ハダ・ブハ
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ハダ・ブハ(Qada buqa、生没年不詳)は、15世紀のモンゴル高原の頭目の一人。モンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』によるとソロンゴス(朝鮮半島方面を指す)の出であったとされる。
『明実録』などの漢文史料では哈答不花/哈答卜花などと漢字表記される。モンゴル年代記によっても表記が異なり、『アルタン・トプチ (著者不明)』はQadan buqa、『アルタン・トプチ (ロブサンダンジン)』ではQada buqa、『シラ・トージ』ではQudu buqa/Quduγa buqa、『蒙古源流』ではQadu buqaなどである。このために、日本語書籍でもフトゥバガ、ハダボハ、ホトバガと表記が一定しない。
ハダ・ブハが史料上に初見するのは天順元年(1457年)の事で、ボライ太師とボディ・ダルマ知院らによって明朝に派遣されたが、その道中で明軍の器械・馬匹を襲う問題を起こしたと記録されている[1]。また、天順7年(1463年)にはマカコルギス(馬児苦児吉思)王・モーラン(満剌)楚王・ボルナイ(孛羅乃)西王・右都督ウネ・テムル(兀研帖木児)らと名を連ね、「頭目ハダ・ブハ(哈答不花)」として明朝に使者を派遣している[2]。
成化元年(1465年)にはボライ太師によってマルコルギス・ハーンが弑逆されるという事件が起き、その後ボライ太師を討ったモーリハイによってモーラン・ハーンが新たに擁立された。成化2年(1466年)7月には虜賊モーリハイ(毛里孩)・オロチュ(小石)・王子・ハダブハ(哈答卜花)らがともに明朝の辺境を窺っているとの記録があり[3]、この頃ハダ・ブハはモーリハイ王の勢力下にあったようである。
しかしこの年の末、モーリハイ王が擁立したばかりのモーラン・ハーンをすぐに弑逆してしまうという事件を起こしており、その経過をモンゴル年代記は以下のように伝えている。ある時、ソロンガスのハダ・ブハがモーラン・ハーンのもとに来て、「モーリハイがあなたの妻のサマンディに色目を使い、兵を起こして攻めてきます」と偽ってモーラン・ハーンに兵を起こさせ、一方でモーリハイにも「モーラン・ハーンはあなたを殺してあなたの国人を奪おうとしています」と嘘をつき、両者を争わせた。やがてモーラン・ハーンはモーリハイに敗れ、殺害された。のちにモーリハイはモーラン・ハーンの妻のひとりモングチェイ・ハトンからハダ・ブハの謀だったと知り、ハダ・ブハの舌を切って殺したという。もっとも、『明実録』では1466年のハダ・ブハの活動が確認されるため、この時ハダ・ブハが殺されたのは誤りである[4]。なお、一連のモーリハイとモーラン・ハーンの抗争は成化2年末より起こったものと推定されている[5]。
一方、明朝の側では成化5年(1469年)にモンゴル高原での内紛の情報が届けられ、「時にボルナイの部落は互いに殺し合い、三つに分かれた。ボルナイの人馬はケルレン河に行き、ハダ・ブハは西北に行き、故モーリハイの子のオチライは西に行き、また小石(オロチュ少師を指す)ならびにトゴチは圪児海の西に駐留し黄河の凍結を待って大同を、トクトア・ボロトは遼東を襲おうとしている」と記録される[6][7]。これによって、モーリハイの死後までハダ・ブハは存命であったことが分かるが、これ以後のハダ・ブハにかかる記録は残っていない。
脚注
- ↑ 『明英宗実録』天順元年五月丙寅(四日),「迤北太師孛来并阿哈剌忽知院、以上復位、復遣皮児馬黒麻来奏、欲将宝璽来献。上勅諭孛来曰、先有爾処遣使臣進貢、以通誠款、朝廷寵信、特命都督馬政等齎勅并綵緞・表裏、重賜爾等。豈期爾聴信小人之言、変詐不一、輒将馬政等四十九人拘留在彼。及遣哈答不花、送哈銘等回、又従中途殺搶官軍器械馬匹。似此逆天道、背朝廷、法不可容。因此朕内外将校咸奏、欲整飭軍士、声罪致討。朕体上天好生之心、不忍遽加殺伐。今爾又遣使臣来奏……」
- ↑ 『明英宗実録』天順七年六月丁亥(二十九日),「迤北馬児苦児吉思王・満剌楚王・孛羅乃西王・右都督兀研帖木児等、頭目哈答不花等、各遣頭目阿羅出等二百人来朝貢馬、賜宴并綵幣・表裏・紵絲・襲衣有差、仍命阿羅出等齎勅并綵幣・表裏各帰、賜馬児苦児吉思王等」
- ↑ 『明憲宗実録』成化二年七月戊戌(二十九日),「寧夏副総兵張栄等奏。虜賊毛里孩・小石・王子・哈答卜花等、擁衆寇辺。勅諸将協心防禦」。なお、和田清はこの記事を「王子哈答卜花」と読み、ハダ・ブハは王族であると論じた。しかし、宝音徳力根は他のハダ・ブハについての記録で王族であることを示唆する記述は一つもなく、またモンゴル年代記の「ソロンゴスのQada buqa」と同一人物と考えられることから、和田の議論は誤りであると指摘している。
- ↑ 『蒙古源流』では、この他に「マンドゥールン・ハーンが讒言を行ったホンホラの口を斬って殺した」との逸話があり、恐らくは「ハダ・ブハの舌を切って殺した」との記述はこれと混同して創作されたものと考えられる。
- ↑ 和田 1959, pp. 373–374.
- ↑ 和田 1959, p. 384.
- ↑ 『明憲宗実録』成化五年十一月乙未(十五日),「命大同参将都指揮范瑾充游撃将軍、以備延綏等処策応。時孛羅部落自相讐殺、分而為三、孛羅人馬往驢駒、哈答卜花往西北、故毛里孩子火赤児往西、又小石并脱火赤駐圪児海西、俟河凍、欲寇大同、脱脱孛来寇遼東。……」
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
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