アラク・テムル
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アラク・テムル(Alaγ temür、? - 1456年)は、15世紀中後期のバートト・トゥメンの統治者。漢文史料上では主に阿剌知院(ālà zhīyuàn)と表記される。「アラク・テムル」はモンゴル年代記の一つ、『アルタン・トプチ』での表記であり、『アルタン・トプチ』以外でのモンゴル年代記ではアラク丞相(Alaγ čingsang)とも表記される。
オイラトのエセンが「土木の変」を起した際にはエセン、タイスン・ハーンと同格の将として一軍を率いており、オイラト内でもエセンに次ぐ有力な領侯であった。その後、タイスン・ハーンを弑逆してハーン位に就いたエセンと対立し、これを殺害するという事件を起した人物として知られる。
出自
14世紀末、モンゴル高原の西北に住まう諸部族は連合してアリクブケの末裔のイェスデルを擁立し、この勢力は後世「四万オイラト(Dorben tumen oyirad)」と呼ばれた。「四万」の指す対象については諸説あるが、岡田英弘はチョロース(ナイマンの後身)、トルグート(ケレイトの後身)、ホイト(オイラトの後身)、バルグト(バルグ・ブリヤートの後身)の四つの万戸(tümen)からなると論じている。
モンゴル年代記の『蒙古源流』では、アラク・テムルを「オイラトのバートトのバガルフン・オトクのアラク丞相(Oyirad Baγatud-un Baγarγun otoγ-un Alaγ čingsang)」と紹介している箇所がある。これによって、宝音徳力根はアラク・テムルがバルグ・ブリヤートを含むバートト・トゥメンの領主であったと推定している。
漢文史料上では、『明仁宗実録』洪熙元年(1425年)正月の記事で安楽王バト・ボロトとともに明朝に使者を派遣した「酋長哈剌」が初見となる[1][2]。また、この記事によって、アラク・テムルは当初バト・ボロトの属下にあったものと考えられている[2]。
これより先、永楽年間のオイラト内では順寧王トゴン(チョロースの長)、賢義王エセク(トルグートの長)、安楽王バト・ボロト(ホイトの長)という三人の有力者が並び立っていた。しかし永楽22年(1424年)に順寧王トゴンが賢義王エセクを殺害し、また上記洪熙元年の遣使からほどなくバト・ボロトも殺されて、順寧王トゴンがオイラトの最高実力者となった。『明宣宗実録』3年(1430年)正月の記事には「ブリヤート・アイマグの王・知院のホン・アラク(卜里牙愛馬王知院荒哈剌=Buriyad ayimaγ-un ong qong Alaγ)」が派遣した使者が「オイラトの掠奪を受けたものの、逃れて明朝の下に辿り着いた」との記録がある[3]。この「ホン・アラク(荒哈剌)」はまさにアラク・テムルのことを指し、「掠奪を受けた」というのは順寧王トゴンと安楽王バト・ボロトとの間の内紛に巻き込まれたことを指すのではないかと考えられている[4]。
さらに、宣徳5年(1430年)5月の記事では、順寧王トゴンの属として「演克(エンケ)・阿剌(アラク)」に下賜があったと記される[5]。エンケは安楽王の弟でありながら、アラクと同様にバト・ボロトを見限ってトゴンの配下についた人物であり、この頃までに旧安楽王家の勢力が完全に順寧王家に取り込まれたことが窺える。
土木の変
1440年頃にトゴンが死去した後、跡を継いだ息子のエセンはさらなる拡大路線を取った。まずは東方のウリヤンハイ三衛を平定した後、正統12年(1447年)春よりエセンは明朝への侵攻を検討するようになった[6]。この時にはタイスン・ハーンの反対によって実行には移されなかったが[7]、正統14年(1449年)に至ると朝貢問題を切っ掛けとしてオイラト軍による明朝領への大侵攻が始まった[8]。
