ナスルッラーは彼に対し、表面では極めて忠誠の意を表した[9]。しかし、フサインが3か月で死去すると、ナスルッラーはただちにサマルカンドでアミールに即位した[9]。ところがその兄弟のウマル・ハーンはナスルッラーの不在に乗じてブハラの支配権を奪取した[9]。ナスルッラーは急遽ブハラに引き返し、これを包囲して降伏させた[9]。ウマルはブハラの陥落以前に脱出・逃亡したが、彼を支持した人々は容赦なく処刑された[9]。ナスルッラーはこうして政権を手中におさめると、次にはその義父であり有力な支持者であるアヤーズ・トゥプチ・バーシを監禁し、また、軍の指揮者を次々に処刑した[9]。もっとも忠実なナスルッラーの擁護者であったイスラームの宗教的指導者の権威を剝奪し、すべてをアミールのもとに集中した[9]1840年ロシア帝国の使者バタニエフはブハラに入り、ナスルッラーに多額の贈物をしたが、何も得られないままに帰国した[10]1842年イギリスはブハラに使者を派遣し、対ロシアのためブハラ・アミール国を懐柔させようとしたが、使者の一人であるストッダード大佐はたちまち捕らえられ、続いて出発したアーサー・コノリー大尉もまた捕らえられた[10]。捕らえられたストッダードとコノリーはイスラム教への改宗を拒否したため、斬首された[10]1860年、ナスルッラーは死去した[10]。彼の病床における最後の命令は、彼の命に従わなかった義弟の本拠シャフリサブスを屠り、その妻子をすべて殺せというものであった[10]

サイイド・ムザッファルッディーンの治世

ナスルッラーの後を継いだのは子のサイイド・ムザッファルッディーン・ハーンである[10]。彼の征服欲と残忍性もまた父に劣るものではなかった[10]。サイイド・ムザッファルッディーン・ハーンは38歳でアミールに即位したが、ただちにシャフリサブスとコーカンドの奪取を謀り、さらには東トルキスタン侵入の野望を抱いた[10]。しかし、キプチャク人の強い抵抗に遭ってこの征服計画は進捗しなかった[10]。このころロシア帝国の中央アジア経略は加速され、タシュケントチェルナイエフ将軍麾下のロシア軍によって占領された[11]。サイイド・ムザッファルッディーン・ハーンはロシア軍に対してその撤退を強硬に要求し、もし拒否された場合には全イスラム教徒の聖戦(ジハード)によって対抗すると通告した[11]。これに対し、チェルナイエフは歩兵14大隊、コサック騎兵4大隊、大砲16門の軍隊を指揮してサマルカンドへ向かった[12]。しかし、住民の強い反感のために補給困難に陥り、引き返さざるを得なかった[12]。このロシアの失敗はイスラム指導者たちに自信を与え、サイイド・ムザッファルッディーン・ハーンは4万の兵を集めてタシュケントの奪回をはかった[12]。この頃のロシア軍はチェルナイエフに代わってロマノフスキーが司令官に任命され、彼は3600人の兵を率いてタシュケントを出発し、ホジェンド付近で4万人と号したアミール連合軍を破った[13]。さらに進撃を続け、1866年にはザラフシャン盆地を占領した[13]。この年、モスクワ政府はコンスタンティン・ペトロヴィッチ・カウフマン将軍をタシュケントを首府とするトルキスタン総督に任命した[13]。50万ルーブルの損害賠償金の支払いを条件に和平を提議した[13]。しかし、サイイド・ムザッファルッディーン・ハーンが回答しなかったので、将軍はサマルカンド攻撃を決定し、1868年5月12日に自ら3600の兵を率いてこの都市近くのアミール連合軍が布陣するザラフシャン川左岸の高地を奪取してサマルカンドへ進撃した[13]。翌日サマルカンドは降伏し、カウフマンは数百の守備兵を残してブハラへ向かった[13]。ロシア軍がサマルカンドを離れると、市民の誘導により、2万のイスラム軍が入城してロシアの守備兵に攻撃を加えた[13]。守備兵は勇敢に防戦したが、200人近くの死傷者を出した[13]。伝令によってこれを知ったカウフマンは直ちに引き返してサマルカンドに入り、報復として虐殺と掠奪をおこなった[14]1885年、これによりサイイド・ムザッファルッディーン・ハーンはアミールを退位した[14]。サマルカンドはロシア帝国に併合されてトルキスタンの一部になり、ブハラも間もなく降伏した[14]

