ムスタアリー
ファーティマ朝第9代カリフ
From Wikipedia, the free encyclopedia
アブル=カースィム・アフマド・ブン・アル=ムスタンスィル(アラビア語: أبو القاسم أحمد بن المستنصر, ラテン文字転写: Abu'l-Qāsim Aḥmad b. al-Mustanṣir, 1074年9月16日 - 1101年12月12日)、またはラカブ(尊称)でアル=ムスタアリー・ビッラー(アラビア語: المستعلي بالله, ラテン文字転写: al-Mustaʿlī Biʾllāh,「神に育てられし者」の意)[1]は、第9代のファーティマ朝のカリフである(在位:1094年12月29日 - 1101年12月12日)。
ヒジュラ暦495年サファル月17日
カイロ
第8代カリフのムスタンスィルの恐らく末の息子として生まれたムスタアリーは、ムスタンスィルの死後に義兄にあたるワズィール(宰相)のアル=アフダル・シャーハンシャーフが主導した事実上のクーデターによってカリフに即位した。これに対し、ムスタアリーの長兄でムスタンスィルの最有力の後継者候補と考えられていたニザールがアレクサンドリアで反乱を起こしたものの、最終的に敗れて死亡した。さらに、この後継者をめぐる混乱はファーティマ朝が信奉していたイスラームの宗派であるイスマーイール派の分裂を招くことになった。大部分のペルシアとイラクのイスマーイール派の共同体はムスタアリーではなくニザールを正当なイマームと認め[注 1]、ニザール派と呼ばれる独自のイスマーイール派の分派を形成し、ファーティマ朝との関係も絶った。
一方のムスタアリーはその治世を通じてファーティマ朝の事実上の支配者となったアフダルの従属下に置かれた。ファーティマ朝の中心地であるエジプトはアフダルの優れた統治によって繁栄が維持され、スンナ派を信奉するセルジューク朝の侵攻を許していたシリアでも第1回十字軍の到来による混乱の中で一時的にエルサレムの奪還にも成功した。しかし、シリア北部から南下してきた十字軍によって1099年7月にエルサレムを再び占領され、その直後に起きたアスカロンの戦いでもアフダルに率いられたファーティマ朝軍が十字軍に敗れた。ファーティマ朝がシリアからの後退を強いられる中、ムスタアリーは1101年12月に死去し、5歳の息子のアーミルが後継のカリフとなった。
出自と背景
後にムスタアリーのラカブを名乗ってカリフとなるアブル=カースィム・アフマドは、ファーティマ朝の首都のカイロにおいて、1074年9月16日(ヒジュラ暦467年ムハッラム月20日)[1][2]、または1075年9月2日か4日(ヒジュラ暦468年ムハッラム月18日か20日)[3]にファーティマ朝の第8代カリフであるムスタンスィル(在位:1036 - 1094年)の恐らく末の息子として生まれた[1][4][注 2]。1060年に生まれたムスタンスィルの別の息子も後のムスタアリーと同じくアブル=カースィム・アフマドの名前を与えられており、後世の史料の中にはムスタアリーの生年をこの別の息子の生年と混同しているものもある。現代の学者はこの年長の息子がムスタアリーの生まれる前に死亡したため、後にムスタアリーとなる息子にその名前が再び与えられたと推測している。また、一部の史料はムスタアリーのことを「より年少の」あるいは「最年少の」アブル=カースィム・アフマドと呼んでいる[3][6]。
ファーティマ朝は973年以来カイロを首都としてエジプトに基盤を確立していたが、アフマドが誕生した当時は深刻な危機に見舞われていた。シリアの大部分はセルジューク朝に奪われ、エジプトではファーティマ朝のトルコ人軍団とアフリカ系黒人軍団の衝突によって中央政府が機能麻痺の状態に陥り、飢饉と政治混乱が広がった。さらにムスタンスィルは無力な傀儡と化して宮殿内で実質的な監禁状態に置かれ、軍閥の有力者たちのなすがままとなっていた[7]。1074年1月にワズィール(宰相)に就任した将軍のバドル・アル=ジャマーリーが国内の平和と秩序を取り戻し、セルジューク朝の侵攻を撃退したことでムスタンスィルと王朝の命脈を保ったが、その代償としてムスタンスィルは政府、軍隊、さらには宗教と司法の行政をも含むあらゆる権限をバドルに委譲した[8][9]。
後継者争いと即位