この大侵攻において、オイラト軍は遊牧国家伝統の中軍・右翼・左翼による3軍構成を取った。明側の記録によると、同年7月にエセンは大同方面に、トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)は遼東に、アラク知院は宣府に、それぞれ迫ったという[9][10]。これに対し、明の正統帝(英宗)は自ら親征軍を率いることを決意し、大同に出撃するも、オイラト軍の巧みな包囲追撃を受けて大敗を喫することとなった(土木の変)。さらにこの時、逃げ遅れた正統帝はオイラト軍の捕虜となってしまい、これを受けて北京の朝廷では景泰帝を擁立するに至った。当初、エセンは正統帝を人質として明朝と交渉しようとしたもの。
この時、オイラトと明の間の講和交渉を仲介したのがアラク知院で、元々明朝出兵に消極的であったアラク知院は「土木の変」以前の8月28日には矢文で書状を送り、「我は大頭目であるが、既に年老いており、どうして悪名を負うことができようか。我と爾で講和せん」と申し出たとの記録がある[11][12]。
年が明けて景泰元年(1450年)5月、アラク知院は参政のオルジェイ・トゴン(完者脱歓)を派遣し、明朝朝廷よりオイラト側に使者を派遣し、講和交渉を行うよう申し出た。また、この申出はアラク単独の意志ではなく、皆が講和を求めているものであり、もし信じられないようであればアラクが派遣した使者を人質として一人留めてもよい、とも述べている[13]。
これを受けて、明朝朝廷は「阿剌知院使臣奏言」を信じて礼部右侍郎李実・大理寺右少卿羅綺・指揮馬顕らを7月1日に派遣し[14]、李実らの交渉によって和議が成立すると、8月中には正統帝の帰還を見るに至った[15]。なお、李実らがオイラトに赴く際、独石堡・馬営堡方面を通ったのは、講和の仲介者であるアラク知院の勢力圏であったためと考えられる[16]。
また、アラクの派遣した使者と入れ替わりで、エセン自らが派遣したピール・マフムード(皮児馬黒麻)も明朝に辿り着いている。この時、ピール・マフムードは自らがアラク知院の派遣した使者と違って、エセンとタイスン・ハーンが直々に派遣した使者であることを強調し、自分が帯同しないと、講和は成立しないでしょう(朝廷必須遣大臣同往、庶事有済。不然、恐未易了)と述べたとの逸話がある[17]。
エセンとの対立
こうしてオイラトと明の関係は好転したが、今度はオイラト内部でエセンとタイスン・ハーンの対立が顕在化し始めた。エセンは自分の娘婿でタイスン・ハーンの甥にあたるハルグチュク・タイジを次代のハーンとしようとしていたが、タイスン・ハーンは自らの息子を後継者としようとし、遂に両者は開戦するに至った。この戦役において、アラク知院はエセン側に味方し、最初に哨戒として派遣されたが、1千の損害を出したとの記録がある[18]。
タイスン・ハーンを弑逆することに成功したエセンは遂に自らハーン位に就いたが、チンギスの血統を引かないエセンの即位は各地で反発を呼んだ。一方、『蒙古源流』などのモンゴル年代記によると、エセンがハーンに即位した後、アラクはそれまでエセンが称していた「太師(tayisi)」の称号を譲るよう要求したという。ところが、エセンはこれを断った上、太師号を自らの息子に譲ってしまったため、激怒したアラクはエセンへの反逆を決意したとされる。なお、「アラクが太師号を名乗ることを要求したが、エセンがこれを拒絶したことが両者の対立の切っ掛けとなった」ことは『明実録』『明英宗実録』景泰5年(1454年)10月甲午条においても明記されている。
