ヤーヌス (キプロス王)
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ヤーヌスはジェノヴァで生まれ、当時父であるジェームズ1世は捕虜となっていた[2]。母のヘルヴィスは、伝説ではジェノヴァの創設者であるヤーヌス神からこの名を付けたとされる。
父が王に選出されると、ジェノヴァ人との交渉の結果解放され、ジェームズはキプロスに渡った。なお、この交渉でジェノヴァはキプロスにおける商業的な利権を手にした。ただ、彼らは代わりにヤーヌスを人質として街に残すよう要求した。ジェームズはジョン・バビンという貴族をジェノヴァに送り、ヤーヌスの継父とした。キプロスの歴史家レオンティオス・マカイラスが記すところでは、ジェームズは特別税を導入してキプロス人に塩の購入を義務付け、息子ヤーヌスを人質から解放するための資金を調達したとされる。そして、1392年10月、ヤーヌスが18歳の時ついに解放された。
治世
1398年9月9日に父が死去すると、ヤーヌスはキプロス王位を継承。1398年11月11日にニコシアの聖ソフィア大聖堂で戴冠した。
ジェノヴァとの対立
1402年、ヤーヌスはジェノヴァの支配下にあったファマグスタの奪還を試みた。一部の記録ではアントニオ・デ・カルコというジェノヴァ人がここで司祭をしており、彼はヤーヌスの名付け親であった。ヤーヌスは彼と共謀してこの地をキプロス王国に組み込み、カルコを司教に押し上げることを画策。この陰謀にはレオンティオスの兄弟であるペドロ・マカイラスも関わっていた。彼らは秘密の鍵を使って門を開けて都市に侵入して制圧を試みた。しかし、これらの企ては失敗し、関わった28人が処刑され、都市の支配も失敗した。
ヤーヌスは諦めず都市の奪還を目指し、1403年にはジェノヴァのファマグスタ総督ジャン・ル・メイングルと交渉したがうまくいかなかった。ヤーヌスはキプロス人を動員して3年間ファマグスタを包囲するも失敗。一方のジェノヴァもリマソールの占領を試みたが失敗した。
この2年後、キプロス島は疫病の蔓延や蝗害などで甚大な被害を受けた。1419年から1420年にかけても別の疫病が流行し、ヤーヌスの妻シャルロットも病で死去したとされる。妻の死にヤーヌスも深く傷つき、葬儀後彼女の遺体はヤーヌスから遠ざけられた。
マムルーク朝との戦争
キプロスの沿岸はキリスト教海賊たちの拠点のひとつであったことから、マムルーク朝のスルタンらと交渉したが、キリスト教海賊たちによるエジプト周辺の襲撃・略奪が重なり交渉はうまくいかず、マムルーク朝にとってはキプロスに攻め込む大義名分となってしまった。
マムルーク朝のスルタン、アシュラフ・バルスバーイは、ヤーヌスの治世中頻繁にキプロスに軍を派遣した。1424年には小規模な部隊でリマソールを襲撃し、1425年にはファマグスタを攻撃。その後もラルナカやドロモラクシア、アラディッポウなどを襲撃した。
1426年の夏、マムルーク朝が島に対して大規模な攻撃を開始。アタッラー・ムハンマドとイナル・アル・カキミの指揮のもと、3,000人以上を擁し、マムルーク、チェルケス人、クルド人、アラブ人も含まれ、180隻の船でアヴディムー近郊の島に到着した。リマソールは再び占領された。ヤーヌスは軍を集め、ニコシアからリマソールへ移動した。彼はヨーロッパのキリスト教勢力に助けを求めたが無駄だった。ジェノヴァ人は彼の敵であり、ヴェネツィア人などはエジプトのスルタンとの商業関係を壊したくなかったからである。
1426年7月7日のマムルークとのキロキティアの戦いの後、ヤーヌスはエジプト軍に捕らえられた。彼はカイロでの10か月間の捕虜生活の後、身代金を要求された。捕虜の間、彼の弟であるニコシア大司教ヒュー・ド・リュジニャンがキプロスの管理を引き継いだ。
勝利後、マムルークは再びラルナカを略奪し、その後キプロスの首都ニコシアも襲撃した。王族は要塞化されたキレニアに撤退し、救出された。侵略者たちは島を離れる前に多くの戦利品と捕虜を奪った。
捕囚
ヤヌスはカイロで屈辱を受けた。鎖で縛られ、ロバに乗せられてスルタンの前に連れて行かれ、その後彼は跪き、踏んだ土の9倍の礼拝を強いられた。国内では悲惨な状況に起こった農民らが反乱を起こしており、貴族らがその対応に追われた。ヨーロッパ各国の支援を受けつつなんとか反乱は鎮圧され、その首謀者が処刑されたのと同じ日にヤーヌスも解放され、カイロからパフォスに到着した。