マーケイター・クーパー
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1843年11月9日、クーパーは440トンの捕鯨船マンハッタン(Manhattan)の船長としてニューヨーク州サグハーバー(Sag Harbor)を出港した。1845年3月14日、マンハッタンは小笠原諸島の鳥島[1]で11人、また翌日に漂流中の11人の日本人漂流民を救出した[2]。
クーパーは房総半島沖で4人の漂流民をボートで上陸させ、残りの漂流民を港に送り届けたい旨を伝えさせた[3]。日本は鎖国中であり、外国人との接触は嫌がったが(但し、この3年前に天保の薪水給与令がでて、やや柔軟な政策に転換していた)、1845年4月18日に幕府はマンハッタン号の浦賀への入港を認めた(マンハッタンは強風のため一旦北方に流されたが、その間に幕府では老中首座の阿部正弘他幕閣の協議があった)。クーパーの日記によると、それぞれ15人が乗った約300隻の日本船に曳航されての入港であった。「我々は全員が武器を預け、帰国までそれは返却されなかった。何人かの高官(一人は江戸詰めの浦賀奉行土岐頼旨)が船を訪れ、彼らは何れも友好的であった。」
日本人は彼の船と、またマンハッタンの乗組員では唯一の黒人であったパイラス・コンサー(Pyrrhus Concer)とアメリカ先住民であるエリーザー(Eleazar)を興味深く調べた。
日本側は、水、コメ20俵、麦2俵、小麦粉1箱、さつまいも11俵、鶏50羽、木材、大根、お茶10ポンドを無料で供給し、その他漆器などのおみやげを渡し、漂流民の送還に感謝した。また、クーパーに対して日本に戻ってこないようにとも告げた。
4月21日、300隻の日本船が、マンハッタンを沖合20マイルまで曳航した。
クーパーはこのとき、日本人漂流民が使用していた海図を持ち帰り、1846年10月14日の帰国後に米国政府に提出した。この地図はマシュー・ペリーの1853年の日本来航の際に利用されたと言われている。