スヴェティツホヴェリ大聖堂
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| スヴェティツホヴェリ大聖堂 | |
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スヴェティツホヴェリ大聖堂 | |
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| 所在地 | ムツヘタ=ムティアネティ州ムツヘタ地区ムツヘタ |
| 国 |
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| 教派 | ジョージア正教会 |
| 建築物 | |
| 過去の大聖堂 | |
| 設計者 | アルスキスゼ |
| 建築様式 | 大聖堂 |
| 様式 | 内接十字型 |
| 着工 | 1010年 |
| 完成 | 1029年(ギオルギ1世の治世中) |
| 建築物概要 | |
| 全長 | 57.7メートル (189 ft) |
| 全幅 | 27メートル (89 ft) |
| 最頂部 | 49メートル (161 ft) |
| ドーム数 | 1 |
| 建築資材 | 石 |
| 登録名: ムツヘタの歴史的建造物群 | |
| 区分 | 文化遺産 |
| 基準 | (3), (4) |
| 登録日 | 1994年 |
| 登録コード | 708 |
スヴェティツホヴェリ大聖堂(სვეტიცხოვლის საკათედრო ტაძარი)は、ジョージアの古都ムツヘタにある、ジョージア正教会の聖堂である。中世前期および中世盛期のジョージア建築の代表例であり、ユネスコによって世界遺産に認定されている[1]。大聖堂は現在、至聖三者大聖堂に次いでジョージアで2番目に大きな宗教的建築物である。
キリストの聖衣が埋葬されているとされるこの大聖堂は、古くからジョージア正教会の中心的な聖堂の一つであり、この地域で最も崇敬される礼拝所の一つである[2]。この大聖堂は何世紀にもわたり、歴代国王の埋葬地として機能してきた。なお現在の内接十字型の構造は、1010年から1029年の間に中世ジョージアの建築家アルスキスゼが完成させた。この場所自体は、4世紀初頭に遡ることができる。大聖堂の外装は、11世紀の典型的な装飾が良好な状態で保存されている。
スヴェティツホヴェリ大聖堂は危機に瀕した文化遺産であり[3]、さまざまな逆境を乗り越えてきた。大聖堂内部には11世紀以降の時代のフレスコ画が残存するが、ロシア帝国期の19世紀に大規模な塗りつぶしが行われ、多くが喪失した。今日、スヴェティツホヴェリ大聖堂は、ジョージア正教世界における四大聖堂の一つとされている[4]。
初期の歴史

最初の聖堂は4世紀、イベリア王ミリアン3世の治世中に建設された。ジョージア最初の聖堂建設地として、聖ニノがムツクヴァリ川とアラグヴィ川の合流点を選んだといわれている。
ジョージアの聖人伝によると、紀元1世紀、ムツヘタ出身のジョージア系ユダヤ人エリオズが、キリストの磔刑の際にエルサレムにいたとされる。エリオズはゴルゴタの丘でローマ兵からキリストの聖衣を買い取り、ジョージアに持ち帰った。故郷の町に帰還したエリオズは、妹のシドニアに出迎えられた。聖衣に触れたシドニアは、そのあまりの神聖さに感極まり、その場で息絶えたとされる。聖衣はシドニアの死んだ手から取り除くことができなかったため、シドニアは聖衣とともに埋葬された[5]。シドニアが聖衣とともに埋葬された場所は、大聖堂の基礎となっている。その後、シドニアの墓から巨大な杉の木が生えてきた。聖ニノは聖堂を建てるためにその杉を切り倒すように命じ、その杉で7本の柱を造って基礎とした。しかし、7本目の柱は超自然的な力により、ひとりでに空中に浮きあがった。その柱は、聖ニノが一晩中祈った後、地上に戻った。さらに、7本目の柱からは聖なる液体が流れ出し、この液体が人々のあらゆる病気を癒したといわれている。
カルトリ語で「スヴェティ」(სვეტი) は「柱」、「ツホヴェリ」(ცხოველი) は「生命の」あるいは「生ける」を意味し、これが大聖堂「スヴェティツホヴェリ」(生ける柱)の名前の由来となっている。この出来事を描いたイコンは、ジョージア全土で広く複製されており、大聖堂の入口から左手3番目にある柱にも見られる。イコンには、杉の木の切り株の根元に横たわるシドニアの遺体と、柱を天に向かって持ち上げる天使が描かれている。前景には聖ニノ、左右にはイベリア王ミリアン3世と、その妻ナナ王妃が描かれている[5]。紀元337年、ジョージアはキリスト教を正式に国教とした。
中世および近代
スヴェティツホヴェリ大聖堂はもともと4世紀に建立されたものであるが、歴史上、アラブの大征服(7世紀–8世紀)、ティムールのジョージア侵攻(14世紀)、トゥルクマーンのジョージア侵攻(15世紀)など、幾度となく被害を受けてきた。近年ではロシア帝国時代やソビエト連邦時代にも損傷を受けた。また建物は地震による被害も受けている。
現在のスヴェティツホヴェリ大聖堂は、ジョージアのカトリコス総主教メルキセデク1世が建築家アルスキスゼを招聘し、1010年から1029年の間に建設されたものである。当時のジョージア王はギオルギ1世であった。14世紀末、ティムールのジョージア侵攻によって破壊された後、大規模な再建が行われた。その後、15世紀初頭に大規模な改修が行われ、現在のドームが建設された。17世紀半ばにも再び改修が行われた。
1970年から1971年にかけて、建築家ヴァフタング・ツィンツァゼがスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復工事を監督した。このとき、聖ニノによる最初の聖堂跡に、ヴァフタング1世が5世紀後半に建立したバシリカの基礎が発見された。このバシリカは内接十字型が登場する以前の、ジョージアの聖堂建築初期の主流な様式であった。
大聖堂は、石やレンガで作られた防壁に囲まれている。この防壁は、エレクレ2世時代の1787年に建設された。
1830年代初頭、ロシア皇帝ニコライ1世が大聖堂を訪問した。これに伴い、聖堂の北面、西面、南面を囲む劣化の進んでいた門廊が取り壊された。これらの門廊は劣化が進んでいたためである。1963年の考古学的調査により、防壁の南側で11世紀の総主教の邸宅が発見された。聖堂の敷地内では、総主教アントン2世の宮殿の遺構が発見された。
建築