アラク・テムルがエセンに反逆したことは『明実録』・モンゴル年代記双方で特筆されているが、その内容は大きく異なる。まず、『明英宗実録』景泰5年10月甲午条では次のように述べられる[19]。太師号を巡る問題でアラク知院と対立したエセンは、まず自らの息子を西番に派遣するのにアラク知院の二子を従行させるよう要求した。やってきたアラクの子どもたちの内、まず弟の方を毒殺し、さらに大同王アバボルギ(エセンの弟)らに命じてアラクの長男も殺害させた。これを受けてアラクは更にエセンに敵意を募らせ、3万の兵を率いて出陣し、先に使者を派遣してエセンの罪を糾弾した。これを受けてエセンは決戦が翌日に行われるものと思い、腹心の部下であるバヤン・テムルやボライらと協議していたところ、元々はアラクの配下であった曲卜剌禿僉院・禿革帖児掌判・阿麻火者学士らがゲルの中に入り、エセンとバヤン・テムルらを刺殺してしまった、という[20]。
これに対し、多くのモンゴル年代記はアラク丞相がエセンに攻撃を仕掛けた後、エセンは単身逃れることができたが、飲食を求めて立ち寄った家で素性を見抜かれ、殺されてしまったという逸話を伝える[21]。なお、漢文史料の「北虜考」にもモンゴル年代記とよく似た記述が見られる[22][21]。
この二つの記事について、宝音徳力根は前者が同時代史料であるのに対し、後者は成立がかなり遅れることを指摘し、前者(『明実録』)の記事がより史実に近いと見なす。 また、後者のような逸話が作られたのは、チンギス・カンの末裔にとって因縁深いエセンの殺害が、単にオイラトの内紛のためだけでなくモンゴル側も関係していたとするため、という背景があったと考察している。 なお、『朝鮮王朝実録』の記事によって知院によるエセンの殺害が景泰5年8月のことであったと確認される[23][24]。
アラク・テムルの没落
エセン・ハーンを討ったことにより、トゴン・エセン父子によって築き上げられたオイラト帝国は事実上瓦解し、特にモンゴル高原東部において諸勢力の自立が進んだ。特に、オンリュートと総称されるチンギス・カンの弟たちの末裔が勢力を伸ばし、モーリハイ、斉王ボルナイらによってハーンが擁立された。一方で、アラク・テムルの打倒を主導したのがハラチン部を率いるボライで、『朝鮮王朝実録』によるとエセン殺害(8月)からすぐ、同年10月にはボライによる知院への攻撃が始まっていたという[25]。
『明英宗実録』によると景泰6年(1455年)正月にはボライとアラク知院の抗争による烽火が見えるとの報告があり[26]、同年4月にはボライが勝利を収め、アラク知院が有していた玉宝やエセンの母妻を奪ったと伝えられている[27][25]。
これ以後もなおアラク知院は余命を保っていたようで、同年10月には新たに即位したマルコルギス・ハーンとモーノハイ、ボライらが4万騎を率いてケムケムジュート(坎坎地面、謙謙州)で3万の軍勢を維持するアラク知院を攻めたとの記録がある[28]。これに対応するように、モンゴル年代記の一つ『シラ・トージ』には、エセンの死後に即位したマルコルギス・ハーンは母のサムル太后に連れられて「テス・ブルト(Tes Burutu)」でオイラト軍を撃ち破ったとの記述がある。「テス・ブルト」とは現在のモンゴル国フブスグル県やザブハン県を流れるテス川流域の何処かと推定されるが、この一帯はまさにケムケムジュート(現在のトゥヴァ共和国)の境界に相当する。そもそも、ケムケムジュートはモンゴル帝国時代の本来の「オイラト部族」の居住地でもあり、アラク知院はオイラトの根拠地であるケムケムジュートに逃れ込んで最後の抵抗を試みたようである[29]。
しかし、景泰7年(1456年)8月には「アラク知院は部下によって殺された」ことが明朝に伝えられており[30]、同年前半にアラク知院は死去していたようである[31]。