アフマドにとって最年長の異母兄にあたるアブー・マンスール・ニザールは、従来の慣例に従って父親の後継者として当初は確実視されていたとみられ[1]、現代の複数の歴史家もしばしばニザールが父親の後継者に指名されていたと説明している[10][11][12]。しかし、ムスタンスィルの死の時点までにニザールが後継者として正式に指名されていたという記録はなく、実際にはムスタンスィルが死去するまで正式に指名されることはなかったとみられている[1][13][注 3]。マムルーク朝時代の歴史家のマクリーズィー(1442年没)によれば、ニザールとバドル・アル=ジャマーリーの息子のアル=アフダル・シャーハンシャーフは互いに深い敵意を抱いており、アフダルはニザールへの正式な後継者の指名を阻止するためにムスタンスィルに圧力をかけていた[15][16]。
ワズィールのバドルは1094年6月21日に死去し[17]、これを機に権力を取り戻そうとしたムスタンスィルはバドルの奴隷軍人の1人をワズィールに任命しようとしたが、この任命はバドルの配下にあった軍団から拒絶され、軍団の恫喝に屈したカリフは最終的にアフダルを後継のワズィールに任命した[17][18]。さらに、ムスタンスィルは死の直前の時期にバドルの娘のシット・アル=ムルクとアフマドを結婚させることにも同意した[1]。
ムスタンスィルはシーア派の最も重要な祝祭であるイード・アル=ガディールの日にあたる1094年12月29日に死去した[2]。マクリーズィーによれば、アフダルはニザールを差し置いてアル=ムスタアリー・ビッラー(神に育てられし者)の即位名とともにアフマドをカリフに即位させた。そしてムスタンスィルの息子たちの中で最も著名な人物であったとみられるニザール、アブドゥッラー、およびイスマーイールの3人を宮殿(ファーティマ朝大宮殿)に呼び出し、カリフの地位に据えたムスタアリーに忠誠を誓うように求めたが、3人ともこれを拒否した。3人はムスタアリーを認めなかっただけでなく、それぞれムスタンスィルが自分を後継者に選んだと主張した。さらにニザールは後継者の指名を裏付ける文書を所持しているとさえ語った[19][20]。このような拒絶はアフダルを完全に驚かせたとみられ、兄弟たちは最終的に宮殿から立ち去ることを認められたが、その後、アブドゥッラーとイスマーイールが宮殿のすぐ近くのモスクに向かったのに対し、ニザールは直ちにカイロから脱出した[19][20]。そして混乱はこれだけに止まらず、ムスタンスィルの死を知ったカイロの教宣長官(ダーイー[注 4]の長官)のバラカートがアブドゥッラーをアル=ムワッファク(「神に祝福されし者」の意)の即位名とともにカリフであると宣言したことでさらなる混乱に発展した[22][注 5]。しかし、アフダルはすぐに事態の主導権を取り戻し、バラカートは逮捕され(後に処刑された)、アブドゥッラーとイスマーイールは監視下に置かれた末にムスタアリーの即位を公に認めた。そして役人の大規模な集会が開かれ、集会の参加者はムスタアリーがイマームでありカリフであるとしてムスタアリーを歓呼で迎えた[15][注 1]。
ムスタアリーの息子で後にカリフとなったアーミル(在位:1101年 - 1130年)は、特にニザール派の主張(詳細は次節参照)から父親の継承を擁護するために、1122年に『アル=ヒダーヤ・アル=アーミリーヤ』と呼ばれる教書を公布した[29]。この教書の中でアーミルは、かつてムスタンスィルが息子たちを首都の混乱から守るために地方へ避難させた際に、より高い立場にある息子ほどカイロに近く、重要度の低い息子ほど遠方へ送り出されたはずであるといったいくつかの議論を展開している。この時、アブー・アブドゥッラーがアッコへ、アブル=カースィム・ムハンマド(後のカリフであるハーフィズの父親)がアスカロンへ、そしてニザールがダミエッタへ送り出されたが、アフマドについては宮殿を離れることさえ許されなかった[4][30]。
現代の歴史家であるポール・E・ウォーカーは、王子たちは立場の上下に関係なく保護のために送り出されたのであって、この教書における議論の結論は政権側にとって都合の良い意図的に曲解された主張であると指摘している[4]。ウォーカーによれば、アブー・アブドゥッラーが当時バドル・アル=ジャマーリーの強力な軍隊が駐屯していたアッコへ送り出されたのは、むしろ父親にとって重要性が高く、父親がアブー・アブドゥッラーの安全を確保したいと強く望んでいたことを示している[4]。また、信頼性の高いマクリーズィーの記録によれば、この出来事は1068年のこととされているため、ウォーカーはカイロに残された未成年の息子はまだ生まれていない将来のムスタアリーではなく、同名の兄を指していることは明らかであると述べている[4]。
また、その他の記録ではムスタンスィルがアフマドの結婚式の祝宴でアフマドを後継者に選んだという話や、『アル=ヒダーヤ・アル=アーミリーヤ』が公布された時期にニザールの同父母の姉妹とされる人物がヴェールに包まれて現れ、ムスタンスィルが死の床で自分を呼び出し、アフマドを後継者に指名したことを証言したとする話を伝えている[1][31][32][33]。
