モーラン (北元)
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生涯
即位以前
『蒙古源流』によると、モーランは1437年(丁巳)に、タイスン・ハーンとアルタガルジン・ハトンとの間に生まれたとされる[3]。しかし、モーランが3歳の時に、タイスン・ハーンとアルタガルジン・ハトンが離縁したため、母方のウリヤンハン(ゴルラト)部で暮らすようになったという[3]。
一方、漢文史料では即位前のモーラン・ハーンに相当する人物をトグス太子(脱谷思太子/Toγus tayiǰi)もしくはトグス・モンケ(忒古絲猛可/Toγus möngke)という名前で記録している。トグス太子が始めて登場するのは1439年(正統4年)のことで、オイラトのトゴン・エセン父子らとともに明朝から賞賜を与えられている[4][5][6]。この記録は『蒙古源流』の「1465年に17歳で即位」という記述と矛盾するが、恐らくは『蒙古源流』の側が「先代のマルコルギスが幼くして即位した」事実と混同して誤った生年を伝えたものと考えられている[6]。
1452年(景泰3年)中にエセン太師によってタイスン・ハーンとその弟のアクバルジ・ジノン、アクバルジの息子のハルグチュク・タイジらが殺害されるという事件が起こった時、トグス太子は脱赤知院・納哈帖木児左丞らとともにエセンの下を出奔したとの報告が明朝にされている[7][8][6]。しかしその後、トグス太子はエセンの支配下に戻ったようで、1454年(景泰5年)2月にはエセンの配下として、アラク知院らとともに下賜を受けている[9][6]。
同1454年末にはエセン・ハーンがアラク知院に殺されるという事件が起き、モンゴリア東部のモーリハイ王らは新たにトグス太子の異母弟であるマルコルギスをウケクト・ハーンとして擁立した。1463年(天順7年)には「マルコルギス(馬児苦児吉思)王・満剌楚王・ボルナイ(孛羅乃)西王・右都督ウネ・テムル(兀研帖木児)等、頭目ハダ・ブハ(哈答不花)」らが明朝に使者を派遣したとの記録があるが[10]、この中の「満剌(mǎnlà)」が「モーラン(Molan)」の音訳であるとする説がある[6]。この説が正しければ、トグス太子は即位前より「モーラン」の名を称するようになっていたようである[注釈 1]。
即位以後
『蒙古源流』によると、即位の前年(1464年)に母方の祖父のチャブダン(シャブダン、沙不丹)が亡くなったため、同じゴルラト部のハブチルという者の所で召し使われるようになった[3]。しばらくしてその家に災いが起きたため、ハブチルが預言者や占い師に聞いたところ、「ボルジギンに悪いことをした天罰である」と言われたので、恐れたハブチルはすぐさまモーランをオンリュート部のモーリハイ(毛里孩、ムラハイ王)のもとに送った[3]。
そして1465年(成化元年/癸酉)[注釈 2]、折しもハーンであるマルコルギス・ウケクト・ハーンがボライ太師によって殺害されたので、モーランはモーリハイによってハーンに擁立された[11]。なお、『蒙古源流』はモーラン・ハーンが即位した時の年齢を「17歳の時」とするが、上述の通り同時代史料の『明実録』の記述と矛盾するため、疑わしい[12]。Buyandelgerはモーラン・ハーンが即位したのは30歳前後ではないかと推定している[6]。また、漢文史料の『北虜考』では、モーリハイ(毛里孩)・オロチュ(阿羅出)・モンケ(猛可)らがボライ太師と争った末に「トグス(脱思)を立てて王(ハーン)とした」と記されており[13]、トグス太子がモーラン・ハーンのことであると分かる[2]。
しかし、即位から僅か1年後の1466年(成化2年/丙戌)にモーラン・ハーンはモーリハイ王によって殺されてしまった。モーラン・ハーン殺害の経緯について、『蒙古源流』は以下の様に伝えている。ある日、ソロンガスのフトゥバガという者がモーラン・ハーンのもとに来て、「モーリハイがあなたの妻サマンディに色目を使い、兵を起こして攻めてきます」と偽ってモーラン・ハーンに兵を起こさせ、一方でモーリハイにも「ムラン・ハーンはあなたを殺してあなたの国人を奪おうとしています」と嘘をつき、両者を争わせた[11]。やがてモーラン・ハーンはモーリハイに敗れ、殺害された。のちにモーリハイはモーラン・ハーンの妻のひとりモングチェイ・ハトンからフトゥバガの謀だったと知り、フトゥバガの舌を切って殺したという[14]。
一方、明朝の側にはモーリハイ自身が一連の経緯を伝えてきたとの記録があり、それによると「ボライ(孛来)太師が近ごろマルコルギス・ハーン(馬児苦児吉思可汗)を殺害したため、モーリハイ(毛里孩)はまたボライを殺害し、後にまた新たなハーン(=モーラン・ハーン)を立てた。しかしオロチュ(斡羅出)少師なる者がいて、モーリハイと争ったため、モーリハイはまた新立のハーンを殺害し、オロチュを追い出した」という[15]。これによると、モーラン・ハーンは早くからモーリハイと対立しており、オロチュ少師と組んで対抗しようとしたが、敗れて殺されようである。なお、『明憲宗実録』には成化2年=1466年の10月にモーリハイがオロチュの「老営」を襲撃したとの記録があり、恐らくは同年9〜10月頃に両勢力の武力衝突があり、モーラン・ハーンは殺されるに至ったものと考えられている[6]。
死後
モーラン・ハーンの死後、モーリハイはしばらく新たなハーンを擁立せず、9年間の空位ののち、タイスン・ハーンの弟であるマンドゥールンがハーン位に就いた。