子孫
モンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』では「オイラトのバートトのバガルフン・オトクのアラク丞相の息子のメンゲレイ・アハラフ(Mongkele Aqalaqu)の娘のグシ・ハトン(Güši qatun)」をダヤン・ハーンが娶り、ゲレト・タイジとウバサンジャが生まれたとの記述がある[32]。この人物を『シラ・トージ』では「オイラトのkeriye qojigir(鳥鴉禿子の意)」とするが、いずれにせよアラク・テムルの子孫がダヤン・ハーンの時代まで健在であったことが確認される。
このケリュー(Keriye)という人物は、「ヨンシエブのケリュー(Yüngšiyebü-yin Keriye)」という名前でも登場し、『蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などでボルフ・ジノンを殺害した人物の一人とされている[33][34]。これに関連して、漢文史料の『九辺考』では「ヨンシエブ(応紹不)」を構成する部族の中に「孛来(ブリヤート)」と「叭児廒(バルグ)」があると記されている。本来はオイラトを構成する部族であったバートト・トゥメン(バルグ・ブリヤートを含む)は、恐らくはその一部がアラク・テムルを破ったボライによって奪われ、ケリューの指揮するオトクとして「大ヨンシエブ」を構成したものと考えられる。
脚注
- ↑ 『明仁宗実録』洪熙元年正月壬辰(二十一日),「瓦剌安楽王把禿孛羅・子亦剌恩及酋長乃剌忽・昂克・脱歓・哈剌・八丁各貢馬、賜綵幣表裏有差。以瓦剌平章猛哥帖木児帰誠朝廷、賜綵幣・表裏有加。賢義王太平貢使桑古台辞帰、就碑齎勅、以即位諭太平、并賜太平綵幣・表裏」
- 1 2 李 2018, p. 28.
- ↑ 『明宣宗実録』宣德三年正月庚子(十七日),「遣勅撫諭卜里牙愛馬王知院荒哈剌、賜綵幣四表裏。荒哈剌在卜剌之地嘗遣使哈里爾馬山来進馬、中途為瓦剌所掠。哈里爾馬山得脱、至京師、言荒哈剌帰向之誠。上嘉而撫之、至是遣帰故有是賜」
- ↑ 李 2018, pp. 31–32.
- ↑ 『明宣宗実録』宣德五年五月丁未(八日),「命瓦剌順寧王脱歓所遣使臣脱火歹為都指揮僉事、餘授官有差。上嘉脱歓之誠、故授脱火歹等以官。命羽林前衛指揮使孫観等齎勅偕往、賜脱歓盔甲・綵幣等物。乃賜其属演克・阿剌等綵幣有差」
- ↑ 和田 1959, pp. 303–304.
- ↑ 和田 1959, pp. 304–305.
- ↑ 和田 1959, pp. 305–307.
- ↑ 『明英宗実録』正統十四年七月己丑(十一日),「是日、虜寇分道、刻期入寇。也先寇大同、至猫児荘、右参将呉浩迎戦敗死。脱脱卜花王寇遼東。阿剌知院寇宣府、囲赤城。又別遣人寇甘州。諸守将憑城拒守、報至、遂議親征」
- ↑ 和田 1959, p. 307.
- ↑ 『明英宗実録』正統十四年八月乙亥(二十八日),「総督独石等処備禦右少監陳公等言。達賊万餘囲龍門城云是。阿剌知院遣我等来講和因繋書于矢射入城。内臣等答言、可説与阿剌知院、爾是好人、素向我朝廷・我皇帝厚加賞齎、未曽相負。今奈何興兵留駕、毒害生霊、賊点頭、然臣等所言而去。少頃又来言、我阿剌知院説、我是箇大頭目、已年老了、如何留一箇悪名、我与爾講和了罷。我亦曽勧也先太師来、不聴我説、可将所射書奏爾朝廷。我亦回稟也先太師、須仍旧往来和好。賊又言、王子軍馬従東来、也先従西来、我従独石・馬営来。我傷了幾処小辺城、我却不是了。事下兵部、議僉謂虜情譎詐、不可軽信。乞行昌平伯楊洪等、厳飭武備、相機戦守務在合宜、以図成功。従之」
- ↑ 和田 1959, p. 321.