ファルハード・ダフタリーなどの現代の歴史家は、これらの話はほぼ間違いなくムスタアリーの即位を遡及的に正当化しようとする試みであると考えており、ムスタアリーの即位はアフダルによる事実上のクーデターであったとみなしている[11][34]。このようにアフダルが若年の義弟であるアフマドをカリフの地位に据えるという行動に出たのは、父親のバドルの後を継いだばかりで自身の立場が不安定であったことも要因になっていたとみられている。一方のムスタアリーも登位までの過程を完全にアフダルに依存しており、アフダルは婚姻などの手段も利用しながら、まだ安定していなかった自分の権力を脅かすとは考えにくい従順な傀儡へとムスタアリーを仕立て上げていった[11][35][36]。
ニザールの反乱とニザール派の分離
カイロを脱出してアレクサンドリアに向かったニザールは、現地の総督と民衆の支持を得てアル=ムスタファー・リッ=ディーニッラー(神の宗教のために選ばれし者)のラカブを名乗り、イマームとカリフの地位を宣言した。ニザールの反乱は当初は成功裏に進み、1095年2月に行われたアフダルによるアレクサンドリアへの攻撃を容易に撃退すると、ニザールの軍隊はカイロの郊外まで進軍した。しかし、続く数か月の間にアフダルは賄賂と贈り物によってニザールに与していたアラブ諸部族の忠誠を取り戻すことに成功し、その結果、弱体化したニザールの軍隊はアレクサンドリアまで押し戻された。包囲下に置かれた都市でニザールとその下に留まっていた支持者たちは最終的に降伏を余儀なくされ、ニザールはカイロに連行されるとそこで幽閉された末に死亡した[13][37][38]。
当時ファーティマ朝と同様にイスマーイール派を信奉していたイエメンのスライフ朝の女王であるアルワー・アッ=スライヒーに送られた現存するムスタアリーの即位を伝える書簡は、「公式に」流布された事件の内容を伝えている。それによれば、ニザールはムスタンスィルの他の息子たちと同様に当初はムスタアリーのイマームの地位を受け入れ、敬意を払っていたが、欲と嫉妬に駆られて反乱を起こしたとされている。また、アレクサンドリアにおける降伏までの経緯はある程度詳細に記されているものの、ニザールの最期については何も触れられていない[39]。

これらの一連の出来事はイスマーイール派の運動において今日に至るまで続く恒久的な分裂を引き起こした[5][40]。ムスタアリーはファーティマ朝の支配者層とイスマーイール派の公的な教宣組織(ダアワ)[注 5]、そしてエジプト、シリア、およびイエメンでこれらの指導者の影響下に置かれていたイスマーイール派の共同体からその地位を認められたが、中東のより広範な地域、特にペルシアとイラクの共同体の大半はムスタアリーの即位を認めなかった。ペルシアのイスマーイール派のダーイーを率いていたハサン・サッバーフは、偽りのない信念によるものだったのか、あるいはカイロの支配から逃れるための都合の良い口実だったのか、理由ははっきりしないものの速やかにニザールのイマームへの権利を認め、カイロとの関係を断つとともに独立した教宣組織(ダアワ・ジャディーダ)を確立した。この出来事によって、イスマーイール派の運動は互いに対立するムスタアリー派(後にさらにタイイブ派とハーフィズ派に分裂)とニザール派へ恒久的に分裂することになった[41][42]。
ニザールの息子の中の1人であるフサインは1095年に王家の一部の人々(この中にはアフダルによってムスタアリーの承認を強いられていたイスマーイールも含まれていた可能性がある)とともにエジプトから西方のマグリブに逃れ、そこでニザール派とは別にカイロのムスタアリーの政権に対抗する亡命勢力を形成した[13][37]。そのフサインは軍隊を組織して1132年にエジプトへの帰還を試みたものの、当時のカリフであるハーフィズ(在位:1132年 - 1149年)の謀略によって殺害された[43][44]。ニザールの子孫による最後の反乱は1162年に起きたフサインの息子のムハンマドによるものだったが、多くの支持者を集めつつもこの反乱も失敗に終わり、ニザールの子孫がエジプトで権力を獲得する望みは叶わなかった[45][46]。
治世
ムスタアリーはその治世をアフダルに対する従属の中で過ごした[1]。13世紀のエジプトの歴史家であるイブン・ムヤッサルは、「アフダルはワズィールというよりもスルターンや王のように国政を司ったため、ムスタアリーには特筆すべき事蹟がなかった」と記している[47]。アフダルは公的な儀式においてでさえカリフに取って代わり、ムスタアリーを人目に触れさせず宮殿に閉じ込めていた[48]。その一方でアフダルは有能な統治者であり、その優れた統治によってムスタアリーの治世を通じてエジプトの継続的な繁栄を確かなものにした[1]。