スヴェティツホヴェリ大聖堂はムツヘタの平坦な低地、旧市街の中に位置している。この大聖堂はムツヘタで最も重要な建築物であり、市内のほぼすべての場所から見ることができる。
1970年から1971年にかけての修復作業中、考古学者によって三層構造のバシリカの基礎が発見された。このバシリカは、聖ニノによる最初の聖堂跡に、ヴァフタング1世が建設したものと推定されている。その遺構は西側と南東側の部分、そして床下の柱の下にも確認できる。さらに、古い木造教会の遺構も十字形平面の南腕内部で発見された。
現在のスヴェティツホヴェリ大聖堂の様式は、1020年ごろに建立されたものであり、内接十字型の聖堂建築に基づいている。この様式はバグラト3世による王国統一後の主流な様式である。この様式の特徴は、ドームが聖堂の四方すべてにまたがって配置される点である。かつては南側・西側・北側にポルチコを持つ、より調和のとれた三段のシルエットであったが、南側と北側とポルチコは1830年代に撤去された。現在の大聖堂の正面入口は西側にある。
大聖堂の構造は、良好な音響効果を確保するように設計されている。ドームと壁面にある大きな窓からは、大量の光を取り込んでいる。平面構成は、横方向の腕が短く、縦方向の腕が長い十字形であり、東端にアプスを備える。ドームは大聖堂を良好な状態に保つため、何世紀にもわたって複数回再建されてきた。現在のドームは15世紀のものである。ドーム上部は17世紀に改築されたが、その際に高さが低くなった。
大聖堂に使用されている石材は、縁取りのある黄色味を帯びた砂岩を基調としている。アプスの窓の周りには赤色の石材が用いられている。キューポラの胴部に使用されている緑色の石材は、17世紀のものである。
大聖堂のファサードは豪華に装飾されている。全体に施されたブラインド・アーケードは、11世紀からそのままの状態である。アーチは、ファサードの形状に沿って高さが変化し、全体に流れるような動きの印象を与えている[6]。東面のファサードにある2つの高く深いニッチは、明るく照らされた周囲の壁面と明確な対比をなしている。それぞれの窓の周囲には装飾的な帯と、クジャクの尾を様式化したレリーフが施されている。このような装飾は、東面ニッチの上部にもみられる。東面のファサードの窓の上には碑文が刻まれており、この大聖堂がジョージアのカトリコス総主教メルキセデク1世によって建てられたことを伝えている。さらにその上部の屋根下には、19世紀に設けられた比較的新しい3つの増設窓があり、窓の南隣には翼を広げたワシのレリーフと、ライオンのレリーフが上下に並んでいる。
大聖堂の西面上部は大きな窓が大部分を占めている。窓の上と屋根の間の三角形のスペースにはキリストの昇天を表現した装飾が施されており、玉座に座るキリストと、その両側に2人の天使がいる様子が描かれている。この装飾は、コーニスの三角形とその下にあるアーチとの調和がある。壁面にあった当初の彫刻は現存していないが、複数回の修復がなされており、直近では19世紀に修復が行われた。
建築家アルスキスゼ