- ↑ 『明英宗実録』景泰元年五月辛未(二十八日),「先是、虜酋阿剌知院遣其参政完者脱歓等貢馬請和、辺将留于懐来以聞。文武大臣議請往審其情偽。於是命太常寺少卿許彬・錦衣衛都指揮同知馬政往審。虜使言、欲朝廷差大頭目去阿剌及也先・脱脱不花処講和退軍、如欲迎上皇就奉還京、若不講和、我三家尽起人馬来囲大都、彼時毋悔。且言、此非特阿剌意、凡我下人皆欲講和。如朝廷不信、留我一人為質」
- ↑ 『明英宗実録』景泰元年七月癸卯朔(初一日),「遣礼部右侍郎李実・少卿羅綺・指揮馬顕偕瓦剌知院使臣完者脱歓等使迤北。瓦剌遣書其可汗曰、我国家与可汗自祖宗以来、和好往来、恩意甚厚。往年姦臣専擅、減剋使臣賞賜、遂因小物以失大義、邀留朕兄、傷害軍馬。今各辺奏報可汗尚留辺地、殺掠人民。朕欲命将出師征討、但念人民皆上天之赤子、付朕与可汗者、可汗殺朕之人、朕亦殺可汗之人、与自殺之無異。夫天以赤子付之主管、今乃互相殺害、其逆天莫大焉。朕所以不恃中国之大、人民之衆軽于戦鬪者、恐逆天也。近得阿剌知院使臣奏言、已将各家軍馬約束回営、是有畏天之意、深合朕心。特命使臣齎書幣以達可汗、其益体朕意、以副天心」
- ↑ 和田 1959, p. 324.
- ↑ 和田 1959, pp. 323–325.
- ↑ 『明英宗実録』景泰元年七月壬子(十日),「賜迤北瓦剌使臣宴。皮児馬黒麻等与館伴者言、今関外城池凡十四処、皆為我瓦剌所困、事勢危甚。昨者阿剌知院遣使議和、朝廷尚令人偕往。今我輩乃脱脱不花王及也先所命、朝廷必須遣大臣同往、庶事有済。不然、恐未易了。尚書胡濙等奏其語、命群臣廷議之」
- ↑ 和田 1959, pp. 338.
- ↑ 和田 1959, p. 348.
- ↑ 『明英宗実録』景泰五年十月甲午(十六日),「宣府大同等処総兵等官各奏。屡獲降虜及我軍士自虜中脱回者、皆言虜酋也先為阿剌知院殺死。有定州衛達軍可可帖木児、自也先弟賽罕王部下脱帰、備言也先既殺其主、自称可汗阿剌知院求為太師、也先不許、遂生嫌隙。也先遣其子守西番、俾阿剌二子従行、因令人持薬酒、毒死阿剌次子。阿剌詐報兀良哈、盗己馬、遣使請于也先、取長子回、同追捕之。也先命其二弟歹都王・寨罕王、統衆与俱、臨行、觴阿剌長子、復毒之。行至中途死。阿剌怨益深、紿也先二弟、先渡川、俟其既渡、阿剌統部落三万人、径趨也先所居、先使人数也先三罪曰、漢児人血在汝身上、脱脱不花王血也在汝身上、兀良哈人血也在汝身上、天道好還、今日輪到、汝死矣。也先曰、我今日有災、明日与汝戦、退与其心腹伯顔帖木児特知院・真孛羅平章等坐帳中会議。時阿剌旧部曲卜剌禿僉院・禿革帖児掌判・阿麻火者学士、事也先曰久、也先不之疑。因共趨也先帳中、扳所佩刀、刺也先并殺特知院等、其衆遂散。賽罕王聞阿剌攻其兄、領衆七千、躡阿剌後、欲俟其戦疲、然後乗之。既而也先死、賽罕王棄其衆、乗橐駝十七隻南走、為其下卜児塔追及射死之。歹都王領其人馬西走」
- 1 2 和田 1959, pp. 349–350.
- ↑ 『吾学編』巻69皇明北虜考,「天順初、也先有平章哈剌、欲継也先為太師、言于也先曰、主人衣新衣、幸以故衣賜臣。也先不許、而以其弟平章阿失帖木児為太師。哈剌怒、欲叛也先。也先荒于酒色、又残忍、諸部不悦、稍解散。也先益忌哈剌、聞哈剌且叛、益怒欲攻哈剌、恐不勝、乃召哈剌子飲酒、酒中飲之鴆、哈剌子嘔吐、覚乗走出、不態行、囓指血染箭、令其僕持告哈剌。哈剌陽不知、益敬順也先。也先以哈剌畏己、防稍解。哈剌伏衆、伺也先出猟、襲也先。也先倉皇戦、敗走、従数十騎遁。又恐此数十騎通哈剌、半夜棄此数十騎。与二親信走、道中饑窘至一婦人所、乞漿、婦人飲之、遂去。夫帰、婦言状、夫疑其為也先。急追及之、果也先、殺之、諸部遂分散。而孛来・瘸王子為雄。孛来・瘸王子又弑其主小王子、入寇陝西」
- ↑ 『朝鮮王朝実録』世祖元年八月辛亥,「上与魯山幸箭串観猟、謝恩使花川尉権恭回自大明、復命于駕前。恭奏聞見事件曰、五月三十日到広寧、有被虜唐人金亮・孫剛等、自也先地面逃来。令通事朴枝問、問也先安在。答曰、也先去年八月被阿剌知院殺死、車馬・玉帛尽為知院搶去。其年十一月、知院亦被也先部下孛羅平章殺害、自相攻伐、無有統属。又問、被虜年月。答曰、正統皇帝被囲時随従。又問、逃来日月。答云、今纔十餘日矣。……」
- ↑ 和田 1959, pp. 351.
- 1 2 和田 1959, pp. 364–365.
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年正月辛亥(五日),「宣府総兵官右都督過興等奏。迤北走回人言、阿剌知院殺敗也先、而孛羅平章又与阿剌知院讐殺。只今瞭見煙火密邇辺墻。詔兵部移文各処総兵等官、遣人出境、哨探相機剿捕、勿遺辺患」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年四月戊戌(二十三日),「迤北王子麻児可児遣正副使皮児馬黒麻・鎖魯檀平章・昂克・卯那孩・孛羅遣使臣可可・宛者赤・板達阿里等、進貢馬駝至京言。孛羅以阿剌知院殺死也先、率兵攻之、殺敗阿剌、奪得玉宝并也先母妻」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年十月乙卯(十三日),「兵部奏近得朶顔衛使臣言。北虜脱脱卜花王子麻馬児可児吉思并毛那孩・孛羅等領四万騎欲攻阿剌知院、阿剌屯坎坎地面、亦聚衆三万待之」
- ↑ アルタン・トブチなど他の年代記では「テス・ブルトの戦い」について、サムル太后をマンドフイ・ハトンに、マルコルギス・ハーンをダヤン・ハーンに置き換えて別の時代の出来事であると記している。しかし同時代の明朝の漢文史料を見るとダヤン・ハーンとオイラトのケシク・オロクとの関係は良好で戦争があった形跡はなく、逆にマルコルギス・ハーンの治世にはオイラトとの戦いを示す記述があるため、「テス・ブルトの戦い」はマルコルギス・ハーンの時代の出来事であると考えられている(Buyandelger1997,50-51頁)
- ↑ 『明英宗実録』景泰七年八月丁未(十日),「軍人曹広自虜中回言。虜酋阿剌知院、今年為部下所殺。朶顔三衛往迤北劫掠」
- ↑ 和田 1959, pp. 365.
- ↑ 岡田 2004, pp. 225–226.
- ↑ 岡田 2004, p. 219.
- ↑ 小林 1941, p. 152.
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 谷口昭夫「斉王ボルナイとボルフ・ジノン」『立命館文學(三田村博士古稀記念東洋史論叢)』、1980年
- 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 李志遠『従斡亦剌到輝特——十五至十六世纪忽都合别乞家族及属部研究』、2018年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
- 宝音徳力根Buyandelger「達延汗生卒年・即位年及本名考辨」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』6期、2001年
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