ムスタアリーは同時代のスンナ派の歴史家であるイブン・アル=カラーニスィーによってその公正な人格を賞賛されているが、他の中世の歴史家はムスタアリーのシーア派に対する狂信的なまでの宗教的情熱を強調しており、その治世におけるイスマーイール派の教宣活動は非常に活発であったとみられている[1]。また、15世紀のイエメンのタイイブ派の宗教指導者で歴史家のイドリース・イマードゥッディーンは、ムスタアリーとイエメンのイスマーイール派の教宣組織(特にアルワー・アッ=スライヒーと現地のダーイーのヤフヤー・ブン・ラマク・ブン・マーリク・アル=ハンマーディー)の間の交流関係について多くの情報を伝えている[1]。

外交面においてファーティマ朝は、スンナ派のセルジューク朝とその支援を受けていたアッバース朝のカリフであるムスタズヒル(在位:1094年 - 1118年)との対立の激化に直面した。セルジューク朝はシリアにおける支配地をガザにまで拡大し、一方のアッバース朝は1095年にアリー家の血を引くとするファーティマ朝の主張を虚偽であると宣言した公式文書を公布した[2]。それでもなおファーティマ朝は1096年にシリア北部のアパメアを自発的な降伏に導き、1097年の2月か3月にはスールの支配を回復するなど、いくつかの成功を収めることができた[1][49]。また、アフダルはダマスクスの攻略を支援することを見返りとして、当時アレッポを支配していたシリア・セルジューク朝のファフル・アル=ムルーク・リドワーンと同盟を結ぼうとした[1][2][50][注 6]。そのリドワーンは1097年の前半にムスタアリーの宗主権を認めることに同意し、8月28日にはフトバ(金曜礼拝の説教)をファーティマ朝のカリフの名の下で朗誦させた。しかし、この行動はスンナ派のイスラーム世界における強い反発を招き、その結果リドワーンは4週間後に同意の撤回を余儀なくされ、ムスタアリーの名によるフトバを取り止めてムスタズヒルに謝罪の使者を送った[2][50][51][注 7]。

同じ年(1097年)に第1回十字軍がシリアへ侵入し、アンティオキアを包囲した。アフダルは使節を派遣して十字軍との接触を図りつつ、十字軍に注意が向けられていた状況を利用して1098年の7月か8月にエルサレムの支配をアルトゥク朝のトルコ人の支配者から奪還した[1][54]。この出来事はスンナ派の史料においてファーティマ朝が十字軍と共闘したという非難を浴びることになった。13世紀の歴史家のイブン・アル=アスィール(1232/3年没)は、ファーティマ朝がすでにエジプトへ侵攻する準備を整えていたセルジューク朝との戦いを有利に進めるために十字軍をシリアに招き入れたとさえ主張している[2][55]。その一方でシリアの分割に関して十字軍と合意に達したと信じていたアフダルは十字軍が南下してくるとは予想しておらず、その結果、1099年のエルサレムへの侵攻に不意を突かれることになった。結局、エルサレムは包囲戦の末に十字軍によって1099年7月15日に占領された。その後、1099年8月12日に起きたアスカロンの戦いでもアフダルに率いられたファーティマ朝軍は敗北し、その結果としてシリアにおける新しい勢力図が固まった[1][56]。十字軍の前進の結果、多くのシリアの人々がエジプトへ逃れたが、その影響によって1099年から1100年にかけてエジプトで大規模な食糧難が発生した[1]。
死と後継者
このようにファーティマ朝がシリアで後退を強いられる中、ムスタアリーは1101年12月12日(ヒジュラ暦495年サファル月17日)に死去した[1][2]。現代の歴史家であるハインツ・ハルムは、よく見られる話であるとしつつ、ムスタアリーが死去した時にムスタアリーはアフダルによって毒殺されたのではないかという噂が流れたと説明している[47]。ムスタアリーには3人の幼い息子がいたが、そのうち当時5歳のマンスールがアル=アーミル・ビ=アフカームッラーのラカブを名乗り、アフダルの手によってカリフに即位した[47][57][注 8]。アフダルはワズィールとして引き続き全権を掌握し、自分の娘をアーミルに嫁がせることで王家との関係を強化した[59]。ファーティマ朝はセルジューク朝と十字軍の侵攻によってシリアでの後退を余儀なくされ、さらにムスタアリーの即位をめぐってニザール派の分離を招いたことで国勢に翳りが見え始めたが、当面は十字軍が建国したエルサレム王国との戦いに主眼を置くことで王朝の正統性と権威の再確立を目指すことになった[60]。