ラジオ西日本
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西日本新聞社久留米支局長だった中原繁登(後の九州朝日放送常務、1982年(昭和57年)没)が発案した。
1950年(昭和25年)ごろNHK福岡放送局のラジオの出力は今の10分の1の10kWで、久留米ではラジオの受信状態が悪く、NHK福岡放送局に久留米中継局の設置を依頼するも実現不可能と言われた。その頃電波三法が成立し民間放送が認められたことから、自らの手で放送局を作るべく中原繁登が設立趣意書を作り、発起人の説得に回った。久留米で営業していた旭屋デパートの社長である中原隆三郎を発起人代表とし、久留米に工場を設けていた、日本ゴム(現:アサヒシューズ)、ブリヂストンタイヤ(現:ブリヂストン)、日華ゴム(現:ムーンスター)が発起人に加わり、1950年(昭和25年)、久留米放送という名称で免許を申請。その後郵政省により放送局開設の基準が明らかにされ、1951年(昭和26年)1月10日を期限に再申請を指示されたことから、1月10日に久留米放送を西日本放送に名称変更し再申請した。
1951年(昭和26年)4月21日、予備免許交付(JOGR、1120KC、500W)。このとき日本初の民放予備免許(民間放送#沿革参照)を受けたのは、再申請した41件のうち16社で、九州ではラジオ九州(現:RKB毎日放送)と西日本放送の2社のみであった。また、当時1都道府県に2波が免許されたのは、東京[1]、大阪[2]、福岡だけであった。
しかし、中原繁登が要請していた西日本新聞社からの支援が得られず、中原隆三郎が朝日新聞西部本社に対して協力を要請するも進展が得られなかったことから開局を断念し、1952年(昭和27年)1月29日に予備免許を返上するに至った。[3]