滅亡

戦争と革命の連続はトルキスタンにも大きな影響を与え、1920年には最後のアミールであるアブドゥル・サイイド・アーリムトルコ青年トルコ党に倣って組織され、ソヴィエト軍の支持を得た青年ブハラ党によって廃位され、翌年にはアフガニスタンに亡命した[15]

行政区画

ブハラ・アミール国の行政区画

ナスルッラー・ハーンの治世の間、首長国の領土が最も拡大した時期には、ブハラは30の地域(ベグリク)から構成されていた。これらは以下の通りである。

カルシグザルチラクチキタブシャフリサブスヤッカボグバイスンデノウシェラバードヒサールコラテギンダルヴォズバルジュヴォンシュグノンルションクリャーブクルガンテパコバディヨンカリフ、カリ(カルシ方面)、ブルダリクカラクリナラズムチャルジョイカルマナジヨヴッディンヌラタハティルチウルグットサマルカンド地域である。

これらに加えて、ジャッザフ、オラテパ、タシュケント(1784年)、トルキスタン市などの近隣地域も、この時期には一時的に首長国に含まれていた。

1916年時点では以下のベグリクが存在していた。

  1. バルジュヴォン(現在のタジキスタン・ハトロン州)
  2. ヒサール(現在のタジキスタン)
  3. ブルダリク(現在のトルクメニスタン・レバプ州)
  4. グザル(現在のウズベキスタン・カシュカダリヤ州)
  5. チャルジュイ(現在のトルクメニスタン・レバプ州)
  6. ダルヴァス(1878年頃、現在のタジキスタン・ダルヴォズ地区)
  7. デハナウ(デノウ、現在のウズベキスタン・スルハンダリヤ州)
  8. カバクリ(現在のトルクメニスタン・レバプ州)
  9. カラクリ(現在のウズベキスタン・ブハラ州)
  10. カラテギン(現在のタジキスタン・ラシュト地区)
  11. カルシ(現在のウズベキスタン・カシュカダリヤ州)
  12. カッタクルガン(現在のウズベキスタン・サマルカンド州)
  13. クリャーブ(現在のタジキスタン・ハトロン州)
  14. カルシ(重複記載、同地域)
  15. ケルキ(現在のトルクメニスタン・レバプ州)
  16. ヌラタ(現在のウズベキスタン・ナヴォイ州)
  17. パンジケント(現在のタジキスタン・スグド州)
  18. ルション(現在のタジキスタン・ゴルノ=バダフシャン自治州)
  19. サマルカンド(現在のウズベキスタン・サマルカンド州。1868年以降ロシア領)
  20. シャフリサブス(約1870年、現在のウズベキスタン・カシュカダリヤ州)
  21. ウルグット(現在のウズベキスタン・サマルカンド州)
  22. ファルガル(現在のタジキスタン・スグド州)

歴代君主

マンギト朝の君主号はアミール(Amīr)である。

さらに見る 代数, 名前 ...
代数 名前 在位期間 備考
- ムハンマド・ラヒーム・ビー 1756年 - 1758年 マンギト朝を創始。1753年アミールを称し、1756年ハンを僭称した。
- ダニヤル・ビー 1758年 - 1784年 ムハンマド・ラヒームの叔父。
1 シャー・ムラード(マスーム) 1785年 - 1799年 ダニヤルの子、アミールを称する
2 サイイド・ハイダル・トラ 1799年 - 1826年 シャー・ムラードの子。
3 フサイン・ハーン 1826年 サイイド・ハイダル・トラの長男。
4 ナスルッラー・ハーン 1826年 - 1860年 サイイド・ハイダル・トラの三男。
対立 ウマル・ハーン 1826年 サイイド・ハイダル・トラの子。
5 サイイド・ムザッファルッディーン・ハーン 1860年 - 1885年 ナスルッラー・ハーンの子。1868年、ロシア帝国の保護国になる。
6 アブドゥル・アハド・ハーン 1885年 - 1910年 サイイド・ムザッファルッディーン・ハーンの子。
7 アーリム・ハーン 1910年 - 1920年 労農赤軍の部隊により打倒。カーブルに逃亡し死去。
閉じる

脚注

参考資料

関連項目

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks