メルキセデク1世

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現地語名 მელქისედეკ I
着座 1010年
離任 1033年
メルキセデク1世
全ジョージアのカトリコス総主教英語版
メルキセデク1世のイコン
現地語名 მელქისედეკ I
教会 ジョージア正教会
着座 1010年
離任 1033年
前任 スヴィモン3世グルジア語版
後任 イオアネ5世オクロピリグルジア語版
個人情報
死去 1033年
墓所 スヴェティツホヴェリ大聖堂
聖人
記念日 10月14日(新暦)
列聖 2002年10月17日
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メルキセデク1世グルジア語: მელქისედეკ Iグルジア語ラテン翻字: Melkisedek I1033年没)は、ジョージア正教会の聖職者であり、1010年から1033年まで全ジョージアのカトリコス総主教英語版を務めた[1]ジョージア王国の統一に伴い、首座主教の称号を従来の「カトリコス」から「カトリコス総主教」へと改めた。

カルトリ年代記グルジア語版』によれば、メルキセデク1世は「高貴な家の子」であり、バグラト3世の宮廷で育った。母方の叔父はアントニとして知られる。

メルキセデク1世はスヴィモン3世グルジア語版の死後、カトリコスの座を継ぎ、バグラティオニ朝の最盛期にあたるバグラト3世ギオルギ1世バグラト4世の3代の国王の治世を指導した。

メルキセデク1世はジョージア国王の使節として、ビザンツ帝国の皇帝の宮廷があるコンスタンティノープルをたびたび訪問し、ビザンツ皇帝バシレイオス2世と会談した[2]

業績

総主教称号の確立

メルキセデク1世は、ジョージア教会の首座主教として、初めて「カトリコス総主教」の複合称号を正式に用いた人物である。この称号は、メルキセデク1世が作成した遺言書「ムツヘタの座への書付」の中で初めて使用されたことが判明しており、これによりジョージア正教会の独立性と地位が象徴的に強化された。

教会の権威の強化

1031年、メルキセデク1世は国王バグラト4世に対し、ジョージア正教会の免税特権を請願し、承認を得た。これは当時、ジョージア正教会が国家に対して大きな影響力を持っていたことを示している[3]

スヴェティツホヴェリ大聖堂の再建と装飾

メルキセデク1世のカトリコス在任期間中、主要な業績としてスヴェティツホヴェリ大聖堂(現在の構造)の建設と装飾が挙げられる。

メルキセデク1世は、単に聖堂を再建しただけでなく、「外側の門や周囲の門廊の建設から始め、すべてを完成させた」とされる。さらにメルキセデク1世は「金、銀、宝石、真珠など、あらゆる装飾品」をもってスヴェティツホヴェリを飾り、ムツヘタの大聖堂の総主教区(サパトリアルコ)の拡張、美化、富裕化に尽力した。

遺言と死

メルキセデク1世が1031年または1033年頃に作成した遺言書「ムツヘタの座への書付」が残されている。この遺言書(12世紀の写しが現存)は、メルキセデク1世がスヴェティツホヴェリ大聖堂に寄進した物品、教会、修道院、村落の全リストを詳細に記録している。この遺言書は、11世紀のジョージアの経済、社会、政治、文化史を研究するための貴重な史料となっている。

また、この遺言書の中で、メルキセデク1世はスヴェティツホヴェリ大聖堂内に自身の埋葬場所を定めた。

南側の聖具室の隣、聖殉教者らの礼拝堂の中に私の墓を設け、この祭壇の上に、私の罪深い魂のために養育した者イオアネグルジア語版を時課の奉献者として任命する。

メルキセデク1世は1033年に死去し、遺言通り、スヴェティツホヴェリ大聖堂の南側にあるテシャヴィの聖イリア小聖堂に埋葬された。

列聖

2002年10月17日、ジョージア正教会によって列聖された。聖名日は10月1日(新暦10月14日)である[4]

碑文

注釈

外部リンク

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