外側の北壁には、伝説が刻まれたレリーフがある。このレリーフには石工の象徴である指矩を持った右腕と右手が描かれており、次の碑文が刻まれている。
- ჄႤႪႨ ႫႭႬႨႱႠ ႠႰႱႳႩႨႱႻႨႱႠჂ. ႸႤႳႬႣႥႤႧ.
- 神のしもべ、アルスキスゼの手である。赦し給え。
東面のファサードにある碑文は、アルスキスゼが大聖堂の完成(1029年)を見るまで生きられなかったことを示している。
- ႠႶႤႸႤႬႠ ႤႱႤ ႼႫႨႣႠႨ ႤႩႪႤႱႨႠႨ ႾႤႪႨႧႠ ႢႪႠႾႠႩႨႱႠ ႫႭႬႨႱႠ ႫႠႧႨႱႠ ႠႰႱႳႩႳႱႱႻႨႱႠႨႧႠ. ႶႫႤႰႧႫႠႬ ႢႠႬႳႱႥႤႬႤ ႱႳႪႱႠ ႫႨႱႱႠ.
- この聖なる御堂は、汝の哀れなしもべ、アルスキスゼの手によって建てられた。主よ、その魂に安息を与え給え。
コンスタンティネ・ガムサフルディアの小説『巨匠の右手』は、アルスキスゼの後援者であり師でもあった司祭が、アルスキスゼの成功を嫉妬し、王への影響力を利用してアルスキスゼの右手を切り落としたという伝説を語っているが、その証拠となる文献は残されていない。さらに小説では、ギオルギ1世もまた、アルスキスゼの美しい恋人ショレナに嫉妬していたとされる。
イコンとフレスコ画

大聖堂の内壁はかつて、中世のフレスコ画で全面が装飾されていたが、その多くは現存していない。1830年代にロシア皇帝ニコライ1世がムツヘタを訪問する計画が立った際、ロシア当局は大聖堂を「より整然と見せる」ために回廊を取り壊し、古来のフレスコ画を白く塗りつぶした。結局のところ、皇帝は一度も大聖堂を来訪しなかった。現在では入念な修復作業の結果、13世紀の「黙示録の獣」の描写や黄道十二星座の絵図など、一部のフレスコ画が残っている[4]。
内壁には多数のイコンが描かれているが、そのほとんどは原品ではない(原品の多くはジョージア国内の国立博物館に収蔵されている)。また大聖堂の石細工の装飾は、ジョージアの古いワイン造りの伝統を反映し、ブドウの彫刻が特徴的に使用されている(ジョージアの他の多くの聖堂も同様である)。祭壇にある巨大なキリスト像は19世紀にロシア人画家が描いたものである。現在の大聖堂にあるイコンの大半は20世紀のものであり、中にはジョージア各地の聖堂にある古いイコンやフレスコ画の複製も含まれている。
東面のファサードに残る2つの雄牛の頭は、5世紀の聖堂の名残であり、初期のキリスト教の図像に民間信仰が影響を与えていたことを示すものである。
洗礼盤
大聖堂の入口右側には、4世紀にさかのぼる石造りの洗礼盤がある。これはイベリア王ミリアン3世とナナ王妃の洗礼に使用されたと考えられている。洗礼盤のすぐ後ろには、北面ファサードにあるアルスキスゼの右手と指矩のレリーフの複製が設置されている。
聖墳墓教会の礼拝堂

南側には、大聖堂に組み込まれた小さな石造りの礼拝堂がある。これはエルサレムの聖墳墓教会の礼拝堂を象徴的に複製したものであり、13世紀末から14世紀初頭の間に建てられた。キリストの聖衣がこの地に埋葬されていることから、スヴェティツホヴェリ大聖堂がエルサレムに次ぐ世界で2番目に神聖な場所であることを示すために建立された。
この石造りの礼拝堂の正面、側廊と身廊を隔てる列柱に連なる最も西側の構造物が、聖シドニアの墓を示している。ここにはもともとの生ける柱の遺構も残っており、17世紀に建てられたものである。礼拝堂には、イベリア王ミリアン3世とナナ王妃の生涯を描いた壁画、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世とその母ヘレナの肖像画がある。これらは17世紀に宮廷画家グリゴル・グルジャヴァラサシヴィリが描いたものである。4世紀の聖堂の基礎跡も、この場所で発見されている。
カトリコス総主教座
南側の側廊の列柱に連なる2番目の構造物もまた、17世紀にカトリコス総主教エヴデモス1世の聖座として建設された。今日では、ジョージアのカトリコス総主教の聖座は大聖堂の中心に置く伝統となっているため、現在その機能は果たしていない。
大聖堂の埋葬地
スヴェティツホヴェリ大聖堂は、ジョージア王の戴冠式の地であるのみだけでなく、歴代王たちの埋葬地としても機能した。大聖堂には10人の王が埋葬された記録があるが、実際に発見されている墓は6つだけであり、いずれも祭壇の前にある。ヴァフタング1世の墓は大聖堂の中央にあり、その前には小さな「蠟燭の砦」が置かれている。エレクレ2世の墓は、その上に剣と盾が置かれていることが特徴である。エレクレ2世の息子で最後のジョージア王であるギオルギ12世の墓は大理石でできており、父エレクレ2世の墓の隣にある。また祭壇の前には、ダヴィト6世、ギオルギ8世、ルアルサブ1世の墓のほか、バグラティオニ王家の人々の墓も複数存在する。その中には、ギオルギ11世の王妃タマルも含まれており、タマル王妃の墓碑銘(1684年付)はカルトリ語(アソムタヴルリ)とペルシア語の両方で記されている。
